05.太陽と旅人
「本妻対愛人かぁ……誰から出た噂なんだろうね」
その日、レイスは自室で仕事をこなしていた。
オークションが終われば、次は鑑定の依頼の仕事が待っている。場合によっては次のオークションに出品してほしいという話にまでなり、レイスとしてもおいしい内容だ。
「恐れながら、旦那様の行動も噂の一端かと」
「あはは、そうだった」
レイスの書いた手紙を整理しながら、ロベールが答える。
ファスとは、噂通り幼馴染ではある。
しかし、レイスとファスの間に「結婚」の話題が出たことはなかった。
最も、ファスの母親がどう思っていたかは知らない。ただ「より格式高い家との婚姻」を強く望んでいたのはファスの母親だ。レイスの結婚が決まる前、彼女がどう噂を操作していたかなんて、想像に難くない。
――と、そこまで考えたうえで、レイスは何もしなかった。幼馴染なのだから行動を共にすることは多かったが、結婚をするというより面倒を見る相手だという認識が強い。また、「噂」ごときでリーミエン家が動くとは思っていなかったからだ。
ファスは幼い頃は自己主張を全然しない子どもで、お腹がすいても怪我をしても何も言わない性格だった。けれど自分の意志がないわけでもない。だからこそ今こうしてアイレに懐いているのか不思議なのだが――あの笑顔をつけ始めたファスのことだ。何か考えがあるんだろう。レイスにその考えはさっぱり分からないが。
「でも、僕だって突然やってきた結婚話だからね」
「交易ルートを広げられると喜んでいたではないですか」
そう、リーミエン家にとってバーリド家からの婚姻の打診は都合が良かった。
バーリド家は「古い血筋を何より重んじる」一族。だからこそ同じく古い歴史を持つリーミエン家を選んだ。オークションに呼んでも来ないほどには彼らは古美術に興味はないようだが、古い家業を軽んじないからこそ、リーミエン家にとって、レイスにとって都合が良かった。そういう話だった。
「結果的に彼女が来てくれて良かったじゃないか」
窓の下から聞こえてくる幼馴染の高い声に、レイスは笑った。どうやら今日は庭園でお茶を楽しんでいるらしい。
「経済の教育を受けてきたのかな、貴族の令嬢にしては珍しい」
「……リーミエン家に嫁ぐ際、多少本を読まれたらしいです」
「真面目だなぁ」
蝋の上にシグネットリングを落としたレイスは、とても楽しそうにそう零す。ロベールもそれには賛成だった。
「――やっぱり、価値のあるものはこの目で確かめてこそ、意味があるよね」
レイスは手紙をすべてロベールに託し、賑やかな窓の下を覗き込んだ。
***
庭園のテラスでは、ファスがいつもの柔らかな笑顔で紅茶を注いでいる。
アイレは扇を軽く振って応じ、時折小さく笑みを零した。受け取ったカップの縁にそっと指を添える仕草まで、無駄がない。
どれだけ小さな動きでも洗練されているアイレを見ていると、ファスの胸の奥がじんわりと温かくなる。
「貴方はもっと高位の貴族に嫁げるはずよ。家ためにも、自分の心は捨てなさい」
不意に、母の声がよみがえる。
昔から何度も言い聞かされてきた言葉だ。あの声はいつも、誰よりも正しく、誰よりも冷たかった。
子どもの気持ちも分からないまま、自分の理想だけを押しつけてくる母に、ファスは何度心の中で失望しただろう。
けれど、結局はその望みに従った。
いつしか本音を隠し、「柔らかな笑顔」を貼りつけることにも慣れてしまった。
「……?」
ふと視線を感じて顔を上げると、上階の窓からレイスがこちらを見下ろしていた。目が合うと、彼はいつものように気負いのない笑顔で小さく手を振り、そのまま姿を消す。
レイスもまた、社交の場ではそれなりの顔を持っている人間だ。
だが、決定的な違いがある。
彼は、自分で選んだうえで、その立場に立っている。
実際は家業である古美術品が好きだからそうなったようだが、そこで見せる飄々とした態度も、無理に作っているものには見えない。
まるで最初からそういう人間であるかのように、自分の在り方を手にしながら飄々としている。
その姿は、ファスにとって羨ましくはあるが、掴みどころのないものだった。
笑顔を振りまくようになってから、「お似合いだ」と周囲に囁かれたこともある。似た者同士、という意味ならば、そう見えるのかもしれない。
しかし――アイレは違う。
アイレもまた、仮面をつけて生きているはずなのに、その奥にきちんと「アイレ」がいる。
政略結婚を受け入れ、心ない噂に晒されようとも、背筋を伸ばして前を見ている。
先ほど、噂の話題が出たときも、ほんの一瞬だけ睫毛を伏せた。それでもすぐに顔を上げて微笑んでみせた。
同じように「家によって作られた」はずなのに、どうしてこうも美しいんだろう。どうしてその生き方で、純粋に花が好きでいられるんだろう。
羨ましい、とさえ思わずにはいられない。
けれど、それ以上に美しい。
ファスはそっとティーカップを置き、アイレの方へ視線を戻した。
頭上で枝が揺れ、木漏れ日がちらついた。
上から垂れる枝の隙間から、ひょっこりと茶色の生き物が顔を出す。
「まあ……」
「あら」
音の主は小さなリスだった。まだ子どもに見えるが、親の姿は見当たらない。
ふとアイレに視線を戻すと、瞳を潤ませてリスを見つめていた。
「子リスがここにいては危ないですわ。避難させましょう」
アイレはそう言うと、近くに待機していた侍女に、リスを保護して近くの林に戻すよう指示を出した。
侍女は頷くと麻の袋を持ち出し、リスを優しく中へ入れ、木の実も忍ばせていた。
その様子を、アイレは真剣に見ていた。侍女が場を離れるまで、ずっと見つめていた。
そこでファスは、ようやく腑に落ちた。
「アイレ様、リスがお好きなんですね」
「……そう見えましたかしら?」
「はい、とても」
アイレは恥ずかしそうにそっぽを向き、扇で口元を隠す。しかし顔が暑いのか、扇でパタパタと顔を仰ぎ始める。
「……っわたくし」
「はい?」
珍しくアイレが言葉を詰まらせている。らしくない、けれど新鮮なその様子を見守っていると、彼女は決心したように息を吐いた。
「わたくし……動物が、好きなんですの」
ファスの胸の奥が小さく震えた。
今までアイレとファスのお茶会は、ファスが主導していた。誘えばアイレは快く受けてくれており、嫌な顔一つしなかった。会話もアイレが振ることもあれば、ファスが話し出すこともあった。
それでもあまり自分の話を積極的にしないアイレに、ファスは「そういう育ち方をしたんだろう」と思っていた。
しかし今、アイレは自分の話をした。
ファスが聞かなくても、自分から――。
「それは、とても素敵なことです。アイレ様らしくて」
彼女の新しい一面を、また一つ知ることができた。
その喜びを表に出さないよう、大きな声を出さないよう努めた。
「リスがお好きなんですか?」
「その、リスも好きですが――馬など大きな動物も……」
「分かります、馬ってかっこいいですよね――そうだ、今度馬に乗ってお散歩しませんか?」
「行きたいんですけれど、わたくし、一人で馬に乗ったことがなくて……」
「それなら、わたくしも馬を出させますから大丈夫ですよ」
アイレは「なるほど」と目を大きく開いた。
そうと決まれば、行く場所を決めて、それからレイスに許可を取らなくてはならない。
二人は日が暮れるまで、楽しそうに話を続けた。




