第36話 穢れた酒杯の暗珠は零れる 前編
王族配信の7日前。ベル歴995年、水の月16日。
王都エルンツ中央区。ビルが犇めく裏通りにひっそりと佇む「メヒスメノス」。
そこから一筋ズレた表通りには、活気あふれる様々な飲食店が軒を連ねている。
「ここがいいね」
レオは、周囲の喧騒に紛れるように、一軒の24時間営業の食堂の扉を開けると、「どうぞ」とシルビアを店内に促す。時刻は22時を過ぎた頃で、店内は仕事帰りの客や友人連れで賑ってはいるものの、満席というほどではない。
「いらっしゃいませ!」
威勢の良い店員の声に迎えられ、レオは軽く会釈した。
「すみません、待ち合わせで、もう一人、友人が来る予定で」
そう店員に告げると、レオとシルビアは窓際の四人掛けのテーブル席へと案内された。
窓からはメヒスメノスは見えないが、盗聴の魔道具の受信範囲である半径100メートル圏内に入った。二者の存在は、周囲の他の客から見て不審に思われないよう、自然な客の振る舞いを装った。
席に着くと、レオは指先で小さな眼鏡のフレームを自然な仕草で軽く押し上げる。それは彼の顔や髪色の認識を変える、【誤認の眼鏡】だった。
レオはテーブルの片側に座り、向かいにシルビアが座った。ごくありふれた民衆服に身を包んだ彼女は、レオの母エリーザから借り受けた街中でよく見かける一般的な装いだ。聖女である普段の厳かな服装とはかけ離れているが、だからこそ周囲に溶け込み、目立つことはない。
「本当にこれで、わたくしのマナは隠せてますでしょうか?」
シルビアは、左手の薬指にはめられた銀色の指輪をそっと撫でた。
癒の聖霊アウローラが彼女に宿っているため、聖女であるシルビアからは常時マナが漏れ出ている。一応自身で制御はしているものの、完全に抑え込むことは難しい。レオはそのことを知っており、だからこそその指輪を彼女に渡したのだ。
この指輪は、指のサイズに合わせて調整される仕組みになっており、そのマナの漏洩を遮断するために、レオが作製した指輪型の魔道具だ。
「ええ、ご安心を。その指輪は時空属性のマナ回路を適用したもので、マナの波長を打ち消すように調整してありますから。多少は消耗いたしますが、自身のマナで充填されるため、よっぽどのことがない限り、感知されることはないでしょう」
「そうですか、ありがとうございます。これなら、目立たずに済みますね」
店員が水とメニューを運んできた。レオはメニューに目をやりながら、シルビアに小声で尋ねた。
「何か、召し上がりますか?」
「では、ハーブティーと、何か軽食を……」
レオは頷き、店員に「ハーブティーを1つと、チーズパイを2つ、それから私はブラックコーヒーを」と注文した。
シルビアは目立たないように、耳に装着された小さなイヤホン型受信機に指を触れる。
フリッツ・ペルレ伯爵が経営するメヒスメノスの「暗珠の間」には、すでにキュートの眷属である蜘蛛が、レオが開発した超小型の盗聴魔道具を、部屋の死角に設置し終えている。
レオもまた、自身の耳に装着したイヤホン型受信機の感度を調整し、念話を飛ばした。
〘ルジュ、シャルル。二者はメヒスメノス内の暗珠の間の外で、オリバー殿下のメイドとして打ち合わせ通り、普段通りに振る舞っててくれ。何か異変があれば、別の場所にいる聖猫たちが知らせてくれるはずだ。だろ?リゼ〙
〘もちろんですわ!ご主人様〙
〘それで、リゼ。そちらの状況は?〙
〘オリバー殿下の直属の護衛が三名、酒場の周囲に配置されていますわ。うち二者は裏口付近、一人は表通りから裏道に入る場所に。フリッツ伯爵の私兵と思われる方々も三名、路地の角と、この建物の屋根上、そして裏手にも一人確認しましたわ。それ以外にも、複数不穏な気配を感じますわね。〙
レオはリゼからの報告に軽く頷いた。やはり、王族と貴族の密会とあって、厳重な警備が敷かれているようだ。
食堂の入り口が再び開いた。
落ち着いた黒髪に眼鏡をかけた、その人物は、一見するとどこにでもいるような、ごく普通の旅人といった装いで、周囲の喧騒に完全に溶け込んでいる。それはノワルのヒト化した姿、ノイアーだった。
「いらっしゃいませ!」
店員の明るい声に、ノイアーは静かに会釈した。
「あちらの方々と待ち合わせなんですが……」
「ああ!伺っております。ご案内いたしますね」
店員は軽く手でレオたちのテーブルを指し示し、ノイアーはそれに無言で頷くと、店員はノイアーを伴い、レオたちの席へと近づいた。
「お待ち合わせの方がいらっしゃいました」
店員の声に、レオとシルビアは顔を上げた。ノイアーは静かに頭を下げた。
「お二方とも、お待たせいたしました」
ノイアーの姿を確認すると、シルビアはすっと立ち上がり、レオが座る席の隣へと移動し、その空いた席へと促す。
「どうぞ」
ノイアーは無言で頷き、促された空席に静かに腰かけた。彼は何の躊躇もなく、レオから手渡された予備のイヤホン型受信機を耳に装着した。その無表情な顔は、一切の感情を読み取らせなかった。
「揃ったな」
レオが小声で言うと、ノイアーは無言で頷いた。その手には既にペンとノートが構えられていた。
やがて、レオの耳元で、微かな、しかし確かな声が響き始めたのを感じた。
「……始まりましたね。わたくし、てっきりお店に潜入するものだと思っておりましたわ」
シルビアが、ごく小声で、レオにだけ聞こえるように呟くと、レオはやはり小声で返した。
「物理的な潜入はリスクが高すぎますから。それに、これなら私たちも安全に情報を得られます」
そう言って、レオは持参していたショルダーバッグから小さなノートとペンを取り出した。
ノートの表紙は使い込まれて少し擦れており、中には既に走り書きの文字がいくつか見える。彼は新しいページを開き、ペンを構えた。




