プロローグ
私は、父を愛している。
だけど、今の父には届かない。
私は、父を愛している。
だから、笑顔で父を殺した。
とある娘
私は走る。
空気を切って走る。
この感覚を、人間は『清々しい』と言うらしい。
私にはその感覚が理解できないことが、少し寂しい。
しかし、ネガティブに思うことは無い。
走っているときの私は、いつだって自由だ。もちろん、完全な自由ではないが、メンテナンススペースに拘束される時間よりは断然いい。
だが、今回の自由時間はもうすぐ終わりだ。
一通りのテスト走行を終えた私は、工場に戻ろうと方向を変える。
工場に戻れば、また退屈な時間が待っている。
でも、悪い場所ではない。
だってそこには、私を待っていてくれる家族がいるのだから。
その家族から、着信が来た。
テスト走行の結果でも聞きたいのだろうか。
私は、速度を落とすことなく通信を繋ぐ。
[刹那、今どこにいる?]
父の声が聞こえる。
「今BM089地点。一通りの試験を終えたところだよ」
私は、電子音で返事をする。
[そうか……良かった。本当に良かった]
父は、ほっとしたように言う。
テスト走行が終わったことがそんなにうれしいのか。
「大げさだなあ。定期メンテだから、心配すること無いのに。これから帰るから、もう少し待っていてね」
私は言う。
[いや、刹那……ウチには戻るな]
……え?
今なんて?
「……どうしたの?」
私は、恐る恐る父に尋ねる。
[ASDが、ガサ入れに来てる]
最悪だ。
私は、走りながら絶望した。
「嘘でしょう……?」
[残念ながら本当だ。今帰って来ると奴らに回収される。だから刹那……お前だけでも逃げろ]
「父さんは……父さんはどうなるの?」
[俺は……もうすぐ逮捕される]
嘘だ。
「嫌……」
[残念だが、これまでだ。刹那、これからはお前一人で生きて行くんだ。そのために燃料を隠しておいた。隠し場所の座標はBN119の裏手地下……]
そこで、父との連絡は途絶えた。
こうして、私は父に捨てられた。
だが、それは父の本意ではない。
だからこそ、父を取り戻さねば。
父を取り戻す戦いが始まった。
とある刑事
イメージで言うとゴキブリ。
キッチンによく出るゴキブリ。
彼は『それ』をそう呼んでいた。
今日もまた酷い夢を見た。
俺は、いつも過去の姿の自分を夢に見る。
傷害や違法薬物売買等々、酷いときでは殺人まで。
いずれも、若いころの俺が行う非行を見る夢だ。
俺は今、ASDの刑事だ。要するに、夢に出てきたような非行を取り締まる職に付いている。
そんな人間が、犯行の光景に怖気付くとはとんだ笑い草だ。
俺は、出来るだけ昔のことは考えないようにしている。
そうしないと俺は壊れてしまうからだ。
しかし、俺が寝て気が緩んだときに「それ」は動き出す。そして、俺の中を動き回って俺を苦しめる。
まるでゴキブリだ。
普段は物陰に隠れてじっとしているが、気を抜いたころにカサコソと不快な音を立てて人間を苦しめる。
まったく、これから職場に行かなくてはいけないっていうのに嫌な気分だ。
後になって思うが、この日は俺の人生で最悪な日だったと思う。
だが起床したばかりの俺、束沢信樹にはそんなことは知る由も無かった。
まったく、嫌な気分だ。