第67話 箱庭へ
王都エルンツ、シュタール宮殿「王の執務室」。
張り詰めた沈黙の中、ニクラウス王の肩に乗った黒い蜘蛛のぬいぐるみが、前脚を上げた。
「終わったッチュ」
キュートの声が、緊張に満ちていた室内の空気を揺らす。
ニクラウスが身を乗り出し、食い気味に問う。
「どうなった? あの『虚飾』は……聖猫殿たちが撃退してくれたか?」
相手は千年前の災厄を引き起こした元凶であり、聖霊と対をなす強大な存在。伝説の聖猫たちが束になってようやく退けられるかどうか、という相手だとニクラウスは認識していた。
だが、キュートは頭部を横に振る。
「違うッチュ。レオが……あいつの存在ごと、消し去ったッチュ」
「なに? レオだと? 聖猫たちではないのか?」
ニクラウスは目を丸くし、思わず声を張り上げた。
「マオンをか? あれは聖霊に匹敵する、概念に近い存在だぞ。それを、ヒトの身であるレオが単独で滅ぼしたというのか?」
「聖猫たちも戦ったけど、トドメはレオだッチュ」
キュートは興奮を抑えるように、ニクラウスの肩の上で身震いした。眷属と共有した視界に焼き付いた、あの光景を反芻する。
「あんな魔法、カドリー様だって見たことないッチュ。八つの属性すべてのマナを、あんな小さな一点に、極限まで圧縮して……」
キュートの前脚が、空中で円を描く。
「色が混ざり合って、最後には『白』になったッチュ。爆発もしない、音もしない。ただ触れただけで、マオンの『色』を奪い、輪郭を透明にして……『無』に還したッチュ」
「無に……」
ニクラウスが絶句する中、キュートは感嘆の声を上げた。
「聖霊の固有魔法には劣るかもしれないけれど、それでも凄かったッチュ! ヒトの領域は完全に超えていたッチュ」
「時空の情報そのものを書き換える、聖なる領域の御業……。聖霊王ベル・ラシル様の加護なしで、そこまで到達するなんて」
ニクラウスは言葉を失い、重厚な執務椅子に深く体を預けた。
戦慄と、畏怖。そして、そんな規格外の力を持ちながら、国のために戦ってくれた孫への、深い感謝と誇り。それらが入り混じり、王の肩を震わせる。
「そうか……やったか、レオ。お前は、本当に……」
「それだけじゃないッチュ。宰相アルブレヒト・クプファー公爵。あいつが大罪紋の力を使って抵抗したが、ノワルが制圧したッチュ。今は拘束されているッチュ」
「アルブレヒト……やはり」
ニクラウスは目を開けた。「影の王族」としての悲願、そして歪んだ野心。それらが「虚飾」と結びつき、国を亡ぼす火種となっていた事実。
だが、それも今、全て終わった。
「陛下」
傍らに控えていた側近、トーマス・モントシュタインが静かに進み出る。
「すべてが終わりましたな。……ですが、これからが正念場にございます」
ニクラウスの瞳に、再び王としての強い光が宿る。
「うむ。国民は不安に揺れている。オリバーの凶行、魔獣の襲撃、そして……死んだはずの余の生存」
ニクラウスは立ち上がり、窓の外、夕闇に包まれつつある王都を見下ろした。
「隠し事はもうすまい。真実を……この国を救った英雄たちの名を、正しく国民に伝えねばならん」
王は振り返り、力強く宣言する。
「緊急王族配信を行う。これより『幻灯の間』へ向かうぞ。クロース家の帰還を、大々的に国中に知らせるのだ」
「御意」
トーマスが恭しく頭を下げる。
「参りましょう。新たな時代の幕開けを、国民に告げるために」
国境の荒野。
戦いの痕跡が残る大地に、夕陽が差し込んでいた。
レオは、呼吸を整えながら、眩しそうに空を見上げる。周囲には、武装を解除し、元の姿に戻った八匹の聖猫たちが集まっていた。
「終わったな」
レオが呟くと、足元の黒猫――ノワルが、静かに見上げた。
「ええ。お見事でございました、レオ様」
「はんっ。ま、最後だけはかっこよかったんじゃねえか?」
白猫のクラルテが、そっぽを向きながらも嬉しそうに尻尾を揺らす。
「マスター! お腹すいたっス! 帰ってご飯にするっス!」
三毛猫のルジュがレオの足に擦り寄る。
「まったく……。でも、そうね。お母様のご飯が恋しいわ」
灰猫のシャルルが、やれやれといった様子で毛繕いを始めた。
「そうですわね。少々埃っぽかったですけれど、皆様、素敵でしたわ」
長毛猫のリゼが、優雅に前足を揃えて座り、同意する。
「んふふ。アチキも疲れんした。早く帰って、一服したいでありんす」
キジ白猫のフローが、艶やかに目を細めてあくびをした。
「ん。あるじ、だっこ……」
耳折れ猫のエクレアが、レオの足元でコロンと転がり、眠そうに前足を伸ばす。
「あーっ! エっちゃんが限界なのです! レオ様、早く帰るのです! お風呂なのです!」
足の短いチビ猫のマロンが、エクレアを心配そうに覗き込みながら、元気よく声を上げた。
レオは仲間たちの言葉に微笑みながらも、ふと、視線を虚空へと彷徨わせる。
マタド・ク・シア。虚飾のマオン。
確かに、レオの固有魔法である≪時空回帰・白≫でその存在は消滅した。手応えもあった。だが、消える瞬間のあの感覚。
あまりにあっけなかったのではないか。あれは本当に「本体」だったのだろうか。それとも、まだ何かが――。
思考の沼に沈みかけたレオの耳に、心配そうな声が届く。
「レオ様?」
ハッとして見下ろすと、ノワルが紫色の瞳でじっとこちらを見上げていた。
「いかがなさいましたか? 浮かないお顔をされていますが」
「……いや」
レオは一瞬、口を開きかけたが、すぐに首を横に振った。
今は、この勝利を喜ぶべきだ。懸念があるなら、また調べればいい。今は、待ってくれている者たちがいる。
レオは思考を切り替え、晴れやかな笑顔を聖猫たちに向けた。
「なんでもない。それじゃあ、帰ろうか」
レオは【ベルコネクト】を取り出し、空間にかざした。
虹色の光と共に、見慣れた質素なドアが現れる。
それは、戦場から日常へ。
レオがドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。
「俺たちの〝箱庭〟へ」




