第39話 エヴィス
ベル歴995年、水の月16から17へと日付が変わった、深夜2時半過ぎ。
メヒスメノスの裏口に続く、暗い裏路地。
そこは、表通りの24時間営業の食堂の明かりが僅かに届き、路地全体が濃い影に覆われていた。人通りの途絶えた路地を、二名の影がゆっくりと進んでいく。
一人は背の高い女性、イゼラ。長い杖を所持し、黒いコートを纏い、顔の半分を隠すようにスカーフを巻いている。もう一人は、そのイゼラの半分の背丈ほどの少年、ディスだ。彼は身の丈ほどのロングソードを背負い、フードを深く被り、その存在感を闇に溶け込ませている。
ディスは、立ち止まると、ゆっくりと振り返り、メヒスメノスのある裏路地の入り口を、わずかに見つめた。その瞳には、一瞬、冷たい光が宿っていたが、すぐに消える。
「どうかしたのかしら?」
イゼラが尋ねたが、ディスは応えない。
「ちょっと、ディス?」
「気のせいかな」
「なにがよ」
「いや。向こうのレストランから、視線を感じたような気がしただけだよ」
「視線?こんな暗い道、見えるはずがないわ。それに、わたしたちがマナを隠している限り、誰も存在を感知できないわよ」
「わかってるよ」
ディスは、それ以上は言わずに、再び前を向く。イゼラと共に裏路地の小さな交差点を曲がり、メヒスメノスの裏口へと到着した。
裏口の扉には魔法的な認証装置が施されており、イゼラが魔法的な認証を行うと、扉は音もなくスライドする。扉の奥は短い通路を隔て、結界に守られた「暗珠の間」に直結していた。
暗珠の間に入室すると、フリッツ伯爵が一人、静かにグラスを傾けていた。
「いらっしゃいませ、お二方」
「お待たせしたわね」
「まあ、座ってください」
イゼラとディスはうなずくと、それぞれ席に着く。
「お飲み物は?」
「結構よ」
「僕もいらないよ」
「かしこまりました」
フリッツはゆっくり頷くと、第一王子オリバーに報告された「収穫祭」の六段階の計画を、記憶の中で辿るかのように、静かにグラスを置いた。
「第三段階の準備は?」フリッツは尋ねた。
「順調よ」
「第四段階の“鍵”の奪取については?」
「声の裂け目との情報共有はできているわ」
「ならば重畳ですね。我々の真の目標は、王位簒奪ではございません」
「オスクネスの消滅……ね」
イゼラが冷ややかな口調で確認すると、フリッツは静かに頷く。
「さようです」
「問題はダミアン第二王子、といったところかしら?」
「ええ。困ったことに、彼はいつだってつかみどころがない」
「大丈夫なの?当日は滞りなく計画は進むのよね?」
「ええ、おまかせを。貴方たちは当日、彼を〝運ぶ〟サポートをしていただければ結構です」
「マナトレインまででいいのかしら?」
「ええ。そこまで事が運んだら、あとはシアに委ねてください」
「そのあと、わたしたちは?」
「予定通り、西へ」
「そう……。そろそろ、この国ともお別れなのね」
「フックックッ。名残惜しいので?」
「いいえ。三年弱だったかしら?さっさと帰りたかったわ。ディスもそうでしょ?」
「まあね」
「それじゃ、わたしたちはこれで」
「ああっ、そういえば」
イゼラたちが立ち上がろうとしたその時、フリッツが引き留めた。
「ディスさん。王都の結界が数秒止まったあとの話なのですが」
ディスは、立ち上がりかけた体勢を静かに戻す。
「なにか変更があったの?」
「ええ。例の【黒い果実】ですが」
「なに?ストリクス・ヴァニティ様から受け取って、指定の場所に置けばいいんでしょ?」
「さようです。ですが、設置場所を変更したいのです」
「急だね?なにかあったの?」
「いえいえ。念には念をでございます」
フリッツの説明に納得がいかないのか、普段表情の変化の少ないディスも、さすがに眉根を寄せた。フリッツがすかさず説明を始める。
「あー、誤解せずに。情報局のはぐれモノ集団、〝夜声〟のメンバーを、ハンターズギルドの各支所(王都北、王都南、王都西、王都東)に潜らせてございます。その者に預けていただきますよう、お願いいたします」
「夜声って……。アロイスが預かっている、あの練度の低い無能どもでしょ?大丈夫なの?」
「そのへんはご心配なく」
「そうなの?まあ、いいや。で?どうやって見分けるのさ」
「サインを決めております」
「それは僕らにもわかるの?」
「もちろんでございます。夜声のメンバーは、ディスさんたちと交わす印をギルド内で身につけてございます」
「印?どんな?」
「こちらでございます」
フリッツが封筒を懐から取り出し、ディスに差し出す。ディスは早速封筒を開けようとした。だが、すぐにフリッツから「そちらは後ほどご確認し、消去してください」と声を掛けられ、動きを止めた。
フリッツの表情を観察するディス。その顔からは無言の圧が感じられた。
「ふーん。わかったよ、そうするね」
「ありがとうございます」
イゼラはディスの応えを最後に、フリッツに視線を向けた。
「他になにか、指示はあるのかしら?」イゼラが尋ねた。
「フックックッ。ございません。後はすべて、予定通りでございます。」
フリッツが喉の奥で笑ったのを確認すると、イゼラとディスは席を立ち上がった。
イゼラはフリッツへ向かって恭しい礼を見せる。
「では、また、伯爵様」
フリッツはイゼラのその姿に感心しつつ、自身の胸に手を当て、礼をする。
「こちらこそ」
イゼラとディスは、裏口へと向かい、静かに扉を開けて路地へと消えていった。
フリッツは、誰もいなくなった「暗珠の間」で、再びグラスを傾けた。




