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箱庭と猫 第一部 ―救国の英魂編―  作者: 山本陽之介
エピローグ

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第69話 イゼラ

 アイゼン王国西端。赤茶けた大地が広がる国境の荒野。乾いた風が吹き荒れ、砂塵が私の頬を叩く。


 眼下に広がるのは、大地を鋭利な刃物で抉り取ったかのような巨大な亀裂――〝グレートリフト渓谷〟。


 この谷を越えれば、八英雄の国の同盟相手である「中央諸国」の領域だ。そしてその遥か彼方、二十の国々を越えた先にこそ、私たちの故郷である西方諸国と、大陸を分断するマナの奔流〝星辰のステラ・コロナ〟が待っている。


 岩陰に身を潜めながら、私は東の空を見上げた。手には愛用の長い杖。


 だが、いつも隣で軽口を叩いていた小柄な少年、ディスの姿はない。彼からの定期連絡は、南区での作戦を最後に途絶えている。あの子の勘も、最期には鈍ったのかしら。王都の方角から届いた微かなマナの断絶は、彼がもうこの世にいないことを静かに告げていた。


 その時、背後から砂利を踏む、優雅な足音が聞こえた。


「――お待たせしましたか、イゼラ」


 振り返ると、そこには一人の男が佇んでいた。


 魔法師団副団長にして、裏組織「エヴィス」の協力者、アロイス・ベルンシュタイン伯爵である。上質な服は存在感を示し、その立ち振る舞いには微塵の乱れもない。逃亡者特有の悲壮感も焦燥感もなく、それどころか、奇妙なほどに晴れやかですらあった。


 私は彼の背後、そして周囲に視線を走らせた。誰もいない。


「フリッツ伯爵……いえ、もう一人の〝マタド・ク・シア様〟は?」


 私が問うと、アロイスは喉の奥で嗤った。


「フックックッ……。あちらの〝器〟は壊れましたよ。つい先ほどね」


 アロイスは自身の胸元――心臓のあるあたりを愛おしそうに撫でながら、まるで他人事のように、あるいは面白い喜劇でも見たかのように告げる。


「完全に、跡形もなく消し飛ばされました。あの白き光……あれは驚異ですね。ヒトの身で、よくぞあそこまで至ったものです」


 アロイスの言葉に、悲しみは欠片もない。私はかつて、彼をシア様の熱心な信奉者だと思い込んでいたが、それは間違いだった。


 彼はシアの〝半身《もう片方の翼》〟そのものであり、分かたれた同一の存在なのだ。


 自分自身の一部を失ったというのに、この全能感に満ちた余裕は何なのだろうか。


「ですが、所詮は借り物の器。もしあれがワタシの〝全身〟であったならば、あの程度の攻撃で敗れることなどあり得なかった」


 アロイスは空いた左手で虚空を握りしめる。その瞳の奥に宿る昏い光は、ただの貴族のものではないように見えた。


「惜しむらくは、全身を復活させるのに少々時間がかかることですね。……まあ、良いでしょう。あの少年のおかげで、面白い余興を見せてもらいました」


 彼は動揺などしていない。むしろ面白がっている。まるで自分自身がその場にいて、その破壊を楽しんでいたかのように。


「……私の半身をフリッツに仕込んで、囮になっていただきましたからね」


 アロイスの口が三日月のように吊り上がる。その特徴的な嗤い。


 私は息を呑んだ。彼は「半身」を失ったことなど意に介していない。この状況すらも、彼にとっては退屈しのぎの一幕に過ぎないのだ。


 その時、上空からバサリと重い羽音が響いた。見上げると、巨大なフクロウ型の怨獣――ストリクス・ヴァニティが、主の気配を追って降下してくるのが見えた。その背には誰も乗っていない。


「さて、参りましょうか。西へ」


 アロイスの言葉に頷き、私は長い杖を背負い直すと、地上数メートルまで降りてきた怨獣へと歩み寄った。


 ストリクス・ヴァニティが低く身を屈めると、私はその太い脚を足場にし、柔らかくも強靭な羽毛を掴んでその背へと這い上がった。


 巨大な怨獣の背に乗った感触を確かめ、中央の安定した位置に腰を下ろす。遅れてアロイスが、重力を無視した軽やかな跳躍で私の後ろへと飛び乗った。


「次はどうなさるおつもりですか?」


 私が問うと、アロイスはつまらなそうに鼻を鳴らした。


「さあ、どうでしょうね。計画などというものは、所詮予定調和」


 彼は振り返りもしない。アイゼン王国での敗北も、半身の消滅も、彼にとっては過ぎ去った些事。


「風が吹けば桶屋が儲かるように、私の気まぐれが世界をどう狂わせるか。……先の見えぬ混沌こそが、最高の愉悦なのですよ」


 ストリクス・ヴァニティが大きく翼を広げ、荒野の空へと舞い上がる。眼下に広がるグレートリフト渓谷を越え、物語の舞台は、東から西へと移ろうとしていた。


 西へ向かう風の中で、私は小さく息を吐いた。私の胸元から、あの手紙はもう無くなっている。


 滑稽な話だ。私が希望を託したのは、名高い騎士でも、高名な魔法師でもない。あの日、王都の薄暗い路地裏で出会った、茶髪に眼鏡のハンター。名前はたしか……『リオン』。


 分かっているのは、彼がディスの殺意に満ちた奇襲を、まるで散歩の途中で小石を避けるように防いだということ。


 そして、安っぽいハンターを演じながら、私たち【エヴィス】の正体に気づいていたような、底知れない視線を隠し持っていたことくらい。


 でも、だからこそ――私の「感覚」が叫んでいる。


 後ろで嗤うこの男は、人の心を操り、絶望を演じさせる天才だ。誰も彼から逃げられない。けれど、あの夜の彼は違った。


 ディスの鋭い勘が「殺せ」と告げたのに、彼は飄々とその場を支配し、最後には「次なんかねえよ」と舌を出して私たちを煙に巻いた。あのふざけた態度の裏に、この怪物を出し抜ける「何か」を感じた。


 理屈じゃない。ただの女の勘、あるいは縋るような願望かもしれない。


 それでも、完璧に組み上げられたこの絶望的な「予定調和」を壊せるのは、聖剣を持つ勇者なんかじゃない。


 あの夜、闇の中で道化を演じてみせた、あの「食えない青年」だけだ、と感じる。


 根拠なんてない。


 ただ、あの時感じた戦慄だけを信じて、私は西の空を見上げた。


 私の名前はイゼラ。イゼラ・ムーン。


 ルーメン神教国によって支配されたムーン公国の第三公女。


 私は手紙を置いてきた。


 いずれ、あの時会った青年――『リオン』が、この手紙を手に、西の地へ来てくれることを願って。





「箱庭と猫」 第一部 ―救国の英魂編―  完


これにて、第一部完結でございます。

第5章の予定話数は15話だったんですけど……10話多くなりました。


第二部は現在執筆中。

新たな枠で、不定期に投稿いたしますので、読んでくださる方は気長に構えていただければと存じます。


山本陽之介

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