第51話 王都西区戦
王都西区、ハンターズギルド西支所前。
結界によって隔離された空間で、カマキリ型の巨大魔獣「アテレス・エムポス」の姿が陽炎のように揺らぎ、次の瞬間、完全に消失した。
「お母様! マナ反応が消えました! 〝隠密〟です!」
カリーナ・グラナトが鋭く警告を発する。彼女は周囲に冷気を漂わせ、氷の障壁を展開して警戒を強めていた。
アテレス・エムポスは「嫉妬」の感情を源とする怨獣の劣化種であり、周囲の景色に溶け込む擬態能力と、音もなく獲物に忍び寄る隠密性に長けている。
しかし、その警告を受けた魔法師団長ハンナ・グラナトは、焦るどころか、優雅にワンドの先端で赤い炎をもてあそんでいた。
「あら、恥ずかしがり屋さんね。でも、隠れんぼに付き合うほど、私は暇じゃないのよ」
ハンナは退屈そうに吐き捨てると、マナを一気に膨れ上がらせる。
「見えないのなら、隠れる場所ごと燃やしてしまえばいいじゃない」
「お、お母様!? ここは市街地です! 結界内とはいえ、建物への被害が……!」
カリーナが悲鳴交じりに叫ぶ。だが、ハンナの瞳には絶対的な自信と、ある人物への信頼が宿っていた。
「心配ないわ、カリーナ。この結界を作ったのは誰だと思っているの?」
ハンナは足元の地面をブーツのヒールで軽く叩く。
「あの『匠聖』オスヴァルトよ? 私が本気を出したくらいで壊れるようなヤワな檻を、あの男が作るわけがないでしょう」
「それは……そうですけど! でも限度というものが!」
「オスヴァルトの結界を信じなさい。――それに、来たわよ」
ハンナの忠告と同時、カリーナの背後の空間が裂けるように歪んだ。
実体化したアテレス・エムポスが、死角から巨大な鎌を振り下ろす。その一撃は、獲物の生命力を奪うための慈悲なき斬撃だった。
カリーナは振り返ると同時に、自身の足元へ魔力を叩きつける。
第三位階氷属性防御魔法≪シャードロン≫。
瞬時にせり上がった氷の障壁が、鎌の直撃を受け止める。硬質な氷が砕けそうな音と、重い衝撃がカリーナの腕を痺れさせた。
「くっ……重い……!」
「やるじゃない、カリーナ。マルクス君の婚約者として、恥ずかしくない防御ね」
「お母様! 感心してないで援護してください!」
カリーナが悲鳴交じりに叫ぶ。アテレス・エムポスは防御されたことに苛立ち、ギチギチと不快な音を立てながら、もう一方の鎌を振り上げ氷の障壁を壊さんとする。
その双眸には、若く美しいカリーナへの「嫉妬」にも似たドス黒い光が宿っている。
「他人の幸福が憎い……そんな顔をしているわね、この虫ケラは」
ハンナの瞳が、冷徹に細められた。
「美しくないわね。嫉妬に狂って身を焦がすなんて。――本当の〝焦熱〟というものを教えてあげるわ」
そのワンドの先端に、周囲の酸素すら強制的に吸い上げるほどの熱量を持った、赤黒い魔力球が収束していく。
「さあ、虫ケラ。私の〝焦熱〟で、その嫉妬深い心を焼き尽くしてあげる」
大気が悲鳴を上げ、周囲の景色が熱で歪む。アスファルトが泥のように溶け出し、建物の窓ガラスが熱波だけで弾け飛んだ。
「お母様、お待ちください! その構えは……まさか!」
カリーナの悲鳴に近い制止の声が響く。
だが、ハンナの掌に収束する赤黒い魔力の球体は、既に臨界点を超えようとしていた。
周囲の大気が震え、アスファルトが熱で飴細工のように波打つ。それはハンナ・グラナトだけが扱える固有魔法であり、その威力は、単独で第八位階魔法に匹敵する、都市災害級の火力だ。
「結界内とはいえ、そんなものを放てば衝撃で結界ごと街が吹き飛びますよ!」
カリーナが必死に訴える。通常、魔法障壁は内部からの爆発的圧力には脆い。ハンナの火力が炸裂すれば、結界が砕け散ることは明白だった。
しかし、ハンナは口元に艶然とした笑みを浮かべたままだ。
「心配性ね、カリーナ。この結界発生装置を誰が調整したと思っているの?」
ハンナは、足元に設置された結界の基点となる魔道具をチラリと見る。
「基礎設計とマナ回路の構築は、あの『匠聖』オスヴァルト。――そして、そこに付与された術式は、あの子……レオ君の〝属性〟よ」
「え……レオ君の?」
カリーナが呆気にとられる。
「オスヴァルトの堅牢な器に、レオ君の属性が組み込まれているの。二人が説明してたわ。内部で発生した過剰なエネルギーは、空間歪曲によって処理される。……だから」
ハンナは、獲物であるアテレス・エムポスを見据え、宣言する。
「思う存分、ブッ放せるってわけ。カリーナ私の後ろへ!」
「は、はい!」
カリーナが慌ててハンナの後方へ移動すると同時に、アテレス・エムポスの足元を氷で固定する。
アテレス・エムポスが本能的な恐怖を感じたが、もう遅い。
「固有魔法――」
ハンナが短いワンドを突き出す。
「≪劫炎葬送≫」
放たれたのは、熱線や火球などという生易しいものではなかった。
ハンナより前方、扇状に広がる空間そのものが、紅蓮の暴風によって文字通り〝消し飛ばされた〟。
アテレス・エムポスは、鎌を振り上げる動作の途中で、その存在を赤黒い奔流に飲み込まれた。断末魔を上げる暇も、痛みを認識する時間さえもない。擬態能力も、強靭な甲殻も、全てが瞬時に炭化し、灰へと還る。
轟音と共に、結界内の道路、街路樹、看板、そして魔獣。前方にあるすべての物質が、圧倒的な熱量と衝撃波によって吹き飛ばされ、更地へと変貌していく。
カリーナは反射的に防御魔法を展開しようとしたが、その必要はなかった。
爆風が結界の内壁に激突した瞬間、結界の表面に幾何学的な紋様――時空属性特有のハニカム構造が青白く発光した。
衝撃は壁に当たって跳ね返るのではなく、壁の表面でぐるりと渦を巻き、まるで別の次元へと吸い込まれるように霧散していく。
「す、すごい……」
カリーナが目を見開く。ハンナの放った、街一つを半壊させるほどのエネルギーが、結界の外に漏れるどころか、結界そのものを揺らすことさえなく処理されたのだ。
「ふぅ。スッキリしたわ」
目の前には、扇状に広がる黒焦げの荒野と、一切の痕跡を残さずに消滅した魔獣の〝在った場所〟だけが広がっていた。
「さすがはオスヴァルトの技術と、レオ君のエンチャントね。私の火力を完全に殺しきるなんて、いけ好かない親子だわ」
ハンナは悪態をつきながらも、その表情には親友とその息子への絶対的な信頼と、満足げな色が浮かんでいた。
「汗をかいちゃったわ。早く帰ってお風呂に入りたいわね」
ハンナは何事もなかったかのように髪を払い、カリーナに微笑みかける。
「お疲れ様、カリーナ。良いサポートだったわよ」
「……お母様。魔獣は倒せましたけど……」
カリーナは、結界のおかげで無傷で済んだ周囲のビルと、ハンナの前方だけが綺麗に消滅して道路が抉れた惨状を見比べる。
「これ、後でうちに請求書が届くのでは?」
「あら。街の区画整理を手伝ってあげたのよ? 感謝してほしいくらいだわ」
こうして、西区の脅威は、「劫炎」の二つ名を持つハンナ・グラナトの、都市一つを灰にするほどの火力によって、跡形もなく消滅したのである。
マナビジョン越しにその惨状を目撃した民衆は、歓声よりも先に絶句した。
あまりに圧倒的な破壊力と、それを無傷で抑え込んだ結界への戦慄が、王都を静寂で包み込んだ。




