第18話 竜の喉での協奏曲
ベル歴995年、水の月9日。王族配信14日前、9時。
アイゼンの北北東。ガルズ湖に接する位置に広がるドラハ・ラウアート森林。ガルズ湖付近に存在するドラハ・ラウアート浸食洞、通称「竜の喉」。
入り口は波風押し寄せる湖面付近にある。
その入り口から少し離れた崖の上。レオが小手をかざしてガルズ湖を眺めている。
「海じゃないの?コレ」
「いえ、湖でございます。そういえば、ご覧になるのは初めてでございましたね」
隣に立つノワルが、レオの言葉に穏やかに応えた。
「ああ。地図で知ってはいたが、王都から出ることも少なかったし、3年前からはアハートだしなあ。ハンター活動もアハート付近での依頼ばっかで、ガルズ湖を見るのはこれが初めてだ」
レオの視線は、どこまでも広がる水面を捉えていた。
「ここからではあまり感じられませんが、湖の中央付近には巨大な結界と広範囲を補う迎撃魔方陣が展開されております」
「なるほどねー」
キュートがレオの頭から飛び降り、足元でぴょこりと小さな体を揺らした。前脚の一本で崖下の一か所を指し示す。
「入り口はあそこッチュ」
「あー。わかりにくいうえに、どうやって下りんの?あそこ」
「近づくのが難しくなければ意味はないですからね」
レオの問いに、ノワルが冷静に返す。
「結界とか張ればよかったんじゃないの?」
レオが素朴な疑問を口にする。
「ムゲンの牢獄から放たれるマナに当てられて、この周辺は上手く結界が張れないッチュ。そこらへんがムゲンの牢獄の欠点でもあるッチュ。でも、どちらにしろ、簡単にムゲンの牢獄を打ち破ることは出来ないッチュ。そのために聖獣の番をつけていたんでッチュが……」
キュートの話を聞いたレオが、確かめるように結界を発動させようとするが、すぐに霧散する。
「なるほどね。そんなムゲンの牢獄が、3年前破られた、と」
「誠に面目ないッチュ」
キュートがしょんぼりと肩を落としたように見えた。
「まあ、過ぎたことだしね、その原因を探るのも今回の目的だし。でもどうすっかな。時空属性の結界を足場にしておりようと考えていたけど……」
「飛び降りるのはいかがでしょう?」ノワルが提案する。
「やだよ。キュートは岸壁伝いで下りていけるだろうし、ノワルはその身体能力で何とかなるかもしれないけどね、俺は普通のヒュマーノ族なの。この高さから飛び降りたら死ぬよ、死ぬ」レオは顔を引き攣らせた。
「普通の?」ノワルが僅かに首を傾げる。
「なんだよ、その顔は。そりゃたしかにね、その辺のヒトよりは頑丈だよ?着地寸前でなにかしらの魔法でも放てば、怪我は軽微で済むかもしれないよ?それだって、怪我前提なうえに、怖いもんは怖いんだよ」
レオの言葉に、ノワルは困ったように目尻を下げ、キュートも小さな体をうずめるように俯く。やはり、降りる手段は一筋縄ではいかないようだ。
「俺がベル様と同じ瞬間移動の魔法が使えりゃいいんだが、あれは聖霊魔法だし、ベル様の加護を持っていない俺にはまだ使えないからな」
レオは改めて崖下を見下ろす。足場になりそうな場所はどこにもなく、切り立った岩肌がそのまま湖面に落ち込んでいる。このままでは調査の開始すら危うい。何か他に方法はないか、とレオは思考を巡らせた。
「あっ!キュートの糸でロープを作って下りていくってのはどう?」
レオはハッと閃いたように声を上げた。
「キュートの糸、ッチュ?」
キュートが前脚を一本、スッと伸ばしてみせた。細く、しかし見るからに丈夫そうな銀色の糸が、その指先から僅かに伸びている。
「キュートの糸は、とっても丈夫だッチュよ!鋼鉄よりも頑丈だし、どんな衝撃にも耐えられるッチュ!」
自慢げに胸を張るキュートに、レオの顔が輝く。
「まじか!それなら完璧じゃん!それで作ったロープなら降りていけるだろ!」
レオは興奮気味にキュートを見つめた。ノワルもまた、その提案に静かに頷いている。
「確かに、キュート様の糸であれば、その強度は保証できます」
「よし、じゃあ頼む!キュート、ロープ作ってくれ!」
レオの言葉に、キュートは張り切ったように「まかせろッチュ!」と応え、早速糸を紡ぎ始めた。
銀色の糸が瞬く間に束になり、みるみるうちに太く、頑丈なロープへと形を変えていく。その光景はまさに魔法そのものであった。
「おおっ!ありがとう!キュート!」
「容易い御用ッチュ!」
レオはキュートから出来上がったロープを受け取ると、近くにあったそれなりに頑丈な木に括り付ける。ぎゅっぎゅっ、と引っ張り、その強度を計ると、ロープを崖上から湖面へ向かって放り投げた。
「よしっ、いくか」
「かしこまりました」
ノワルはレオの肩、キュートは再びレオの頭に飛び乗る。レオはロープを伝い、慎重に崖を下り始めた。
波音がすぐ間近に聞こえ、ひんやりとした湖の飛沫が顔にかかる。
ノワルはレオの肩から、キュートも頭の上から周りを警戒している。彼らもまた、そのしなやかな体でレオの動きに合わせてバランスを取っていた。
やがて、全員が「竜の喉」の入り口に到着した。
そこは、波に洗われた黒い岩肌にぽっかりと開いた、大きな洞窟の入り口だった。
洞窟の奥からは、冷たい空気が澱んだように流れ出している。
レオはあたりを見回しながら呟く。
「ここが竜の喉……」
外から見た印象以上に、中は広そうだ。薄暗い洞窟の奥からは、水が滴る音と、微かな風の音が聞こえてくる。
ノワルがレオの肩から飛び降り、静かに答える。
「ええ、この奥がムゲンの牢獄へと続いております。それとレオ様」
「なんだい?」
「今更ですが、箱庭経由でここに――」
「云うな、ノワル。俺も下りている途中で気づいてたんだ」
レオが苦笑する。ノワルに指摘されるまでもなく、下りている途中で既にそのことに気づいていたのだ。
非効率な方法を選んでしまった自分に、思わず苦笑いが漏れる。だが、今更言っても仕方ない。まずは目の前の「竜の喉」の調査が先だ。
キュートがレオの頭の上で、小さな前脚を洞窟の奥へと突き出した。その瞳は、暗闇の先を見通すかのように輝いている。
「ここから、マタド・ク・シアのマナの残滓があるかどうか調べるッチュ!」
「よし、慎重に進むぞ。カドリーが云うには、魔獣の住処になってるらしいからな」
レオは腰の剣に手をやり、洞窟の奥へと足を踏み入れた。彼らの足音が、静かな洞窟に吸い込まれていった。
「竜の喉」は、外見からの想像をはるかに超える広がりを見せていた。
天井は高く、その表面はまるで巨大な生物の食道のように脈打っているかのように見える。ところどころから染み出した地下水が、小さな滝のように流れ落ち、薄暗い洞窟内に神秘的な水音を響かせていた。
洞窟内はヒカリゴケのおかげで、その全貌をわずかに映し出す。足元は滑りやすい岩場と水たまりが続き、レオたちは慎重に歩みを進める。
この浸食洞は、自然が織りなす神秘と危険を内包している。
キュートの瞳が暗闇の中で鋭く光り、微かな目標に向かっていく。ノワルは常に周囲を警戒し、レオの背後を守っていた。
しばらく進むと、洞窟の道は次第に広がり、やがて巨大な地底湖へと辿り着いた。
水面は鏡のように静まり返り、上から滴る水滴が波紋を広げている。その奥は闇に閉ざされ、何も見通せない。
不意に、水面が大きく波打った。
最初は微かな揺れだったが、すぐに湖全体が激しく脈動し始める。ゴボゴボと、底から何かが湧き上がるような泡立つ音が響き渡り、洞窟全体が低いうなり声を上げているかのようだ。
レオは腰の剣に手をかけ、冷静にその現象を見守る。
その動きに呼応するかのように、闇の中から、形容しがたい巨大な影がゆっくりと姿を現し始めた。
ヌメりとした感触を伴う水音が洞窟に響き渡り、水面が大きく盛り上がる。
そして、暗闇を切り裂くように現れたのは、サンショウウオ型の魔獣ヴァラゴアに似た、〝なにか〟。
「ここまで、魔獣の姿が見えなかったのは、こいつが原因か」レオが言った。
通常のヴァラゴアよりも四周りほども大きい、これまで観測されたことのない異様な色彩の巨体だった。
体長は10メートルを優に超え、その皮膚は深紅、鮮やかな青、そして猛毒を思わせるような蛍光緑の斑点が複雑に入り混じり、薄暗い洞窟の中でも異様な光を放っている。
まるで巨大な警告標識のようなその姿は、サンショウウオの形状を保ちつつも、通常のそれとはかけ離れた、おぞましい迫力を放っていた。
爛々と輝く黄色い瞳がレオたちを捉え、その巨大な口がゆっくりと開かれる。そこから、僅かながらも粘り気のある泡が零れ落ち、水面に落ちた途端、ジジッと音を立てて波紋を溶かし始めた。
キュートは、その巨体を目にするも、冷静な表情で状況を見守る。レオとノワルも同様に焦りの色は見えない。
ノワルはその身をヒト化させる。瞬く間に、黒い装束の上に革の防具を纏った長身の優雅な青年へと姿を変え、背中に背負った大剣に手をかけた。
眼前に現れたのは、浸食洞に紛れ込む魔獣や水生生物を捕食し、この場所の生態系の頂点に君臨するサンショウウオの魔獣。
未だ観測例のないその巨大な姿に、レオは静かに呟く。
「さしずめ、ギガヴァラゴア、といったところかな……」
この巨大なサンショウウオの魔獣は、縄張りを守ることに徹しており、知性を持たず、交渉の余地はない。
圧倒的な存在感を放つギガヴァラゴアが、ゆっくりと首をもたげ、警戒の唸り声を上げた。
その巨体から放たれる殺気が、冷たい空気を一層凍てつかせる。
レオは剣を握りしめ、静かに構える。ノワルもまた、大剣に手をかけたまま、その鋭い視線で巨獣を見据えていた。
ギガヴァラゴアが、その巨大な体躯を揺らし、低い唸り声を上げた。
その派手な体色は威嚇なのか、あるいは単なる擬態なのか、レオには判断がつかない。ただ、警戒すべき強大な魔獣であることは明らかだった。
レオは未だ静かに剣を構え、ノワルもまた背中の大剣に手を添えたまま、ギガヴァラゴアの動きを注視している。キュートはレオの頭上に留まり、小さな体で周囲の状況を探っている。
彼らの顔に焦りの色は見えない。
先に動いたのはギガヴァラゴアだった。
巨大な口が大きく開き、粘り気のある液体を放出する。それは明らかに危険な酸性の粘液だ。
「おっ?」
レオの声と同時に、酸の塊が放物線を描いて迫る。レオは咄嗟に時空属性の結界を展開しようとした。しかし、この浸食洞がムゲンの牢獄から放たれるマナに影響されていることを思い出し、展開しかけた結界は、まるで熱気に当てられた蜃気楼のように、瞬時に霧散してしまう。
「あ。そういえばそうだった」
レオは一瞬苦笑いを浮かべ、迫り来る酸の塊を紙一重で横に跳躍して避けた。
しかし、ギガヴァラゴアは連続して攻撃を放つ。鋭い爪の生えた前脚を振り上げ、レオに襲いかかると同時に、再び口から酸の塊を放った。
その瞬間、ノワルが動いた。
彼は大剣に手をかけた状態から、まず聖霊魔法≪纏い≫の一つ、闇聖霊魔法≪ソンブルベール≫を発動させる。
ノワルの身体が淡い闇の帳に包まれたかと思うと、そのまま驚異的な速度でギガヴァラゴアとの距離を詰めていった。
ギガヴァラゴアは巨体を揺らしながら、鋭い爪の生えた前脚を振りおろす。
ノワルはその一撃を構えた大剣で防ぐ。鋼鉄のような爪と大剣がぶつかり合う鈍い音が洞窟に響き渡る。
ノワルはその膂力で巨獣の攻撃を防ぎきるも、直後、その衝撃でノワルの体が僅かに宙へと弾かれた。
宙に舞ったノワルに向け、ギガヴァラゴアの口から放たれた酸の塊が迫る。
その刹那、≪ソンブルベール≫の闇は、酸の攻撃を手応えなくすっと後方へ透過させ、背後の岩肌をジュウと溶解させた。
ノワルはそのまま着地しようとするが、冷静な構えを崩さない。
一方、レオは攻撃をかわした後、着地の体勢を立て直すと同時に、剣に魔力を集中させ、反撃の機会を窺っていた。
ノワルは着地すると、すぐさまギガヴァラゴアへと再び間合いを詰め、大剣の切っ先を巨獣の足元へと滑らせる。しかし、分厚い皮膚は容易には切り裂かれない。
その間、ギガヴァラゴアがノワルに意識を向けている隙を突き、魔力を込めた剣をレオが構える。
レオが持つ時空属性の魔法は、時と空間の情報を司ることで、時空属性のマナを他属性に変換して利用することも可能としていた。
元英雄としての記憶が、この状況で最適な魔法の選択を促す。
レオは地底湖の湖面へと剣を向けた。
ひんやりとした空気が集中し、キン、と乾いた音と共に、広大な地底湖の湖面全体に瞬く間に分厚い氷が張り詰める。水中にあったギガヴァラゴアの体も瞬時に厚い氷に覆われ、その場から動けなくなった。
巨獣は突如として動きを封じられ、氷の膜がその体に食い込み、もがきながら体を揺らす。
「ッチュ!今ッチュ!」
キュートの声が響く。
キュートはレオの頭から飛び降り、まだ氷に覆われていないギガヴァラゴアの頭部から腹にかけて、細い銀色の糸を素早く巻きつけていく。その糸はみるみるうちに複雑な網目を形成し、氷に固定された巨体の、まだ自由な部分をさらに締め付け、動きを完全に封じた。
ギガヴァラゴアは氷と糸の両方によって動きを封じられ、激しく体を揺らす。
しかし、ノワルがすぐさま追い打ちをかけるべく動き出す。
「キュート様、喉元を開けていただけますか」
「了解ッキュ!」
ギガヴァラゴアの喉元の糸が、キュートの意思によって開く。
ノワルは大剣を振り上げ、凍結と拘束によって動きの鈍った巨獣の首筋へと渾身の一撃を叩き込む。キュートの糸が巻き付いたことで、ギガヴァラゴアの体勢はさらに崩れ、ノワルの攻撃は確実に急所へと吸い込まれていく。
ギガヴァラゴアが悲痛な悲鳴を上げた。
派手な体色が薄れ、巨体がゆっくりと氷の張った地底湖の湖面へと叩きつけられた。
その衝撃で多少崩れた氷の飛沫が上がる。巨体はぴくりとも動かない。
戦いはあっけないほどに短時間で終わり、洞窟には水が氷を弾く音と、 微かな風の音が戻ってきた。
レオは剣を下げ、ノワルも大剣を背中へと収める。キュートがレオの頭へと戻ってきた。
「見事な連携だったな」レオが静かに呟いた。
沈黙が支配する地底湖に、レオの声が響く。
「さてと、とどめも刺したことだし、こいつの死体を回収しておくか」
レオはそう言うと、右手を地底湖の湖面へと翳した。彼の掌から微かな光が漏れ出すと、≪クロノボックス≫が発動する。
見る見るうちに、ギガヴァラゴアの巨大な死体が、空間の歪みの中に吸い込まれて消えていった。
「これで素材も確保できたな。ムゲンの牢獄の調査ついでに、思わぬ収穫だ」
レオは満足そうに頷いた。




