一
夏休みが終わって最初の講義の日、朝起きられないかもしれないと思ったがそんなこともなかった。天水志穂は夏休み前と同じように、時間に余裕をもって家を出た。
駐輪場に自転車をとめて早足で校舎に向かった。売店の横を過ぎ、その近くの階段を上りはじめたとき、正面から声をかけられた。
「やあ、天水。そんなに急いでどうしたの」
階段を見ていたので、声をかけられるまで前に人がいることに気付かなかった。階段を上りきったところに鷹見凪がいた。
「おはようございます。別に急いでませんよ」
「そう? 小走りしてるみたいだったけど」
二人は並んで歩きはじめた。鷹見の指摘に天水は軽く首をかしげた。
「そうですか? 時間には余裕があるんですけどね」
「何か考え事でもしていた?」
「言われてみれば、……特に何もないですね」
「さいですか」
側面にある入り口から校舎の中に入った。二人とも向かう方向は同じなようだ。
「部長は次の講義はなんですか?」
天水が鷹見に聞いた。
「化学だよ」
「私も同じです。このまま教室に行きましょう」
「そうだね」
二階に上がって教室の前まで行くと、中からマイクを通した声が聞こえてきた。
「待っていようか。それともどこかに移動する?」
「あと二十分くらいですし、ここで待ちましょう」
この校舎の各階には休憩スペースのような空間があり、いくつかの長椅子と掲示板がある。二階の掲示板には一部の講義の名簿や、学校を通したバイトの求人の張り紙などが張られている。
彼女たちは長椅子に腰掛けた。
「よっこいしょ。あ、よっこいしょって言っちゃった」
「言っちゃいましたねー」
「面接の時とかにこれ言ったらウケるかな?」
「どうぞ、おかけください、って言われたときにですか?」
「うん。そこでよっこいしょ、って言いながら座る」
「ウケるウケないはともかく、受からないと思いますよ」
「うまいこと言いおって」
そう言った後、鷹見は窓の外に目を向けた。天水もその視線を追った。遠くの空に大きな積乱雲が浮かんでいる。鷹見はそれを見ているようだった。
「学年が違うのに同じ講義を受けるって、なんか変な感じですね」
天水は積乱雲から視線を外して言った。
「共通科目だからね。一年生が多いだろうけど」
「もしかして、単位がヤバかったりします?」
「んー、まあ大丈夫。今期落とさなければ、きっと」
「ちゃんと確認しておいてくださいよ。へたしたら同学年になっちゃいますよ」
「いや、二年留年しないとなんないから。さすがにそれはない」
鷹見は再び窓の外を見た。
「そういえば」
と、前置きして、
「天水はいつも、さっきみたいに急いでるよね」
そう言われて鷹見の方を向くと、目が合った。
「そうかもしれませんね。ゆっくり歩くのは時間がもったいないって思っちゃいますし、性に合わないんでしょうね」
目的地に長くいるためや、なるべく多くの場所に行くためには移動ははやいほうがいい。止まったり、ゆっくりしたりすると少し焦りを感じ、何かに急かされているような気分になる。
「ふーん」
天水のこたえに鷹見は釈然としない表情を浮かべていた。
チャイムが鳴る前に教室から人が出てきはじめた。二人は写真部のことなどを話して、チャイムが鳴ってから教室に入った。百人程度でいっぱいになる教室の前方の席に座り、しばらく話しているうちに講師が来た。
講義の最中、隣の鷹見は黒板を見ながら何か他のことを考えているようだった。先ほど積乱雲を眺めていたときと同じ顔だと天水は思った。
講義が終わった後、教室から出ようとした天水に鷹見が急に切りだした。
「天水、山登りに興味ない?」