第61話 八聖猫
ベル歴995年、水の月24日、正午。
アイゼン王国西端。クプファー公爵領を抜け、西方諸国との境となる「グレートリフト渓谷」の手前に広がる広大な荒野。
乾いた風が砂塵を巻き上げ、視界を赤茶色に染める不毛の大地を、一台の漆黒の魔導車マナビークルが疾走していた。
車内は、高級な革張りシートと静音結界により、外の荒涼とした景色とは隔絶された静寂に包まれている。後部座席には、宰相アルブレヒト・クプファー公爵と、情報広報局長フリッツ・ペルレ伯爵――その肉体を乗っ取った「虚飾」のマタド・ク・シアが座っていた。
アルブレヒトは窓の外、荒野の地平線の彼方に揺らめく、天を衝くようなマナの奔流を睨みつけ、不安げに口を開く。
「シア様。間もなく国境の絶対防衛線、グレートリフト渓谷ですが……一つ、お伺いしても?」
「なんでしょう、アルブレヒト公」
「この荒野の先には、大陸を分断する大渓谷と、そこから噴き出す『星辰の冠』がございます。東西の往来を拒む魔性の隔絶地……。空路ですら命懸けとなるあのマナの嵐を、如何にして越えるおつもりで?」
アルブレヒトの問いは、この世界に生きる人間にとっての常識的な恐怖だった。 遥か神話の時代より、東の八英雄の国々と、西の諸国を隔ててきた物理的かつ魔術的な絶対障壁。
シアは眼鏡の位置を直しながら薄く笑った。
「フックックッ……。相変わらず、ヒトという種は臆病ですね」
「し、しかし……」
「貴方たちにとって、あれは拒絶の壁かもしれません。ですが、我々にとっては力の源泉であり、深淵への入り口に過ぎないのです」
シアは窓の外へ視線を向ける。その瞳の奥には、アルブレヒトには見えない何か――かつて自らが解き放とうとした災厄の気配が映っているようだった。
「心配には及びません。向こう側では、我が同胞たる『エヴィス』の手引きも整っております。冠の裂け目を通る『裏道』への案内人が待機しているはずですよ」
「なんと……。神教の裏組織は、あの嵐の抜け道さえ掌握しているのですか」
アルブレヒトが感嘆の息を漏らした、その時だった。
突如、車体が激しい衝撃と共に前につんのめる。タイヤが悲鳴のような摩擦音を上げ、車内が大きく揺さぶられた。
「な、なんだ!?」
アルブレヒトが前のめりになり、運転席の私兵へ怒鳴る。
「申し訳ございません! 道路上に突如、障壁が!」
「障壁だと!?」
砂塵が舞うフロントガラスの向こう、陽炎揺らめく荒野の一本道の真ん中に、人影が立っているのが見えた。
シアは不快げに眉をひそめ、優雅な動作で車を降りる。続いてアルブレヒトも外へ出た。
土煙が晴れると、そこには銀色の髪をした一人の青年が立ちはだかっていた。その前方には、六角形のハニカム構造を持つ透明な障壁が展開されている。
「……ほう」
シアは眼鏡の奥の瞳を細め、目の前の障壁と青年を交互に見やった。
「この特徴的な六角形の障壁……。ああ、思い出しましたよ。先日、第一門の前で私の可愛い〝人形〟を壊したハンターも、これと同じ小賢しい手品を使っていましたね」
シアの脳裏に、自爆した傀儡の最期の視覚情報が蘇る。爆発の瞬間、この奇妙な形状の結界が展開されていたことを。
「なるほど、そういうことでしたか。昨日の茶髪の青年の正体は……」
シアは、フリッツの記憶にある貴族名鑑のデータを検索し、嘲るように鼻を鳴らした。
「3年前に死んだはずのクロース家の〝出来損ない〟、レオ・クロース君だったとは。まさか、あの爆発で死ななかったとはね」
その名を聞き、隣にいたアルブレヒトが不快げに顔を歪める。
「あの顔、見覚えがあると思えば……。クロース家の〝出来損ない〟ではありませんか」
アルブレヒトにとっても、その名は「貴族の恥」「マナ制御もできぬ無能」として記憶されていた。
「王族配信でクロース家が生きているとは知っていたが、よりによって一番の無能が一人でノコノコ現れるとは。……フン、魔導の理もわからぬ欠陥品が、我々の道を塞ぐとは片腹痛い」
アルブレヒトは、レオが腰に提げた剣を一瞥し、侮蔑の笑みを深めた。魔法が全てを支配するこの世界において、マナを扱えぬ者の武勇など、大道芸に等しい。
「そこをどけ! 私を誰だと思っている! この国の宰相アルブレヒト・クプファーであるぞ!」
アルブレヒトの罵声に対し、レオは無言のまま腰の剣を抜き放ち、切っ先をだらりと下げた。
「うるさいなあ。わかってるよ、そんなこと」
短く告げられた言葉に、アルブレヒトが顔を紅潮させて激昂する。
「んなっ!黙れ! 魔法の一つも使えぬ欠陥品が、身の程を知れ!」
その罵倒を聞き、シアは呆れたように肩をすくめ、冷ややかな視線をアルブレヒトへ向けた。
「なにを見ていたのですか、アルブレヒト公。先程立派に魔法を使っておりましたよ。しかも時空属性の結界魔法をね」
「時空属性ですと?」
アルブレヒトは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「あー。あなた方は知らないのですね。時空属性とは、あなたたちヒト属がおっしゃる所の聖霊王の属性」
「な、なんですと? たしか聖霊王ベル・ラシルの属性は全属性では」
アルブレヒトの言葉は、この世界の一般的な常識そのものだった。聖霊王は全ての属性を操る万能の存在であると、広く信じられているからだ。
しかし、シアは喉の奥で嗤った。
「フックックッ。そうでしたね。あなた方はそのような認識でした」
永劫の時を過ごすマオンにとって、今のヒト族の知識など、劣化し形骸化した情報に過ぎない。
「真実は異なります。ベル・ラシルの本質は『時と空間にある情報』を司る時空属性。全属性を使えるように見えるのは、その応用力が凄まじいというだけに過ぎません」
シアは眼鏡の奥の瞳を細め、興味深そうにレオを見据えた。
レオが展開した六角形の障壁≪ヘキサガード≫。それはまさしく、時空属性特有のハニカム構造を持つ防御魔法である。
マナを持たぬ「出来損ない」と蔑まれていた青年が、この世で最も希少かつ高位の属性を操っている。そしてその力は、かつてシアたちマオンを堕とし、敵対した聖霊たちの頂点、聖霊王の力そのもの。
「なるほど……。マナ制御ができないのではなく、ヒトの枠組みに収まらない『器』を持っていたということですか」
シアの口元が、三日月形に歪んだ。
「まさか、ここであのベル・ラシルの子と出会えるとはね」
シアの言葉に、アルブレヒトは呆然とレオを見つめることしかできない。だが、すぐに気を取り直したように、背後に控える武装集団――鏡面と、クプファー公爵家の私兵団を見渡した。その数は優に百を超えている。
「ふ、ふん。仮にそれが事実だとしてもだ。たかが一人で何ができる」
シアもまた、嘲るように問いかける。
「そうですね。たしかに個の力は脅威ですが……。それにしても、この数を相手にお一人ですか?」
レオは表情を変えずに短く応じた。
「いや、そんなことはないよ」
レオは短く否定すると、静かに右手を掲げた。 その掌の先に、虹色のマナが収束し、八つの異なる色彩を帯びた光の紋章――接続紋が描かれる。
光の紋章から次々と影が飛び出す。 着地と共に現れたのは、八匹の猫たち。
漆黒、白、灰色、三毛、長毛、キジ白、そして二匹の小さな子猫。それらはレオの足元に侍るように整列し、鋭い瞳で敵を見据えている。
「……猫?」
アルブレヒトが呆気に取られたように声を漏らした。だが、その侮蔑に満ちた疑問は、次の瞬間に凍りつくことになる。
レオは敵軍を見据えたまま、静かに告げた。
「みんな、よろしくー」
その一言が、合図だった。
八匹の猫たちの姿がブレる。 マナの光が弾けると同時に、そこには猫の姿など微塵もない、八人の男女が立っていた。
「……猫の手も借りたい、とはよく言ったものでございますね」
先程まで王宮でシルビアの護衛を務めていたノイアーが大剣に手をかけ、呆れるように言った。
「ま、久しぶりの運動にはちょうどいいんじゃねえか?」
好戦的な笑みを浮かべ、拳を鳴らす白髪の美少女、クララ。
「まったく。あくまでご主人様のためですのよ」
弓を携え、優雅に髪を払う、ドレスに軽鎧姿のリエリー。
「やっと全力で動けるわね」
槍を片手に、指先で髪の毛を撫でるシャリーナ。
「あいつら、なんで余裕の顔してるんスか?」
大鎌を担ぎながら、疑問の表情を浮かべるルビア。
「アチキの刀の錆にしてやりんす」
オリガタ刀に手を添え、艶やかに着物を翻すフルーナ。
「ん」
大盾と片手剣を構え、眠そうな目の幼女、クレア。
「相手は馬鹿なのです!余裕なのです!」
体躯にそぐわぬ巨大な斧を担ぎ、幼女の姿で煽るマロニー。
「匠聖」オスヴァルト・クロースが鍛え上げた至高の武装が、瞬時に彼らの身体を覆う。
可愛らしい猫の姿から一転。そこに出現したのは、聖霊の遣い「聖猫アンシャ」たちのヒト化した姿だった。
「さて、皆さん」
ノイアーが大剣を片手で軽々と構え、紫色の瞳でシアを射抜く。
「主の御前です。粗相のないように」
それぞれの武器を構えた八人が、音もなく大地を蹴った。




