第60話 オリバー・アイゼンの罪
ベル歴995年、水の月24日。10時。
アイゼン王国王都エルンツ、「シュタール宮殿」。
その最奥にある玉座の間には、重苦しい静寂が満ちていた。
普段は威厳と華やかさを誇るこの広間も、今は張り詰めた緊張感に支配されている。左右に列席するのは、各省庁の大臣や騎士団の幹部たち。彼らの視線は一点、玉座の前に跪かされた一人の男に注がれていた。
第一王子、オリバー・アイゼン。
両脇を近衛兵に固められ、後ろ手に拘束された彼の瞳は虚ろで、焦点が定まっていない。
玉座に座るニクラウス王が、静かに手で合図を送る。
近衛兵の一人がオリバーの上半身の衣類に手をかけ、無造作に引き裂いた。露わになった背中が、臣下たちの目に晒される。
どよめきが、さざ波のように広がった。
オリバーの背中、肩甲骨の間には、皮膚を焼き焦がしたような、禍々しい紋様が刻まれている。赤黒く脈動するその紋様は、見る者に生理的な嫌悪感を催させた。
ニクラウスの厳格な声が響く。
「見よ。これが〝大罪紋〟である。ヒトの心の隙間に入り込み、欲望を増幅させ、精神を蝕む呪い。オリバーはこの紋によって『虚飾』の傀儡と化していたのだ」
大臣たちは息を呑み、オリバーの背中を見つめる。クーデターの首謀者という事実は変わらない。だが、その行動原理が外部からの精神干渉によるものだという事実は、彼らに複雑な感情を抱かせた。
その時、重い扉が開かれる音が、沈黙を破る。室内の空気が、一変した。
それまでの澱んだ緊張感を払拭するかのように、清廉な気配が流れ込んでくる。
入室してきたのは、一人の女性と、それに付き従う黒衣の執事。
女性は、純白を基調とし、裾や袖口に繊細な金の刺繍が施された法衣を纏っている。歩くたびに揺れるその布地は、上質でありながら華美すぎず、見る者に神聖な印象を与えた。
プラチナブロンドの髪は、丁寧に編み込まれたハーフアップに整えられており、シャンデリアの光を受けて淡い輝きを放っている。その整った顔立ちに慈愛の表情を浮かべ、碧い瞳はただ真っ直ぐに、玉座の前に跪くオリバーを見据えていた。
彼女の周囲には、視認できるかできないかという微細な光の粒子が舞っている。癒の聖霊アウローラの加護が、可視化されたものだ。
そのあまりに浮世離れした美しさと、圧倒的な「聖性」に、大臣たちは息を呑み、自然と道を空けた。
「あれは……」
誰かが呟いた疑問を遮るように、玉座のニクラウス王が厳かに告げる。
「彼女は今代の聖女、シルビア・スワン殿である」
王の言葉に、どよめきが驚嘆へと変わる。他国の貴族令嬢でありながら、聖霊に選ばれた唯一の存在。その名を知らぬ者はここにはいない。
シルビアは周囲の視線に目もくれず、迷いない足取りでカーペットの上を進む。その背後には、王付きの事務官であるノイアーが、影のように付き従い、周囲を警戒していた。
シルビアはニクラウス王の前まで進むと、優雅な所作で一礼する。そして、オリバーの背後へと歩み寄った。
「……お可哀想に」
シルビアが、痛ましげにオリバーの背中を見つめる。彼女の碧い瞳には、聖女としての慈悲と、悪しき呪いへの静かな怒りが宿っていた。
ノイアーがシルビアの斜め後ろに立ち、周囲を警戒する。
シルビアは両手をオリバーの背にかざした。指先から、柔らかな光の粒子が溢れ出す。それは癒の聖霊アウローラの加護そのものであった。
「第五位階癒属性解呪魔法――≪アニマ・リベラ≫」
シルビアの祈りと共に、眩い光が玉座の間を満たした。
温かく、清浄な光は、オリバーの背に刻まれた赤黒い紋様に吸い込まれていく。
ジュウ、と何かが蒸発するような音が微かに響く。紋様が断末魔のように一際強く脈打ち、そして光の中に溶けるように霧散していった。
心を蝕んでいた鎖が断ち切られる。
光が収まると、オリバーの背中には火傷の痕のような赤みが残るのみとなっていた。
ガクリ、とオリバーの身体が崩れ落ちる。
「う……あ……」
床に手をつき、荒い呼吸を繰り返すオリバー。その瞳に、理性の光が戻ってくる。
しかし、次の瞬間、彼の顔色は蒼白へと変わった。
大罪紋による支配が解けても、その間の記憶が消えるわけではない。
父を殺そうとしたこと。弟ハンスを陥れようとしたこと。国を混乱に陥れたこと。己が犯した大罪のすべてが、鮮明な記憶として彼を襲う。
「あ、あああ……ッ!!」
オリバーは床に額を擦り付け、獣のような嗚咽を漏らした。
「父上……私は……私はなんということを……!」
溢れ出る涙が、床を濡らす。
「殺してください……! このような大逆、万死に値する……! どうか、今ここで、私の首を!」
錯乱したように死を乞う息子を、ニクラウスは玉座から見下ろしていた。その表情は厳しく、だが瞳の奥には親としての苦渋が滲む。
「ならぬ」
王の言葉は短く、重かった。
「し、しかし……! 私は……!」
「死んで償えるなどと思うな、オリバー」
ニクラウスが立ち上がり、階段を降りてオリバーの前に立つ。
「己の弱さが招いた結果だ。その罪の重さ、悔恨、そして民への償い。そのすべてを背負い、生きてあがけ。それが、王族として生まれた其方の責務だ」
オリバーは震えながら顔を上げ、父を見上げる。ニクラウスの眼差しは、彼を突き放すものではなく、共に背負う覚悟を促すものであった。
「……うぅ……ッ」
オリバーは再び床に伏し、声を殺して泣いた。
ニクラウスは息子の震える肩に一度だけ触れると、踵を返し、並み居る大臣たちの方を向いた。
そして、王は深く頭を下げた。
「陛下!?」
大臣たちが驚き、ざわめく。
「すまなかった」
ニクラウスは頭を下げたまま、力強い声で告げる。
「我が子の心の隙に付け込まれ、このような事態を招いたのは、偏に余の不徳の致すところ。また、マオンという脅威を察知していながら、今日まで臣下である其方らにひた隠しにし、無用な混乱と危険を与えたことを、深く詫びる」
「お、お顔をお上げください陛下!」
「我々こそ、殿下の異変に気付けず……」
「よい」
ニクラウスは顔を上げ、臣下たちを見渡した。
「敵……八大罪のマオンは強大だ。人の心の弱みを喰らう。だが、我々は一人ではない。これより先、国難に立ち向かうため、余に、そしてアイゼン王家に、今一度力を貸してほしい」
王の言葉に、大臣たちは一斉に跪き、頭を垂れる。
「御意!」
玉座の間に、忠誠を誓う声が轟いた。
その光景を、シルビアとノイアーは静かに見守っていた。
アイゼン王国の内なる膿は出し切られた。だが、本当の戦いは、これから始まることを、彼らは知っていた。
「……足りんようだな」
ニクラウスの言葉に反応し、トーマスが静かに告げる。
「ええ。宰相、アルブレヒト・クプファー公爵。それと――」




