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箱庭と猫 第一部 ―救国の英魂編―  作者: 山本陽之介
第2章 風路ノ調ベ

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第19話 裏拍と残響

 ベル歴995年、水の月9日。王族配信の14日前、午前9時半。


 王都エルンツ、シュタイン宮殿。


 第一王子であるオリバー・アイゼンの執務室は、朝の光が差し込む中で静かにその日を迎えていた。


 磨き上げられた木の温もりを感じる広々とした空間の中心には、豪奢な装飾が施された大きな執務机が置かれ、そこにオリバーが座っている。彼の傍らには従者ミルヴィウスが常に控え、その存在はオリバーの威厳を一層引き立てていた。


 オリバーの机に垂直に配置された補助机には、第一王子付きの事務官が座り、細かな書類の整理や計算をこなし、オリバーの執務を滞りなく補助していた。


 執務室の内側のドアを挟むようにして、二人のメイドが姿勢正しく立っている。


 アイスブルーの美しいロングヘアのメイドと、その隣に立つ赤髪のツインテールが印象的なメイド。


 彼女たちの立ち姿に微塵の隙もなく、その眼差しは常に主人の動向を捉えている。


 ミルヴィウスが滑らかな足取りでオリバーに近づき、複数枚の紙を差し出した。


 紙束は丁寧にまとめられ、表には「予算案」とだけ記されている。ミルヴィウスは、これを通常の予算案として、迷いなくオリバーに提出する。


「殿下。こちらの“予算案”にも目を通していただけますか?」


 ミルヴィウスの声が、静かな執務室に心地よく響く。


「ん?どれ」


 オリバーはミルヴィウスから資料を受け取ると、軽くページをめくる。


 彼の鋭い眼差しが資料の上を滑る。一瞬、彼の片眉が僅かに上がったが、それはすぐに元の無表情へと戻された。


 その資料の内容は、オリバーにとってある種の確信を与えるものだった。


「これか。なるほど。もう少し時間をかけて目を通したい。一旦私が預かろう」


 オリバーはそう言って、資料を自身の机の事務官より遠い脇に置く。声には何の動揺も感じられない。


「かしこまりました」


 ミルヴィウスは恭しく頭を下げ、元の位置に戻る。


 彼にとっては、殿下が予算案を預かった、ただそれだけのことに過ぎなかった。


 部屋に再び静寂が戻る。室内に響くのは、オリバーがペンを走らせるカリカリという音と、事務官が計算機を叩く規則正しい音だけ。その音は、王宮の日常業務が滞りなく進んでいることを示しているようだった。


 数分の後、静寂を破るように、執務室の扉が軽くノックされる。


「なにか」


 ドアのすぐ横に立つ、アイスブルーの美しいロングヘアのメイドが、静かにドア越しで問いかけた。


 彼女の所作には王宮のメイドとして完璧な品があり、控えめながらも確かな存在感を放っていた。


「ペルレ伯爵がお見えになりました」


 表で番をする騎士の声が、ドア越しに届く。メイドは騎士の報告を受け、オリバーに視線を送る。


「ペルレ伯爵様だそうです」


 彼女の声は控えめながらも、しっかりと伝わる。


「通せ」


 オリバーは執務の手を止め、顔を上げた。その短い言葉に、迷いはなかった。


 騎士に促され、入室してきたのはフリッツ・ペルレ伯爵。彼は丁寧な一礼をすると、真っ直ぐにオリバーの執務机へと向かう。その表情は、いつものように穏やかだが、その眼差しには確かな意志が宿っている。


「オリバー殿下、朝早くから失礼いたします」


 ペルレ伯爵の声は落ち着いており、一見すると何の変哲もない挨拶に聞こえる。しかし、オリバーと正対した彼の口元に微かな笑みが浮かぶ。


「ペルレ伯爵」


 オリバーはペンを置き、ペルレ伯爵を真っ直ぐに見据える。その瞳には、隠された意図が宿っていた。


「近頃、貴殿の新しい酒が呑みたいなと、しきりに思うのだが」


 その言葉に、部屋にいた事務官はわずかに首を傾げる。第一王子が唐突に酒の話を持ち出す意図を測りかねたからだ。


 しかし、オリバーは微塵も動揺を見せない。


 ペルレ伯爵は恭しく頷く。


「ええ、もちろんでございます。自信作でございます」


 オリバーはフッと鼻で笑った。


「うむ。では今夜そなたの店に伺おう」


 彼らの言葉は、まるで上流階級の嗜好品についての会話のように聞こえた。







 時を同じくして、アイゼン北北東、ガルズ湖に接するドラハ・ラウアート森林。


 ガルズ湖付近の崖内部に広がるドラハ・ラウアート浸食洞。通称「竜の喉」。


 その最奥には、かつて虚飾のマタド・ク・シアが磔にされていた「ムゲンの牢獄」だった場所がある。


 洞窟内を進む3名は途中、この洞窟の主との交戦があったものの、意に介さず屠り、その場所へ辿り着こうとしていた。


 この場所は3年前に、守護していた聖獣たちも消滅している。その惨劇の記憶と、何かが引き剥がされたような重い空気が、静寂の中に澱んでいた。


 薄暗い通路をレオと、彼に同行するノワル、そしてレオの頭に乗ったキュートが、慎重に進んでいる。足音が反響するだけの静けさの中、3名の吐く息だけが白く霞んでいた。


 ヒカリゴケの明かりが薄れはじめ、ノワルは懐中から魔道具を取り出し、その明かりで周囲を照らした。


 キュートは、その場の重苦しい空気に敏感に反応する。小さな触覚がひくつき、周囲に漂う微細なマナの残滓を嗅ぎ取ろうとした。


 闇蜘蛛の大聖獣カドリーの分身体として、通常の人間には感じ取れないような、この場所の「負の感情」を肌で感じているのかもしれない。


 逆にノワルの表情は、この場所の重い歴史を慮るかのように、どこか厳かだった。


 レオは、かつて虚飾のマタド・ク・シアが磔にされていた場所であることを改めて確認するように、その場の空気を確かめながら呟く。


「テンション下がるんですけど」


 その声は、いつもより低い。彼の視線は、周囲の朽ちた構造物の一つ一つを注意深く探っていた。


 レオは目的の場所である≪ムゲンの牢獄≫だった場所へ辿り着き、迷うことなく足を踏み入れた。


 牢獄の内部は広々としており、中央には十字架がそのまま残されている。それは虚しく空間に立っており、マタド・ク・シアを繋ぎ止めていた楔だけが壊されていた。


 そこには、ただ重苦しい空気が淀むばかりで、もちろん誰もいなかった。


 レオは牢獄の中央に立ち、目を閉じ、意識を集中させる。


 ≪ディセリア≫


 レオが短く魔法名を唱えると、彼の周囲に淡い光が広がり、牢獄全体を包み込んだ。


 それは時空属性の鑑識魔法≪ディセリア≫。


 空間に刻まれた過去の痕跡、魔力の残滓、そして出来事の断片を読み取る力を持つ。光が広がるにつれ、レオの脳裏には膨大な情報が一気に流れ込んできた。


 あまりの頭痛にレオの顔が歪む。ベルの加護を持たない彼には、あまりにも多くの情報が脳に直接叩きつけられ、視覚、聴覚、そして第六感に訴えかけるような情報の奔流に、思わず膝をつきそうになった。


 とはいえ、ショウの記憶が刻まれた時には及ばなかったのだが。


 ノワルはレオの異変に気づき、すぐに傍に寄る。


「レオ様、大丈夫ですか?無理なさらないでください」

「ああ、大丈夫だ。ただ、ここの痕跡には絶望を感じるね」


 キュートはレオの変化を不安そうに見つめている。


 その目には、レオが「視た」ものが映っていなくとも、その敏感な嗅覚と魔力感知能力は、この空間にいまだ明確な悪意と、重い「気配」が噴出しているのを捉えている。その気配は、レオが感じ取ったであろう「絶望」と「痕跡」という言葉と、奇妙に符合するような気がした。


 レオは再び意識を集中させようとしたが、脳裏を突き刺すような痛みに、深く息を吐き出すことしかできない。


「ちょっと、休憩だ」レオが言った。

「さようでございますね」

「わるいな」


 レオはその場に座り込む。まるで、小一時間も全力で動き続けたような疲労感を伴っていたからだ。


「それで、現時点で何かわかったッチュ?」キュートが言った。

「うーん。なんて云えばいいのかな。まずは、この牢獄の外で感じたのは、聖獣の悲痛な痕跡。だがこの牢獄内で感じた痕跡は〝3つ〟」

「3つッチュ?」

「ああ。1つはこのムゲンの牢獄から放たれるオスクネス様の痕跡。もう1つはその十字架に磔にあっていたマタド・ク・シアであろう痕跡。そして、もう1つ。あの楔の破壊痕から感じたのは――」


 レオが天を仰ぐように天井を見上げる。


「――〝マナ分裂〟の痕跡だ」


 その言葉に、ノワルは僅かに目を見開き、キュートは触覚の先を微かに震わせた。


 3者の間に、張り詰めた静寂が数瞬訪れる。


「マナ分裂ッチュ?」キュートが問い返した。

「ああ。災厄が現れる前。かつてこの世界の恐怖の象徴となったマナ化学兵器。“マギ・デシメート”。それに近しい〝なにか〟だ」

「マギ・デシメート……」


 ノワルが固唾を呑む。その顔には、隠しきれない緊張と、深い困惑が浮かんでいるように見えた。


「マギ。それは千年以上前に作られた、エネルギーの希望でもあったんだ。マギの仕組みは大きなマナの塊を分裂させ、その時に生じる膨大なエネルギーを動力に変換するもの。その連鎖作用を制御することで、大量のエネルギーを確保し、かつての世界のエネルギーインフラを賄っていたのさ」

「なるほど」


 ノワルは真剣な眼差しを向ける。その目は、レオの語る事実に深く思考を巡らせているようだ。


「ただ、このマナ分裂には大きな問題があった」

「問題……でございますか」ノワルが静かに促した。

「分裂に必要な、大きなマナ塊を生み出す術が難しかったんだ」

「なるほど」

「最初は、魔獣のマナ核を使った分裂方法。だが、これにも問題があった」

「その問題とは?」

「魔獣のマナ核によるマナ分裂は、短時間しか維持できなかったんだよ」


 レオの言葉に、ノワルの表情が微かに引き締まる。キュートも、じっとレオを見つめていた。


「では……」


 ノワルの声には、不安の色が混じり始めた。


「最終的にたどりついた答え、それは――」


 レオが一度瞼を閉じ、再び開く。


「――生きたヒト属のマナ器官」


 その瞬間、ノワルの表情から感情が消え、キュートは八本の足がわずかに震え、動きを止めた。


 三者の間に、冷たい空気が流れる。


「……信じがたい、事実です」


 ノワルは、低い声で呟いた。その声には、深い衝撃と、静かな怒りが含まれている。


 キュートも「ありえないッチュ……」と、呻くような声を漏らした。


「ヒトをヒトと思わない、その人体実験の数々は、実用後しばらく経って公の目にあらわとなった」


 レオは、そこで一度言葉を区切る。その視線は遠く、過去の光景を捉えているかのようだった。


 彼の表情には、微かな苦痛がよぎり、奥歯を噛み締めるのが見て取れた。


「この恐るべき真実が明るみに出た時、研究者たちには世界中から激しい非難が巻き起こった。その嵐のような声は、多くの人々の目を覚まさせたんだ」


 レオはゆっくりと息を吐き出す。その表情は、まるで重い記憶を追体験しているかのようだった。


「だが、世界の有力者たちはその非難を気にしなかった。何よりも、永遠と呼べるエネルギー源のほうが、彼らにとっては何よりも魅力的だったからな。そして、彼らは気づく。マナ分裂によって生じる、ある〝副産物〟にね」

「副産物ッチュ?」

「ああ。さっきも言ったよな。マギの仕組みは大きなマナの塊を分裂させ、その時に生じる膨大なエネルギーを動力に変換するもの。その連鎖作用を制御することで、大量のエネルギーを確保できるって」


 レオは、冷静に問いかける。


「だが、その連鎖作用を制御しないとどうなる?」

「短い時間で大量のエネルギーを放出する……でございますかね」


 ノワルは、レオの言葉を頭の中で整理しながら問い返した。


「その通りだ。制御を失ったマギは、絶大な破壊力を生み出す」

「その応用がマギ・デシメートという破壊兵器……でございますか」


 ノワルは、その言葉の持つ意味を改めて噛み締めるように言った。


「ああ……。だから俺……いや、かつてのショウはマナ分裂ではなく、マナ融合という比較的安全な方法を模索し、研究したんだ」

「……現代でも使われている、エネルギー供給インフラでございますね」


 ノワルは静かに確認する。彼は、かつての狂気と、現在の平和なエネルギーインフラが奇妙に繋がっていることに静かに気づいていた。


「そうだな」


 レオは、深い疲労感と共に、どこか諦めに似た感情を覚える。ショウとして生きていた頃の記憶が、彼自身の過去と重なり、その重みがずしりと胸にのしかかる。


「まいったね。事は想定よりも深刻な事態かもしれないな」

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