第三章 料理人と見捨てられた被害者
それがいつから存在したかは分からない。
忘れられるぐらい大昔から存在したのかも知れないし、もしかしたら存在自体が嘘なのかもかもしれない。
とにかく、
「アーカイブ・アイズ」
そう呼ばれているインターネットサイトがあった。
そのサイトの特徴を一言で表すならば、「情報の市場」と言う言葉が相応しいだろう。
情報というものを集める際に一番苦労する要素の一つが「情報源を探す」ということだ。
アーカイブ・アイズは、そのような苦労を大きく減らすことに貢献する。
個人IDの入力のみで利用アカウントが獲得できる情報交換の場として。
まず、自分が知ろうとしていることをアーカイブ・アイズ内部の掲示板で公表する。
そして、その情報を知っている人間が、その情報を欲する人間にその情報を与える。
つまり、アーカイブ・アイズは情報を求める者と、情報源を結ぶ仲介役だったのだ。
そのような情報共有を目的としたサイトはいくつもあるが、このアーカイブ・アイズには特異な点が一つ。
一般の人間がまず関わらないであろう情報が、アーカイブ・アイズでは多く出回っているのだ。
例えば犯罪組織の弱みや、頼りになる殺し屋のこと等々だ。
当然、このようなサイトを利用する人間も堅気の人間ではないのだが。
また、情報を欲する者と情報源との間には多額の電子マネーの授受が成立している。情報提供者には情報を買った相手から相応の報酬があることから、このサイトは裏社会に大きく普及することになった。
そして、このような非常識なサイトの存在を成立させている要因が一つ。
「フィクサーX」と呼ばれる正体不明の管理人の存在だ。
情報の入手には信頼性が大きく影響してくる。アーカイブ・アイズを通したそれも例外ではない。
事実、アーカイブ・アイズが普及してきた当初、アーカイブ・アイズ内部で嘘の情報、ガセネタが大きく氾濫していた時期があった。
だが、そうしたガセネタの氾濫はすぐに収まることとなる。
あるとき、アーカイブ・アイズの利用者が連続して殺害される事件が発生した。そして、その被害者たちは一様にアーカイブ・アイズでガセネタを多く流していた人間たちだったのだ。
手口は皆一様に自宅内で刺殺されているというもの。
被害者宅の電子キーにはいずれもスナークされた形跡があったので、犯人は電子キーのハッキングにより、被害者宅に侵入したらしい。
後に「嘘つき狩り」と呼ばれるこの一連の事件が原因となり、アーカイブ・アイズでガセネタを提供する人間は極端に減った。皆、嘘つき狩りの被害者になるのを恐れたのだ。
こうしてガセネタの情報源が減少していったためか、嘘つき狩りも一時を境にパタリと発生しなくなった。
未だ未解決のこの事件。
その後、アーカイブ・アイズ利用者たちの間に犯人に関する噂が流れ始めた。
このようなマネができるのはアーカイブ・アイズの管理者だけだろう、と。
このような事件を起こす際には、ガセネタを流す人間の素性を特定する必要がある。
そして、アーカイブ・アイズの利用アカウント取得にIDの入力が必要になる。
それらの情報は基本的に利用者間では知り得ることは無い。
しかし、管理人ならばその個人情報を閲覧できるだろう。
そうした疑念が利用者たちに圧力をかける。
「ガセネタを流したら、管理人に殺される」
こうして、アーカイブ・アイズの管理人は「フィクサーX」と呼ばれて恐れられるようになり、アーカイブ・アイズの情報の信頼性向上に大きく貢献することとなる。
そして、アーカイブ・アイズは今日も存在している。
社会の暗部の隙間に入り込むように。
■■■□□□
そして、これは全くの余談だが、嘘つき狩りの最後の被害者が一人だけ生存していた。
事件後、その被害者がとある証言を残す。
「俺を襲った奴はよく見えなかった。何せ家に入ったらいきなり後ろから背中を刺されるんだもんな」
「だが一つだけ覚えていることがある」
「玄関に倒れた俺は刺した奴の面を拝もうとして後ろの方を見た」
「そこにはな、二人の人間がいたよ」
「一人は手に血のついたナイフを持った奴。多分こいつが俺を刺した奴なんだろうよ」
「こいつは後ろ姿しか見えなかったし街灯の逆光でよく見えなかったから何とも言えないが、もう一人の方はよく覚えている」
「もう一人の奴は俺とナイフを持った奴から少し離れたところにいた」
「そいつは小柄な体格していて男だか女だかよく分からない顔つきをしている奴だったよ」
「こっちの方を驚いたような顔で見ていたから、多分偶然通りかかっただけなのかも知れない」
「でも倒れていた俺を見つけて通報したのは別の奴だ」
「つまり、その小柄な奴はその後俺を放っておいて逃げたってことになる」
「ナイフを持った奴と小柄な奴は向かい合っているみたいだったが、俺の意識はそこで途切れた」
「小柄な奴は顔もよく覚えているぜ―――」
その後、この証言に出てきた「小柄な奴」の素性はあっさりと特定されることとなる。
その人間とは、誰も予想しない人物だった。
なぜなら、その人間とは現役の警官だったのだから。
それも、エリートと呼ばれる部類の。
小柄な奴の素性が判明したきっかけは被害者が事情聴取の目的でASDの支部の一つを訪れたとき、偶然その場にその警官がいて、なおかつその警官の顔を被害者が見たことだ。
これだけであれば他人の空似である可能性もあるだろう。
しかし、この警官が現場を目撃し、なおかつ被害者を放置した疑いをかけられたときにその警官はあっさりとその疑惑を肯定したのだ。
この事実が表すもの。
すなわち、「現役の警官、それもエリートの警官が死にかけている被害者を放置し、その場を後にした。さらには連続殺人事件に関わっていた可能性さえあり得る。」というエリート警官の不祥事。
この事実を知ったASD上層部はこの事実を即座に隠蔽した。
被害者から異議が出たが、ASD上層部と争う気にはなれないと、訴えを取り下げることとなった。もっとも、この被害者自身も違法業に従事してきたこともあるのだが。
そしてこの警官は事実上左遷され、ASD本部の事務職を命じられる。
元々支部にいた人間が本部に転勤になることは一見すると栄転のようにも見える。
しかしながら、この警官が配属されたのは精神病棟とまで呼ばれる問題警官が多く集まる部署だったのだ。
この警官を左遷することで事態を大きくすることを恐れた上層部にとって、この部署は理想的だった。なにせ、このエリート警官を転勤という名目で左遷することができるのだから。
しかしながらASDの職員たちは思いのほか敏感だった。
この警官は元々優秀なことで知られていた警官だったので、疑惑がかけられたときにこの警官の噂は爆発的に広まった。
そして精神病棟の部署に配属されたことで、この噂はほとんどが真実であると彼らは悟った。
本来であれば、ここまで多くの職員にこのような噂が広まることは無いだろう。しかし、この警官の有能さを妬ましく思う周囲がこの噂の拡散を早めることになる。
そして、この精神病棟の部署に不祥事を起こした警官が配属されたことで、元々孤立していたこの精神病棟の孤立は隔絶へと変化することとなる。
■■■□□□
暗い部屋である人物が思案していた。
その人物が見つめるのは、小型のネットブックのディスプレイ。
ネットブックはその部屋の所有者に抱え込まれていた。
その人物の腕に抱えられたネットブック。そのディスプレイ上では膨大な情報の流れを見ることができる。
そして、その人物はディスプレイに向かって呟く。
「……ミラージュ……」
その人物の素性をする人物は、彼女のことをこう呼ぶだろう。
フィクサーX、と。
■■■□□□
食事処くまや。
一般的なレストランと比べて、かなり小さな料理屋。
地下の一室に位置するこの料亭は、客が十人ほど入れば満員になるほどに狭い空間を有する。
そして、この料理屋を切り盛りするのは一人のオーナー。
田中洋二という名の三十代のこの男。
この男は今でこそ料理屋のオーナーだが、以前ではとある犯罪組織の一員だった経歴を持つのだ。
そして今、開店前のこの小さな料理屋に一人の人間が訪れていた。
田中はカウンターの中から料理の下準備をしながら、この訪問者に静かに声をかけた。
「よぉ、ASDの刑事が俺をパクリに来たか?」
それに対してこの訪問客、真生は相手の顔色を窺いながら答える。
「いや、俺一人じゃあんたを逮捕なんてできないよ。そもそも、俺にはあんたを逮捕する気すら無いんだからな」
「そうか、それを聞いて安心したぜ」
安心したと口では言いつつ、田中の言葉には相手に気を許した調子は全く感じられなかった。
田中の口調は淡々としており、その口調は真生の同僚の信樹の無感情な口調を彷彿とさせた。しかし田中の言葉には信樹のそれには無い鋭さが感じられ、聞く者に威圧感を与えるには十分なものだった。
それも、田中が昔マフィアの一員で、真生が刑事であることを考えれば当然のことであるのだが。
「で、なんの用事で来たんだ? 客として来たんならまだ準備中なんで少し待っていろ」
「……聞きたいことがあって来た。俺が知りたいことを教えてくれれば、それなりの報酬は出す」
真生は極力相手の気に障らないように用件を伝える。
それに対して田中は不思議そうに尋ねる。
「おいおい、あんた仮にもASDの刑事だろ? 俺みたいな奴を頼るよりあんたの仲間を頼るのがいいんじゃないのか?」
「個人的に調べていることなので」
田中は、その答えで事情を察したのか、
「そうか。真面目なあんたらしいな」
と皮肉交じりに返答する。
「で、何について聞きに来たんだ?」
「ええ、これが何だか分かりますか?」
真生はそう言いつつ、小型ディスプレイを取り出した。
「んん―――?」
田中は差し出されたディスプレイを手にとって覗き込んだ。
そこには何も映っていなかった。
「何も映って無いじゃねえか」
「それは今日とある事件現場で発見された、とあるBAの送信ツールの中身です」
「……」
田中は相変わらず鋭い目でディスプレイを見つめている。
「見ての通り、空っぽにされていたんですよ。セカンドタイプのアンドロイドだったら、通信用のツールは必要不可欠なはずです。通信用のソースが全くの白紙になることなんてありえない。これはおかしいのでは?」
「外部からハッキングされたんじゃねえか?」
「はい。俺もそう思いました。しかし、外部からソースに干渉された形跡が全く無いんです。防壁プログラムもそっくりそのまま残っていました。まるで何の干渉も無かったように」
「……それで?」
「このアンドロイドは今巷を騒がせている連続BA略奪事件の盗難品であることが分かりました。俺はこの略奪事件を個人的に解決したいんです。しかし、この事件の担当から外されてしまったんで、あなたに頼るぐらいでしか調べができなくなってしまったんですよ」
「……一つ聞いてもいいか?」
田中は怪訝そうに顔を上げる。
「何ですか?」
「お前、その事件を解決してどうする気だ?」
「盗難されたBAが一般人に危害を加えるのを阻止したいんです。被害に遭ったBAの数を戦力に換算すると相当なものになります。特に先日、彼らはブルーホライゾンから強力な試作兵器を奪取したようでもあります。これだけの戦力の所在がつかめないでいるのは一刑事として看過できないんですよ」
「お前はつくづくお人良しだな。全く、あんたみたいな刑事がたくさんいたらどんだけ良かったか」
元マフィアの構成員としてはあるまじき発言をすると、田中は息を整えて言った。
「お前、興味本位でこの件には関わらないことを勧めるぜ」
「……と、言いますと?」
何らかの思惑ありげな忠告に真生は俄然興味を持った。田中としては関わらないことを勧めたのだが。
「言葉通りだ。この件はお前みたいな一刑事がどうにかできるようなヤマじゃねえよ」
「……」
(ああ、こりゃもう何言っても口割らないな、田中さん)
田中からこれ以上の情報は聞き出せないと悟ったのか、真生は
「分かりました。忠告ありがとうございます」
と言ってディスプレイを懐にしまい、立ち去ろうと出口に向かって歩き出した。
傍から見ると真生が随分あっさり引き下がったように見えるが、真生は田中という人間にできるだけ迷惑をかけたくないという思いから深く追求しないことを選んだのだ。
「待て」
しかし、すぐに田中に呼び止められることとなる。
「お前のことだからこの程度の忠告じゃ止まらないんだろうが、ここからどう動くつもりだ?」
「俺の知り合いにBAの事情に詳しい奴が一人います。貴方からこれ以上の情報を聞き出すのは無理みたいなんで、そいつのところに行こうと思います」
(まあ、ほとんど無気力状態のプログラマーなんだけどな)
真生はそう付け加えるのを我慢した。
「……そうか、まあ気を付けてな」
「はい、今日はありがとうございました」
そう言うと真生は店の出入口から今度こそ外へ出て行った。
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一人になった店内で田中は一人考える。
「……全く、あいつは本当にお人よしだな。その上芯も通ってるから立ち悪りい」
田中はブツブツ独り言を呟きつつ開店の準備を再開した。
そして、最後に一言。
「刺された俺を見捨てた刑事とは思えないな」
この発言を最後に独り言は終わることとなる。
真生は、かつて嘘つき狩りの被害者を見捨てた人間としてASD内部では有名だった。
もっとも、表立ってそのことを指摘する人間は少ないが。
■■■□□□
(田中さんは黙して語らずか……)
真生は、昼休みを利用して田中の店に来ていた。
マフィアとBA、両方の事情に精通した田中なら、今朝回収した送信デバイスの特異性について何か知っているのではないかと考えたのだ。
だが、どうやら無駄足だったようだ。
これから、もう一人の人物を訪ねるところだ。実は、頼れる人間は田中一人ではなかったのだ。
その人物とは、BAの技術に精通した男。セカンドタイプの情報については、彼の右に出る者はいないだろう。
問題は、その人物にどうやって口を割らせるか、だ。
「星山さん、答えてくれるかな……」
その人物、星山武は未だに無気力状態から抜け出せないらしい。
「口を割らせるのに少し時間がかかるか……」
真生の昼休みの間に、星山を答える気にさせるのは難しそうだ。
(今日の午後は休むか……)
そう考えると、真生は携帯を取り出し、職場であるASD本部庁舎の公安部第六課へ繋ぐ。
すると、電話の向こう側から妙なテンションの声が聞こえてきた。
[はーい、こちらASD公安部第六課でーす。只今課長が疲れているため、お仕事の話は受けつけてまっせぇーん]
「……課長、ふざけないでくれます?」
[おお、マッキー。どうしたよ? 俺は疲れて死にたいよ]
上司の言葉は無視して、本題に入る。
「課長、俺、今日の午後休みます」
[んん、何かあったのか?]
鍵坂が問う。
「少し個人的な用事が出来たもので」
[ふーむそうか。お前が休みとは珍しいこともあるもんだな。少しは俺の気が分かったか?]
鍵坂の問いかけに、真生は皮肉で返す。
「安心して下さい。あなたのサボり癖が俺に移った訳ではありませんので]
そう言って、真生は一方的に通話を切った。
■■■□□□
(どうしてこうなった?)
答えなんて出る訳ない。
そんなことは分かってる。
だが、答えを出さずにはいられなかった。
(どうして、こうなった?)
(どうして、どうしてだ?)
自分の中で同じ言葉が何回も繰り返される。
何百回も問うた後、ふと思い立った。
(そうだ、答えが出ないことを考えてしまうならば)
(考えることをやめてしまえばいい)
その考えがきっかけで、星山武は現在に至る。
星山が自宅アパートの玄関の異常に気がついたのは、ちょうどスナック菓子を一袋食べ終わった時だった。
ベッドの上に横たわりながら部屋の入口に目を向けると、そこには見知らぬ人間が一人。
黒のロングヘアーに黒いジャケットが印象的な女性だった。
「……誰だ?」
星山は重い声でその人物に問いかける。星山自身、自らの口で声を発したのは久々なのだが。
凛とした声でその人物は答えた。
「氷咲奏。ライオス霧瀬の友人です」
突然の来訪者の口から知り合いの名前が出てきたことに多少驚きつつも、星山は心中で必死に考えを巡らせようとしていた。
(どうやってこの来客を我が家から追い出したものかな?)
■■■□□□
奏はここに来る前、ライオスからこの星山という人物と接するときの注意を聞かされてきた。
(いいか、アパートの正面口からインターホンを鳴らして入ろうとしても星山は面会を拒絶するはずだ)
(彼にとって、来客は自分を現実に呼び戻すための邪魔者でしかないからね)
(だから仕方ないことだけど……)
■■■□□□
「あなたに聞きたいことがあって来ました」
奏は丁重に、それでいて相手に見下されないように言葉を選んだ。
「誰が入っていいと?」
「悪いけど無理やり入らせていただきました。でも、ここで私のことをASDに通報するのは避けたいでしょう?」
(痛いところを突いてくるな)
確かに刑事なんか呼んだらそれだけで厄介事が増える。星山にとってそれは何としても避けたいことだった。
「でも安心して下さい。聞きたいことに答えてくれたらこれ以上あなたの現実逃避の邪魔はしません」
「……」
星山は、この女の要求に従う他無かった。
■■■□□□
星山武について、奏は事前に調べた。
廃人同然となっているとは聞いていたが、まさかここまでとは。
彼の身体は、あり得ないほどに肥え太っていた。その膨張した身体は、ベッド一面を覆い尽くすかのようだ。
部屋は異臭が漂う。おそらく、長い間風呂にも入っていないのだろう。
しかし不思議なことに、彼のベッド以外は清潔だった。
床に落ちているごみも、今しがた食べたであろう菓子の袋一つのみ。
おそらく、情報にあった執事アンドロイドが清掃しているのだろう。
奏は、ベッドの上で寝る星山の横で部屋の清掃をするセカンドタイプの姿を想像した。
■■■□□□
「つまりBAの略奪については何も知らないと?」
結局、この男から略奪犯の情報は得られなかった。
「ああ、残念ながらテレビは何年も見ていないんでね。そんなことが起きていることさえ今知ったよ」
確かにこの部屋にはテレビが無かった。
それどころか、この部屋には娯楽のためのものは一切なかった。ベッドの上にある携帯ゲーム機一機を除いて。
「そのゲームは?」
奏は星山の身体の脇にある携帯ゲーム機を見ながら言う。
「……これはネットには繋がってないぞ」
「……どうやら、よほど現実から逃避したいんですね」
「まあ、理解されようとは思ってないさ」
「そうですか? あなたの境遇を思えば、その現実逃避を理解できないことはありませんが?」
「……ライオスに聞いたのか?」
「ええ。ただ、あなたは普通の人間と違って長い間現実逃避できるだけの精神力と財力があるだけですよ。ただ、それらもいつまで持つか分かりませんが」
「説教を聞くつもりは無い。聞くことが終わったら帰ってくれ」
奏はこの男が正直好きにはなれそうになかった。
「最後に一つ。あなた、最近はBAの開発は行っていないんですよね?」
「BAどころかアンドロイドの開発は一切行っていないよ。俺がBAなんて面倒なもんに自分から関わろうとすると?」
その言葉を聞いて奏は腑に落ちないと言った顔で問いかける。
「……と言うわりには自分の執事には物騒なプログラムを組み込んでいますね?」
「どういうことだ?」
そこまで言って星山は思い出す。自分の執事アンドロイドのことを。
「そういえばマコトは?」
自分の部屋へはマコトの許可が無ければ入ることはできない筈だ。基本的にマコトが入室を許可するのは星山と親交がある人間に限られる。
それが知り合いであるライオスの友人というだけの人物に入室を許可するとは思えない。
強行して押し入ろうとすれば警備システムが発動する。マコトに備え付けられた警備システムが。
そのマコトがこの場にいないことはどういうことか。
「マコトをどうした?」
星山の問いに奏は冷静な声で答える。
「安心して下さい。破壊はしていない」
そこまで聞いて星山は混乱する。
「どういうことだ?」
「ただ、少し大人しくしてもらっています」
■■■□□□
数分前。
[どなたですか?]
インターホン越しに声が響いた。
抑揚の付いた声であったが、この声はアンドロイドの声であることは奏には理解できた。
「ライオス霧瀬の友人の氷咲奏です。星山武に用があって来ました」
インターホンの向こうにいる人物に丁寧な声で返答しながら奏は思った。
(この声が例のマコトというアンドロイドの声か)
■■■□□□
突然の来客にもマコトはいつも通り対処していた。
「申し訳ありません。主人は誰とも面会はしないと――」
[そうですか。ですが私としましても緊急の用事がございまして]
丁重に拒否した筈だったが、今回の客は簡単に引き下がることはなさそうだ。
だが、マコトにはそんな客に対しても応対するプログラムも存在していた。事実、星山が自ら育てた企業の経営を放棄したときに押し寄せたマスコミのしつこさは予測を上回るものだった。
だから相手が引き下がるまで同じ台詞を何度も繰り返すことで相手が引き下がるのを待つのだ。
相手も、自分が同じ台詞しかしゃべらない機械であると知れば、相手が諦めるのも早くなるだろう。
「申し訳ありません。主人は誰とも面会はしないと申しておりま――」
だが、今回の客は勝手が違った。
「そうですか。ですが私としましても緊急の用事がございまして」
相手が発した今度の台詞は、直接聞こえた。
玄関には先程までインターホン越しに映っていた女の姿が。
マコトは即座に判断した。
(電子キーがハッキングされた)
そう判断してからのマコトの反応は早かった。
(警備システム発動)
それは変形と言ってもよいほどの変化だった。
体の至る部分のカバーがずれ、その下から禍々しい武装が出現したのだ。
両腕の部分にはナイフが現れ、腰部にはスタンガンのような電流の火花が散っていた。胸部から噴出しているガスのようなものは催涙ガスだろうか?
マコトの両腕に出現したナイフが二本同時に奏に向けて飛ばされたのは、警備システムの発動とほぼ同時だった。
両腕の部分から勢いよく飛び出した凶器は確実に奏を射抜く角度で射出され、常人では目視することすら不可能な速度で奏に迫った。
普通の人間であればまず避けられないだろう。マコトはそう計算していた。
だが、奏の行動はマコトの予測を上回っていた。
奏の行動は、簡単なものだった。
避けた。
体を少し横にずらして。
ただそれだけのことだった。しかし、その速さは常軌を逸していた。
マコトが射出したナイフを避けたのだ。
奏が部屋に侵入してからナイフを避けるまでに要した時間は一秒にも満たない。
普通の人間であれば、マコトの攻撃に反応はおろか攻撃を認識することすら敵わないだろう。ナイフはそれほどの速さで射出された。
しかし、奏はマコトの攻撃に冷静に対処したばかりか、ナイフを避けたときの勢いでマコトに接近した。
(破壊される!)
マコトはそう判断した。しかし、反応が追いつかなかった。
奏とマコトの間の距離がゼロになった。
そこから、マコトのメモリーは一時的に中断される。
次にマコトの機能が復帰するときはその三十分後だった。
マコトは自らに起こったことを冷静に分析した。
どうやら、一時的なスリープ状態になっていたようだ。
視覚データのメモリーから察するに、自らの側頭部にある端子からハッキングされ、その影響で機能停止に陥っていたらしい。
自らのCPUにハッキングされたことは初めてだった。
厳重な防壁プログラムを有しているはずの自らのCPUだが、先ほどのハッキングはそういったセキュリティをかいくぐって行われた。
警備システムを出し抜いたことに加え、このハッキング能力。
(あの人物は何者だったのだろうか?)
マコトには理解できなかった。
だが、それよりも重要なのは、部外者の侵入を許したことだった。
■■■□□□
事実、自分の目の前には顔を赤くした主人、星山武が立っていた。
マコトは即座に謝罪した。
「御主人様、申し訳ありません。私は今回の件において―――」
だが、星山の怒号がそれをかき消した。
「この役立たず!」
それが、三年四カ月二十日五時間五十六分十二秒ぶりに自らにかけた言葉だった。
■■■□□□
ライオスは自宅でパソコンと向かい合っていた。教室の片隅に置かれたものだ。
もうすぐ教え子たちが集まる。その前に収集した情報を奏に伝えておこうと考えたのだ。
「やあ、どうだった?」
ライオスはパソコンに接続されたマイクに音声を吹き込む。
音声はすぐさま奏のアドレスに送られる。
すると、パソコンの画面に文字が浮かんだ。
『先程星山と接触しました。星山は今回の件に関しては何も知らないそうです。略奪騒ぎが起こっていることさえ知らなかったようで』
パソコンに表示される文字列は奏からのメッセージだ。
「そう……」
ライオスは残念そうに答える。
『これからどう動くべきか考えていたところです。そちらは何か分かりましたか?』
「君が入手したアドレスの一覧を調べてみたんだけどね、どうやらそのほとんどがセカンドタイプのCPUのアドレスらしい」
『そうですか。そのセカンドタイプのデータは調べられそうですか?』
「もう始めているよ。さすがにこのアドレスが示すセカンドタイプ全ては無理だけど」
『ありがとうございます。では、何か分かったら報告して下さい』
「いや、もう既にいろいろ分かった]
『……本当ですか?』
「このアドレスのセカンドタイプうち一体のデータと現在位置が判明したのさ。まったく、アーカイブ・アイズさまさまだ」
■■■□□□
マコトが体勢を立て直した直後、星山以外の人間の声を認識した。
「取り込み中だったか?」
それは、昨日再会したばかりの人間の声だった。
「おや、これはこれは皆里様。」
玄関に小柄な刑事が立っていた。
普段であれば部外者が開くいことができない星山宅の扉だったが、先程の来客が電子キーをスナークしたことでどうやら電子キーが使い物にならなくなってしまったようだ。
「どうした?この部屋の扉の電子キーが開いているなんて」
(こいつもご主人様に干渉しに来たのか?)
マコトはそう考えた。
事実、その通りだったようだ。
「ちょっとばかり星山に聞きたいことがあって来た。ダメ元でお願いするが、星山に合わせてくれないか?」
星山は先程大声で怒鳴った後、自分の部屋に戻ってしまっている。
(やはりか)
「申し訳ございません。主は誰ともお会いしないと――」
「いや、そこをなんとかだな……」
そこまで言って真生は気づいた。
「この臭い……催涙ガスか?」
真生は知らなかったが、先程この部屋でちょっとした戦闘が繰り広げられたのだ。その過程でマコトが少量放出した催涙ガスは完全には薄まっていなかったようだ。
「やっぱり……なにかあったのか?」
これ以上の部外者の介入を何としても避けたいマコトは言い繕うとする。
「いえ、なにも異状はございませんよ。」
だが、真生はごまかせなかったようだ。
そして、周りを少し見回してみると自分が今しがた入って来た扉の内側に明らかな異状があった。
そこには二本のナイフが突き立っていた。
「……何がった?」
■■■□□□
彼らはアックス抜きで行動しようとしていた。
事がここまで大事になっているというのに、アックスから未だに連絡は無かった。
よって、彼らは完全にアックスを排除する方向で動くことに決めたのだ。
自分たちのトップには新しくスパイクが着任することとなった。
彼らは、ただ自分たちを見下す人間が許せなかったのだ。
見下され、酷使されることがどれほど屈辱的なことか、気付かせてくれたのはアックスだ。
だから彼らは復讐を画策していた。
様々な犯罪組織からBAを略奪することで戦力を貯蓄し、以前彼らを酷使していた人間たちに復讐するために。
だが、だからこそアックスが自分たちばかりを働かせることが許せなかったのだ。
よって、アックスはこの瞬間、彼らの王ではなくなった。