第68話 箱庭と猫
緊急王族配信から数日が過ぎた、ある日の王宮。
事後処理に追われていた喧騒もようやく落ち着きを見せ始めた頃、王の私室には、この国の中枢を担う者たちが集められていた。
国王ニクラウス、第三王子ハンス。
そしてアイゼン王国四柱「テトラルキス」――騎士団長アルフォンス、魔法師団長ハンナ、魔道具開発局長オスヴァルト、元第一王女エリーザ。
さらに、王の影として控える執事長トーマスと、部屋の隅に静かに座る一匹の黒猫――ノワル。
普段であれば軽口の一つも飛び交うところだが、今の室内に満ちているのは、厳粛な静けさだった。
その中心には、一人の男が跪いていた。
第一王子、オリバー・アイゼン。
憑き物が落ちたような顔をした彼は、震える手で懐から一つの古びた「護符」を取り出し、掲げた。
それは、15歳の聖地巡礼の折、闇の大聖霊オスクネスから賜ったもの。しかし、5年前の聖霊命で次期王に選ばれなかったあの日から、彼が身につけることをやめていたものだった。
「……【抑制の護符】」
オリバーが、自嘲気味にその名を口にする。
「これが私に与えられた護符の名だ。内なる野心を抑え、己を律するための楔……。私はそれを、王になれなかった自分への当てつけのように外してしまった」
オリバーは護符を握りしめ、悔恨に顔を歪める。
「この護符さえ身につけていれば、心の隙間を『虚飾』に付け込まれることもなかっただろう。……私は、自らの驕りで身を滅ぼし、国を危機に晒したのだ」
その独白に、重苦しい空気が流れる中、パタリ、と手帳を閉じる乾いた音が響いた。
「やはり、推測通りでしたか」
部屋の影になる位置に佇んでいた眼鏡の男――第二王子、ダミアン・アイゼンが静かに歩み出る。彼は眼鏡の位置を直しながら、兄オリバーを真っ直ぐに見据えた。
「ダミアン……」
「私の持つ【探求の護符】は、3年前から兄上の内側に芽生えた異質な熱量……『外部から刻まれた野心』を観測していました」
ダミアンは淡々と、しかしどこか自責の念を滲ませて語る。
「私はそれを知りながら、研究者としての『観察』を優先し、介入を避けてきた。……兄上が護符を外したことが引き金だったとはいえ、その変化を見過ごした私にも、同等の罪があります」
ダミアンは深々と頭を下げた。常に論理と客観性を重んじてきた彼が、初めて見せた「家族」としての感情だった。
その言葉を聞き、ニクラウス王が深く息を吐く。そして、黒い毛並みを艶やかに光らせる猫に視線を向けた。
「ノワル殿。……オスクネス様は、こうなることを見越しておられたのか?」
黒猫――ノワルは、猫の姿のまま、紫色の瞳で静かに答える。
「大聖霊様は、未来を予知するわけではございません。ですが、人の魂の色をご覧になります」
ノワルの視線が、オリバーを、そしてダミアンを見渡す。
「オリバー様。オスクネス様は、貴方様の能力を高く評価しておられました。ですが同時に、その奥底に潜む『野心』という危うさも見抜いておられた。だからこそ、その護符を授けられたのです。貴方様が道を踏み外さぬように」
その言葉に、オリバーは俯いた。掌の中にある古びた護符。それは、彼を守ろうとした聖霊の慈悲そのものだったのだ。
「……オスクネス様は、しっかり見抜いてらっしゃったんだな。私の弱さを、愚かさを」
オリバーの目から、今度こそ真実の涙がこぼれ落ちる。ニクラウスは椅子から立ち上がり、息子の肩に手を置いた。
「気付くのが遅すぎた、ということはない。……オリバーよ、その護符を再び身につけよ。そしてダミアンよ」
王の視線が、眼鏡の第二王子へと向く。
「其方はその観察眼で、ハンスを支えよ。次代の王となる弟を、その目で見守り、導くのだ。それがアイゼンの王族としての、其方の責務である」
「……承知いたしました」
ダミアンは短く応え、傍らに立つハンスへと向き直る。ハンスもまた、兄たちの言葉を噛みしめるように、力強く頷き返した。
親子の和解、そして国の再生が始まった瞬間だった。その様子を、部屋の壁際で見守っていたテトラルキスたちが、安堵の表情で見交わす。
「やれやれ。これでやっと枕を高くして眠れるわね」
ハンナが肩の力を抜き、隣のアルフォンスが「全くだ」と短く同意する。オスヴァルトとエリーザも、顔を見合わせて微笑んだ。
それを見届けたノワルは、一礼すると音もなくその場から姿を消した。 報告すべき主のもとへ帰るために。
次元の狭間にある「箱庭」。
屋敷の裏庭には、常春の陽光が穏やかに降り注いでいた。
戦いの緊張から解き放たれ、レオは芝生の上に仰向けに寝転がっていた。
あの戦いでレオの内臓の至る所が、致命的なダメージを受けていた。だが、癒の聖霊が宿る聖女シルビアに、ほぼ全快にしてもらった。
その時、驚くほどシルビアに説教されたことを思い出し、レオは苦笑を浮かべる。
そして、現在。そのボロボロだった腹の上には、小さな重みがある。
「ん……」
耳折れ猫のエクレアが、レオの上で丸くなり、幸せそうに寝息を立てていた。発したのは、寝言のような短い一音だけだ。
「あーっ! 蝶々なのです! 待つのです!」
その周りを、足の短いチビ猫のマロンが、ひらひらと舞う蝶を追いかけて元気に走り回っている。
「マスター! 早くご飯にするっス! ボク、お腹ペコペコっスよ!」
三毛猫のルジュがレオの顔を覗き込み、待ちきれない様子で鼻先を押し付けてくる。
「がっつくなよ、ルジュ。レオだってゆっくりしたいんだろ」
白猫のクラルテが呆れたように言いながら、レオの横に座って尻尾をパタパタと揺らした。
「あら、食事の前に身だしなみを整えるのが淑女ですわよ」
長毛猫のリゼが、優雅に毛繕いをしながらたしなめる。
「そうね。平和ボケしてだらけるのは美しくないわ」
灰猫のシャルルも同意し、丁寧に前足を舐めていた。
「んふふ。アチキは一眠りしてからでも遅くはないでありんす」
キジ白猫のフローは、日向ぼっこを決め込み、艶やかに目を細めてあくびをした。
平和な時間。かつて英雄ショウが愛し、今はレオが守ると誓った家族たちとの日常が、そこにはあった。
レオは眩しそうに空を見上げ、ふっと口元を緩める。
その時、屋敷の壁際に並ぶ八つの「飾り小屋」のうち、最も端にある小屋が淡く輝いた。
アイゼン王国の意匠が施されたその小さな扉が開き、中から音もなく、漆黒の毛並みを持つ一匹の猫が姿を現す。
王宮での最後の仕事を終え、戻ってきたのだ。
ノワルは恭しく一礼すると、いつもの定位置であるレオの足元に座る。
「ただいま戻りました、レオ様。王宮での事後処理、すべて滞りなく完了いたしました」
「お疲れさん。大変だったろ? 特にエナド関係は」
今回の騒動では、王都にあるハンターズギルドの各支所が戦場となり、特に西区支所に至っては、ハンナの極大魔法によって跡形もなく消滅している。連合組織であるエナドとの折衝は、本来なら外交問題に発展しかねない案件だ。
だが、ノワルは涼しい顔で答える。
「いえ。レオ様が事前に各所へ根回しをしてくださっていたおかげで、そこまでの騒ぎにはなりませんでした。被害を受けた施設の再建費用も、全額アイゼン王国が負担することで話はまとまっております」
「そりゃよかった。まあ、国を守るための必要経費ってことで納得してもらえたか」
「ええ。それに、臨時のハンターズギルドも、既に建設が完了しております」
「もうか? 早いな」
「地属性の魔導士たちが総出で当たりましたから。仮設とはいえ、立派な石造りの建物が一夜にして建ちましたよ」
「へえ……。改めて思うけど、魔法の技術ってのは凄いな」
レオは感心したように唸る。科学文明の知識を持つ彼から見ても、魔法による建築速度は常識外れだ。
「それと、もう一つご報告が」
ノワルが声を潜める。
「魔法師団副団長、アロイス・ベルンシュタイン伯爵の行方が分からなくなっております」
「……そうか」
レオの反応は薄かった。驚きというよりは、予想通りといった顔で小さく頷く。 今回の黒幕の一人であるシアと繋がっていた男だ。形勢不利と見て、混乱に乗じて姿を消したのだろう。
「屋敷も既に空でした。おそらくは、西へ逃亡したものかと」
「まあ、今は放っておこう。深追いは禁物だ」
「御意」
不穏な種は残ったが、今は目の前の平穏を噛み締めるときだ。紫色の瞳が、レオと、彼を取り囲む仲間たちを優しく見つめる。
レオは身体を起こし、膝上にずるずると下りてきたエクレアを撫でながら、笑顔を向けた。
「おかえり、ノワル。……少しはゆっくり休めよ」
「ええ。ありがとうございます、レオ様」
ノワルもまた、主の横で丸くなり、目を細める。だが、ふと思い出したように、紫色の瞳をレオに向けた。
「そういえばレオ様。ご報告がもう一つ」
「ん? アロイスの件以外にか?」
「ええ。情報広報局長、フリッツ・ペルレ伯爵についてでございます」
その名が出た瞬間、周囲の聖猫たちがピクリと耳を動かした。
今回の騒動の首謀者の一人であり、国境の荒野でレオが対峙した「虚飾」の依代となっていた男だ。
「彼については……レオ様が固有魔法オリジンで『無』に還されましたので、当然ながら遺体はございません。公には、混乱に乗じて行方をくらませた重要指名手配犯として処理することになりました」
「まあ、そうなるよな。俺が消しちゃったわけだし」
レオは苦笑して頭をかく。あの時、レオが放った≪時空回帰・白≫は、対象の色と情報を奪い、存在そのものを消滅させた。証拠など残るはずもない。
「ですが、彼の屋敷と、経営していた酒場『メヒスメノス』への家宅捜索は完了しております。そこから、彼らが率いていた情報局の裏組織――『夜声』に関する名簿や資料が多数押収されました」
「『夜声』か。アロイスが預かっていたっていう、汚れ仕事専門の連中だな」
「はい。その資料のおかげで、王都に潜伏していた構成員のほとんどを拘束することに成功いたしました。これで、王宮の裏側に巣食っていた膿も、あらかた絞り出せたかと」
「そっか。……フリッツ自身はずっと前に死んでいて、体を乗っ取られていただけなんだよな」
レオは、荒野で消えゆくフリッツの姿を思い出し、ふっと遠くを見る目をした。
ダミアンの研究資料やカドリーからの情報によれば、マオンは生物、あるいはマギリアクターを積んだ精巧な器にしか憑依できない。フリッツ・ペルレは、すでに亡き者となったその肉体を、3年もの間、虚飾の怪物を繋ぎ止めるための「器」として利用されていたに過ぎないのだ。
「ええ。彼もまた、虚飾の犠牲者と言えるでしょう。彼の魂がどこにあるのかは分かりませんが……」
「あの身体を消滅させたことで、少しは安らかになれていればいいんだけどな」
「きっと、感謝されていると存じますよ。あのような怪物に弄ばれるより、レオ様の手で終わらせてもらえたのですから」
「……だといいな」
レオは小さく呟くと、気持ちを切り替えるように大きく伸びをした。
「よし。湿っぽい話はこれでおしまいだ。今は、平和な時間を楽しもうぜ」
「御意」
不穏な種は残ったが、今は目の前の平穏を噛み締めるときだ。
紫色の瞳が、レオと、彼を取り囲む仲間たちを優しく見つめる。
陽だまりの中、八匹の聖猫と一人の青年。
彼らの冒険はまだ始まったばかりだ。
第5章 ―黎明ヲ謳ウ― 完




