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箱庭と猫 第一部 ―救国の英魂編―  作者: 山本陽之介
第2章 風路ノ調ベ

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第21話 密やかな対旋律

 ベル歴995年、水の月9日、20時。


 王都エルンツ中央区の一角にある裏通り。


 人通りの少ない路地の雑居ビル群のなかに、ひっそりと佇むクラフトビア専門酒場「メヒスメノス」。その奥深く、外部から完全に遮断された特別な部屋、〝暗珠の間〟で、第一王子オリバー・アイゼンは、店主であるフリッツ・ペルレ伯爵と向かい合っていた。


 薄暗い室内に揺らめくランプの光が、三人の顔に影を落とす。


「ミルヴィウス、例のものを」


 オリバーが静かに促すと、横に控えていた側近のミルヴィウスは、すかさず自身の鞄から一束の紙を取り出した。


 表には簡素に「予算案」とだけ記されている。ミルヴィウスはそれを、何の感情も読ませない手つきでテーブルの中央に置いた。


 フリッツは、その紙束に視線を向けた。


「殿下。拝見させていただいても?」


 フリッツの問いかけに、オリバーはわずかに顎を引いた。


「ああ、構わん」

「では、失礼して……」


 フリッツは恭しく紙束を手に取り、一枚一枚、その内容を丹念に追っていく。沈黙が数秒続き、紙をめくる微かな音だけが部屋に響いた。


 やがて、フリッツはすべてのページに目を通し終え、ゆっくりと顔を上げる。


「なるほど。〝表の二人〟の……ですか」


 フリッツは意味深な眼差しで、部屋の唯一の入り口であるドアの方へ一瞬視線を送った。


「そうだ。これについて貴殿の意見も訊きたい」

「同じフリーデリーケ孤児院出身で、二名が幼い頃にニクラウス王の側近にして情報局(E.I.B. / エイブ)の局長であるトーマス・モントシュタイン伯爵が身請けし、養女として育てられた、ですか」


 フリッツは言葉を区切り、重々しく続ける。


「我々もこの二名について、王宮内の情報網から裏社会の伝手まで、複数名にわたって徹底的に調査を行いました。しかし、殿下の持つ報告書以上の、特筆すべき新たな事実は一切出てまいりませんでした」


 フリッツの報告に、オリバーはわずかに眉根を寄せる。


「そうか」


 フリーデリーケ孤児院は、アイゼン王国初代国王ローレンツ・クライノート・アイゼンの妃、フリーデリーケ・アイゼンが建国間もない頃、災厄との聖戦で親を亡くした子供たちのために、私財を投じて設立した孤児院だ。


 王家が代々庇護し、フリーデリーケ王妃の死後も、次代の王妃がその責務を受け継ぎ、現在もオリバーの母親、すなわち当代の王妃、ディアナ・アイゼンが責任者代表を務めている。


 その由緒ある孤児院から、王の側近の養女として王宮に送り込まれたという背景は、オリバーにとって些か予想外であったのだが、ありえない話でもないうえ、それ以上は一切の不明点もなかった。


 ただ、この情報が、つい先日まで出てこなかったのは、さすが情報局トップの〝養女〟といったところか。


「これで全てだな?」


 オリバーはフリッツとミルヴィウスの顔を交互に見た。


 彼らがこの隠された場所で議論していたのは、まさに王宮内でオリバー自身の監視役として送り込まれた、そのメイドたちの正体と目的についてだった。


 その表情には、すべてを掌握しようとする王子の冷徹な野心が宿っていた。


 オリバーの問いに、フリッツとミルヴィウスは静かに頷く。言葉は交わされずとも、その場にいる全員が、情報が尽きたこと、そしてそれ以上の深奥を探る術がないことを理解していた。


「ならば、次の段階に移ろう」


 オリバーの声が、ランプの炎のように静かに揺らぐ。彼の眼差しは、遠い未来、あるいはすぐそこに迫る何かを見据えているかのようだった。


「例の“収穫祭”の準備だが……」


 フリッツは資料をテーブルに置き、オリバーの言葉に応じる。


「順調に進んでおります。各方面への根回しも滞りなく。この三年の積み重ねが、いよいよ実を結びますな。予定通り、収穫祭の前日には全てが整うでしょう」


 ミルヴィウスがフリッツに続いて口を開く。


「我々の手足となる者たちも、それぞれの持ち場へと配置を終えました。万が一の事態に備え、第二、第三の手も用意しております。この日を待ち望んだ我々の努力が、無駄になることはありません」


 オリバーは満足げに頷く。


「父上は、まさか我々がここまで周到に動いているとは思っていまい。三年もの間、水面下で蠢いてきたのだからな」


 その言葉には、ニクラウス王への侮蔑と、自らの計画への揺るぎない自信が込められていた。


「トーマス・モントシュタイン伯爵の病も、我々にとっては僥倖でした」フリッツが続ける。「彼の諜報網があれば、これほどスムーズにはいかなかったでしょう」

「ああ、表で控える“影の犬”どもとて、影なき今となっては、もはや付け焼き刃でしかない」

「ええ。監視の目は厳重にしております。不審な動きがあれば、即座に報告が上がる手筈に」ミルヴィウスが答えた。

「よし。であれば、もう我々を止めるものは何もない」


 オリバーはゆっくりと立ち上がり、部屋の片隅に置かれた大きな地図に目を遣った。


 王都エルンツを中心に、アイゼン王国の全土が描かれている。彼の指先が、地図上の特定の都市、そしてその中心にある王宮へと滑っていった。


「全ては、この国のために。そして、八英雄の国々の、あるべき姿のために」


 彼の声は、暗珠の間に冷たく響き渡った。


 それは、単なる野望の宣言ではない。彼自身の絶対的な信条が、夜の闇に深く溶け込んでいくかのようだった。








 ベル歴995年、水の月10日、午前。王族配信の13日前。


 聖域防衛都市ドンクルハイツは、代々公爵家所縁(ゆかり)の者が護っており、今代は王弟にして元王宮近衛騎士団長、ルーカス・プラーティン前公爵がその任についている。


 代官邸、執務室隣の書斎。


「それではルーカス様、私はこれで失礼いたします」レオが言った。


 昨日、箱庭の転移点として利用させてもらうため、ルーカスに代官邸へ招待されたレオたち。ホテル「デア・モントシャイン」のチェックアウトを済ませ、代官邸を訪れた。


 その後、レオたちはすぐ箱庭に戻る予定だったのだが、ルーカスの「泊まっていけ」の一言で予定変更を余儀なくされた。


 とはいえ、レオとしてもルーカスとの久しぶりの再会に喜んでいるところもあった。なので昨晩は大いに語らった。


 そして現在。


 ルーカスの執務室の横にある書斎に、箱庭へと繋がる〝ドア〟が顕現していた。


 ルーカスは珍しいものを見るような目で、ほう、と唸る。


「それがベル様がお創りなられたという、箱庭へのドアか。いやはや、長生きはするものだな」

「いやいや、まだまだ折り返してもいないじゃないですか」


 この世界のヒュマーノ族の平均寿命は150歳。レオは苦笑を浮かべながら、静かにドアへと歩み寄った。


 それよりも気になるのは、そこには数人の気配が感じられること。プラーティン代官家の執事、数名のメイド、そして衛兵たちが、静かにレオを見送ろうと並んでいる。皆、会釈をしたり、穏やかな笑みを浮かべたりしていた。


「レオ様、それにノワル様とキュート様。どうぞ、お気をつけて」


 執事が控えめに声を上げた。他の者たちも、それに続いて静かに別れの言葉を連ねる。


 レオは思わず立ち止まる。既にルーカスから、屋敷の者たちには話を通している。機密の行き来ではあるが、レオという人物への敬意と、見送りという形での心遣い。そう察したレオは、少しばかり気恥ずかしくなる。彼が戸惑いの視線をルーカスへ向けると、ルーカスは肩をすくめ、困ったような笑みを返した。


 レオとしては一宿一飯の礼もある。一つ深呼吸すると、小さく笑みを浮かべる。


「皆様、この度は大変お世話になりました。感謝いたします。またすぐに、ご迷惑をお掛けすることになるかもしれませんが、その際もどうぞよろしくお願いいたします」


 レオの言葉は、穏やかながらも、どこか不思議な響きを帯びていた。


 代官邸の人々は、その言葉に静かに頭を下げる。彼らにとって、レオは特別な存在だった。


 かつて13歳で武闘大会を制したその姿は、武を重んじるプラーティン公爵家の者たちに強い印象を残した。ルーカス自身も、その頃からレオを自身の騎士団に引き入れたいと密かに考えていたほどだ。


 だが、レオの成人を待つ間にクロース家の悲報が届き、その夢は潰えたかに思われた。


 しかし、今こうして無事な姿を目にし、彼らの胸には喜びが込み上げている。さらに、一宿一飯という短い時間だったにも関わらず、レオの振る舞いや彼が持つ不思議な魅力に惹かれ、プラーティン家全体が、ある意味でレオの「ファン」と呼べるような状態だったのだ。


「ルーカス様、近いうちに箱庭にもご招待いたします」

「ああ、楽しみにしている。レオもいつでもここを訪れるがよい」

「ありがとうございます。それでは、また」


 レオは、背後からの視線を感じながら、箱庭へのドアへと足を進め、その姿は空間の狭間へと消えていく。レオがドアを閉めると、わずかに歪んだ空間を滲ませ、霧散し、〝ドア〟はまるで最初から存在しなかったかのように、その場から消え失せた。

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