第55話 ハンス・アイゼンの覚悟
聖域守護結界『五重輪オクト・クインタ』の第一門前。
石造りの巨大な門扉を背に、二人の「ハンス」が対峙していた。
一方は白に近い灰色の髪をなびかせる本物の第三王子。もう一方は、同じ姿形をしつつも、その内側に無機質な虚無を宿した偽物、シア。
張り詰めた空気の中、リオンが音もなくダミアンの前に立った。
「ダミアン殿下は私の後ろへ」
背中越しに掛けられた声に、ダミアンが眼鏡の奥の瞳を細める。ハンターの装いに身を包んだこの青年は、先ほどシアの致死の一撃を完璧に受け流してみせた。
その身のこなし、そしてこのタイミングでの介入。ダミアンの脳裏に、ある可能性が過る。
「君は――」
ダミアンが問いかけようとした瞬間、リオンが振り返った。人差し指を口元に押し当て、静かに首を横に振る。
その仕草に含まれる意図を汲み、ダミアンは口を噤んだ。胸元の【探求の護符】が、青年の正体について何かを訴えるように熱を帯びているが、今はそれを問いただす時ではないと理性が警鐘を鳴らす。
二人の視線の先で、ハンスが動いた。
王族として幼少より鍛え上げられた剣技。ハンスの踏み込みは鋭く、繰り出された斬撃は正確にシアの首元を捉えていた。
だが、シアは避けない。
刃が触れる寸前、シアの上半身が不自然な角度で揺らぎ、剣先が空を切る。
人間には不可能な関節の稼働。シアは重力を無視したような挙動でハンスの側面へと回り込むと、素手による貫き手を放った。
ハンスは即座に反応し、左手を翳す。
「≪ドゥームブル≫」
第三位階闇属性防御魔法。瞬時に展開された闇の障壁が、シアの指先を受け止める。
しかし、障壁はガラス細工のように容易く砕け散った。
貫通したシアの手刀がハンスの肩口を掠め、鮮血が舞う。ハンスは痛みに顔を歪めることなく、バックステップで距離を取りながら、剣を持たぬ手で次の魔法を構築する。
「≪グラッジブル≫!」
第四位階闇属性攻撃魔法。ハンスの手のひらから強力な闇の波動が放たれ、石畳を捲り上げながらシアへと迫る。
シアは迫りくる闇の波動を前にしても、冷淡な笑みを崩さない。回避行動すら取らず、ただ片腕を無造作に振るった。それだけで、ハンスの放った闇の波動がかき消される。
魔法を物理的な腕力だけで霧散させたような、理不尽な光景。
「無駄ですよ。貴方のマナ出力では、私の〝器〟には傷一つつけられない」
シアが地面を蹴る。その速度は、先ほどまでとは桁が違っていた。ハンスの動体視力が捉える前に、シアの懐へと潜り込まれる。
ハンスの腹部に重い衝撃が走った。
シアの拳が深々と突き刺さる。肺から空気が強制的に吐き出され、ハンスの身体がくの字に折れ曲がった。
追撃の蹴りが肩口を襲い、ハンスの身体が石畳の上を転がる。口の端から鮮血が流れ、彼は苦悶の表情で膝をつき、剣を杖にしてなんとか身体を支えた。
シアは、ハンスと瓜二つの顔に冷淡な嘲笑を浮かべ、倒れたハンスを見下ろす。
「やはり貴方は半人前だ。王の器ではない」
圧倒的な力量差。それは単なる武力の差ではなく、傀儡とはいえ、大聖霊の対極にある八大罪のマオンと、限界を持つ「ヒト」との、超えられない強度の差でもあった。
だが、ハンスは剣を離さなかった。
震える脚に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。その瞳から、戦意は消えていない。
半人前と揶揄され、兄たちに守られるばかりだった自分。
しかし、今のハンスの脳裏には、甥であるレオからの言葉が焼き付いている。
――あなたに、〝クライノート〟を継ぐ資格がお有りですか?――
慢心していた自身の横っ面を、思いっきり殴られた気分だった。
王族としての責務。そして、「クライノート」の名を継ぐ覚悟。
ハンスの周囲のマナが、重く、濃密に変化していく。
それは闇の大聖霊オスクネスを奉る国の王太子として、彼の中に眠っていた資質が、極限状態で開花しようとしている兆しだった。
ハンスが剣を正眼に構える。刀身に、光を吸い込むほどの漆黒のマナが絡みつくように集束していく。
「――固有魔法」
八英雄の国の王族として、次代のアイゼン王としての覚悟が今、覚醒へと至らせる。ハンスが踏み込むと同時に、その名を口にする。
「≪戦士黒葬≫」
振り下ろされた剣から、物理的な刃ではなく、凝縮された闇の斬撃が放たれる。
それは空間そのものを切り裂くような圧倒的な質量を持ち、一直線にシアへと迫った。
シアは反応し、両腕を交差させて防御態勢をとる。同時に全身のマナを前方に展開し、多重の防御障壁を築いた。
だが、ハンスの放った闇は、それらを紙細工のように容易く食い破る。衝撃音すら飲み込む静寂の破壊。
シアの防御障壁が砕け散り、交差させた片側の腕が切断される。斬撃の余波はそのまま胴体へと達し、シアの身体を袈裟懸けに深く切り裂いた。
シアの背後の石畳が轟音と共にめくれ上がり、直線上の大気がねじれる。
致命傷。人間であれば即死してもおかしくない傷が、シアの胸部に刻まれた。
ハンスは残心を示し、荒い息を吐きながら剣を下ろす。
勝負は決したかに見えた。
しかし、シアは倒れない。片腕を失い、胸を裂かれた状態のまま、シアはゆっくりと顔を上げた。その表情には苦痛の色はなく、所々が剥がれ落ちて、機械的な姿が露になっていた。
「魔導自動機械人形?」
そして、深く切り裂かれた胸部の装甲が、僅かに捲れており、その奥から不気味に脈動する青白い光が漏れ出し始めた。
「……なんだ?……あれは」
冷却機能を失ったかのように、内部機関が暴走を始め、周囲のマナを食らいながら輝きを増していく。
その光を見た瞬間、後方で控えていたリオンの表情が凍りついた。
脳裏に蘇る、忌まわしい記憶。
リオンは即座に地面を蹴り、ハンスへと叫んだ。
「叔父上、離れてください!!」




