嘘
夢を見ていた。
何度も見る夢だ。同じ夢なのに、いつも思い出せない。
私は暗い廊下を歩いている。
こつんこつんと靴音がやけに響く。
それに同調するかのように心臓が早鐘を打つ。
廊下の奥には扉がある。
その先に何があるのか、私は既に知っている。
扉を開いてはいけない、見てはいけないと頭では分かっているのに、夢の中の私は歩むのを止めない。
扉が近づいてくる。
私はゆっくりと扉に手をかける。
やめろ、開けるんじゃない。
分かっているのに、夢の中の私は扉を開けようとする。
いつもそうだ。いつもそうなのだ。
心と体が乖離している。この出来事は既に決定されている。覆すことが出来ない。
自動的な身体。自動的な経過。自動的な結末。
心が必死に抵抗をする。手が震える。頭が痛い。動悸が激しすぎて吐きそうだ。
やめろ。
やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ。
強く拒絶するが無駄なのは分かっていた。
いつもと同じように扉はゆっくりと開かれる。やはり事実は覆せない。
ぎいぃと軋んだ音と共に、闇が私の前に現れる。
そして、私はまた見てはいけないものを眼にして再び後悔する。
ごめんよ…。
「ごめんよ」
× × ×
気がつくと、私は机に突っ伏していた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。ここ一週間ほどろくに寝ていなかったので、疲れがどっと押し寄せたのだろう。眠る前の記憶がない。おそらくは気を失うように強制的にスリープモードへと切り替わったと思われる。人間の身体というのは良く出来ている。
机の上ではPCが計算を続けていた。こちらも一週間立ち上げっぱなしなのにまだ働けるようだ。冷却ファンの音が心地よい。私もこうなれたらいいのに。
ディスプレイに表示されている時間を見る。3時間ほど眠っていたようだ。私にすれば十分すぎるほどの睡眠時間。寝過ぎたと言っても良い。通りで体が軽い。
そろそろプロセッサを強化しないとなと考えつつ、私は部屋を出た。複雑な解析とは言え、3時間かかっても計算が終わっていないと言うのは少し問題がある。理論上の問題はクリアしているので後は実践するだけだ。午後からでも取りかかろう。こう言うのは早いうちに処理しておくのに限る。
階段を下りると芳ばしい香りが漂って来た。卵を焼いた匂いだ。キッチンのテーブルの上にはベーコンエッグとサラダが置かれていた。後はトーストのみなので、パンを取り出しトースターに放り込む。
「ピノ、ピノ」
作った本人の姿がないので呼んだ。あの夢を見た後だからひどく不安になっていたと言うのもあるだろう。
ハイと声がして、ピノが廊下の向こうからやって来た。どうやら洗濯をしていたようだ。存在を確認して少し安堵した。
「何してるんだ。眠っていたら起こせと言っておいただろう」
心とは裏腹に憎まれ口を叩いてしまった。こう言うところがまだ子供だなと思う。
「指示通りに起こしました」
「嘘をつけ。じゃあ、何でこんな時間まで寝てるんだ」
思いもかけぬ反論に私は少しイラつきながら言った。
そんな私の心の動きなど知ったことではない風に、ピノは微動だにしない。
「起こしたけど博士が起きなかったのです。それはワタシのせいではありません」
「本当か?」
「嘘をついてどうなると言うんですか。第一ワタシは嘘をつけるほど複雑にプログラミングされていません」
確かにそうだ。それは作った私本人が一番よく分かっている。ピノにはインプットと反復学習から自己成長するプログラムを組んであるが、過去の経験から自分の利益、不利益を判断して状況に応じた対応をする事は出来ない。
「そうだったな。すまん。お前がそう言うならそうなんだろう」
私は素直に非礼を詫びた。
「これから朝飯なんだが、良かったらちょっとつき合ってくれないかな。一人で食べるのも退屈なんでね」
「ワタシは洗濯の途中です」
「後回しにして良いよ」
「了解しました」
チンと音がしてトーストがトースターから飛び出したので、それを皿に乗せて席に着いた。熱いパンの上にバターを乗せると音もなく溶けていく。この光景が毎日の密かな楽しみかも知れない。ピノは私の隣に立って食事をしているのをじっと見ている。
「そんなに起きなかったか?」
ベーコンエッグを頬張りながら聞いた。丁度いい塩加減が口の中に広がって行く。最初は炭のようだったピノの料理も最近はかなり上手くなった。
「ハイ。揺すっても叩いても全く起きませんでした」
私は苦笑する。あまり睡眠に時間を要するタイプではないが、その代わり深いのだ。一度寝てしまうと地震が起ころうが火事が起ころうが絶対に起きない。
「このところ、ろくに寝てなかったからな。疲れてたんだろう」
そう言うとピノは「疲れ」と反復した。言葉のデータから意味を検索している動作だ。
「ワタシには分からない感覚です」とピノは答えた。
処理速度が速くなっているなと思った。同じデータへのアクセスの回数が増えるごとに、そのデータへのアクセス経路は強化され最適化されていく。人間のシノプスと同じ原理だ。私はさらに語彙を増やすために新しいデータを与えることにした。こうやって話していると些細なことが抜け落ちているのによく気づくのだ。その都度補完してやった方が効率が良い。
「そうだな、油が切れたときの感覚と少し似ているかな。体中が重くて言うことを聞かなくなるんだ」
辞書的な意味は理解しているようなので、ロボットの体験に照らし合わせるような感じで説明をした。こうすることで彼が人間に近づくとは思わないが、より人間的な表現をすると言うのは会話において重要なことだ。その言葉をピノは黙ってインプットした後、私の方をマジマジと見つめた。
「あまり無理をなさらない方が良いと思います。人間は頑丈ではないようですから。それに…」
何かうなされているようでしたとピノは続けた。
ぎくりとする。
夢の光景が眼前に甦った。
何度も見る夢。
繰り返す過去。
度重なる再生で忌まわしい記憶が脳裏に焼きついて離れなくなっている。
口の中が乾いて、嫌な汗がふき出した。
慌てて水を飲んで気持ちを落ち着ける。
どうしましたかとピノが聞いたが、喉を詰まらせたとごまかしておいた。
こう言う時に相手がロボットで良かったと思う。
「やはりお疲れではないのですか。もう少しお休みになった方がいいと思います」
ピノの言うこともよく分かる。最近の私はかなり無理をしている。あの夢を見る回数が増えたのはそのせいかもしれない。だが、今の私には悠長に休むことなど出来なかった。
もう少しなのだ。
もう少しで実現が可能なところまで来ている。時間がもったいない。
「分かってるんだが、さあ、やっと寝れると言うときに何か思いついてしまうんだよ。思いつくといても立ってもいられなくなるんだ」
私はまたごまかした。言っていることは本当だが、あまり深刻振らない方が良い。ピノに心配をかけるためではなく自分のためだ。ピノに心配という高度な心理はまだ無理だろう。
ピノは「思いつく」と言うキーワードが引っかかったようだ。言葉を反復し、ワタシには無い概念ですと言った。こういったすれ違いがピノと話していると良くある。言語学習機能の弊害でもあるが、これがなかなか面白い。何気ない会話から思考が飛躍するのが何ともスリリングだ。
「そうだな…」と私は少し考えをまとめながら話し出した。
「君は学習することが出来る。そしてその学習や経験を元にある程度思考することも出来る。けれど、思いつくことは出来ない。思いつくって言うのは凄く高度なんだ。発想を飛躍させること、飛躍に気づくこと、その飛躍の論理的な裏づけが取れること、この三つが必要になる。それぞれは単純なシステムだけど、これを関連づけるのは至難の業だな。『思いつく』…多分それが人間とロボットを分ける境界条件だろう」
考えながら話した割にはなかなか面白い発想ではないかと思った。
ピノは私が話した内容を静かにインプットしている。
「ワタシと博士は違うのですね」
突然放たれたピノの言葉にハッとして胸が痛んだ。
もちろんピノに悪気などないのだろう。
彼は私の言葉を処理して、それに対する結論を述べたに過ぎない。
ただ、そのあまりに純粋な反応に自分の言葉の残酷さを感じた。
「そんなことがどうだと言うんだ。お前は俺の大切な家族だ。人間だろうがロボットだろうが関係ない」
姿勢を正して真面目な声で答えた。これだって自分のためだ。私が真剣か真剣でないかはピノには関係ない。人間はいつだって自分のためだけに気持ちを切り替える。
ピノは「家族」と言う言葉を復唱した。今度はデータにアクセスするのに少し時間がかかっている。
「血のつながりでカテゴライズされた人間の集団ですね。ワタシと博士は血でつながっているのですか」
「血はつながっていない。だけど俺はそう考えている。定義の問題だ」
そう言うとピノはいつもの口調で「了解しました」とだけ答えた。
「俺にはもう、妻も娘もいないからな。お前だけが家族なんだよ。お前がいなくなったら俺はひとりぼっちだ」
「ひとりぼっちは嫌ですか?」とピノは聞いた。その言葉が何だか胸をえぐった。
「嫌じゃない。どちらかと言えば好きな方だ。だけどな、あまりにも一人が長すぎると疲れるのさ。俺の仕事は研究だ。研究室に閉じこもって何日もいると人と話す機会なんて無い。学会の時だって発表をするぐらいで特に誰と話すわけでもない。家に帰ってきて、テーブルに座って一人で食事をしていると時々こう思うのさ。自分はこの世界から嫌われて生きてるんじゃないかって」
「だからワタシを作ったのですか」
「そうだ。人間の勝手なエゴだがな。だが、作ったからには俺は責任を持つ。何があっても、どこに行ってもお前は俺の大切なたった一人の家族だ。それは忘れないでくれ」
ピノは再び「了解しました」とだけ答えた。
突然、私の心の中にある闇が大きく口を開いた。
また甦る。
あの光景あの記憶あの後悔。
暗い廊下。
開けてはいけない扉。
扉の向こうには、
向こう側には、
ベッドが、
二台置かれている。
ベッドの上には、
ああ、嫌だ。
見たくない。
もう、見せないでくれ。
ごめんよ…。
ごめん…。
……博士。
私を呼ばないでくれ。
…博士。
頼むから…。
「博士!」と呼ぶ声で私は現実に引き戻された。
見るとピノが私を揺さぶっている。
「本当に大丈夫ですか? 今日はお休みになられた方が…」
大丈夫だと私は答える。ちょっと寝過ぎたんだなと笑ってごまかした。
部屋に戻って続きをやるので、後でコーヒーを持ってきてくれと頼んでキッチンを出た。逃げたかったのかも知れない。
途中振り返り、テーブルの食器を片づけているピノの後ろ姿を見た。
今研究している理論が完成すれば、彼とは別れることにはなるだろう。厳密に言うと、あの「ピノ」とは別れることになる。
ピノのことは心の底から家族だと思っている。それに嘘はない。
それでも私がこれからする事は、残酷なこと以外何物でもないだろう。
正直、自分がしようとしていることが正しいのか時々分からなくなる。
いや、それ以前に正しいことなどこの世に存在するのだろうか。
私は愚かな人間だ。
ひょっとすると同じ過ちを繰り返すだけなのかもしれない。
しかし、そう分かっていても、私には今の研究を続けるしか道がないのだ。
人間は弱い。
その弱さが文明を生んで来た。豊かさを生んで来た。戦争を生んで来た。
抵抗することで人間は喜びと悲しみを手にしたのだ。
だから私は、運命に抵抗しようと決めた。
もう後戻りは出来ない。
「進むしかないんだ」
そう呟くと私は部屋へと向かった。
今の言葉はもちろん自分のためだけに発せられたものだ。
人は嘘をつく。