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02.北風と太陽

 豪華なシャンデリアの下、執事長・ロベールを伴って現れたアイレ。

 今日はアセンブリ・ルームで開かれる舞踏会の日。レイスが不在のため、執事長であるロベールと参加することはおかしなことではないのだが、周囲の目はそう言っていなかった。

 現にアイレと挨拶を交わした貴族からは、「リーミエン伯爵はご不在ですのね」と声をかけられる。レイスの家業を知らないのか、とアイレは内心呆れた。


「家業柄、屋敷を空けることが多いのです。ご説明が行き届いておりませんでしたかしら」


 ――リーミエン家の家業など、説明を要することでもないと思っておりましたのに。

 どうやら、言外の意図は伝わったらしい。相手の目尻がわずかに歪む。

 もちろん、それを見逃すアイレではない。


「わたくしの不徳でご心配をおかけいたしましたわ。ですがご安心くださいませ。リーミエンの名を預かる以上、その務めは果たします」


 扇で口元を隠したアイレは、陰でわずかに唇の端を上げ、ロベールと共にその場を去った。


 アイレは人混みを避け、冷えた空気の流れるテラスに近い回廊へと歩みを進めた。

 そこなら、好奇の視線も、吐き気がするほど甘い香水の匂いも届かないはずだった。


 アイレがその場を離れた後、悔しそうに顔を赤くした令嬢たちが、案の定アイレの陰口を叩き始める。


「聞いた? さっきのリーミエン夫人の言い草」

「高慢な方よね、リーミエン卿に放っておかれているくせに!」

「ええ。可愛げのないこと。あんな氷のような女が隣にいては、レイス様が旅から戻りたくなくなるのも無理はありませんわ」

「本当。ヘリオス様だったら、もっと華やかで温かい夜会になったはずですわよね?」


 柱の陰で、数人の令嬢が声を潜めて笑い合っている。アイレは足を止めた。怒りよりも先に、「またか」という倦怠感が胸を突く。

 反論するのも馬鹿らしい――そう思った、その時だった。


 そこに、柔らかな声が会話を遮った。


「……あら。今、私の名前を呼びませんでしたか?」


 アイレは思わず自身も柱に身を隠す。ロベールもそれに釣られたように、その場の様子を伺い始める。


 柱の陰から現れたのは、金色の髪を優雅に揺らした女性――ファス・ヘリオスだった。温かな日差しを思わせる声色に、穏やかに細められた茶色の瞳。その笑顔は、曇り空から差す陽光のように眩しい。

 どうやら彼女たちはここにいるアイレたちに気付いていないようだ。そのまま会話が続いていく。


 令嬢たちは、自分たちが味方であるとアピールしようと思ったのか、喜んで「そうなのです、ヘリオス様もお可哀想に……」と口々に同意を求めた。


「あら? 私にはリーミエン夫人が『放っておかれている』ように見えませんでした」

「え……」


 アイレから零れた驚きの声は、誰かの声にかき消された。


「私は、あのような方をこそ、真の貴族と呼ぶのだと思います。皆様、リーミエン卿の好みが『お人形』だとお思いですか?」


 声は柔らかい。けれど否定の余地は残されていなかった。ただ、一点の曇りもない正論として放たれる「太陽」の光に、陰口を叩いていた令嬢たちは顔を赤くして黙り込むしかなかった。

 アイレは、思わず息を呑む。

 ちらりと横を見れば、隣に立つロベールの眉が、驚きで微かに跳ね上がるのが分かった。


 令嬢たちがそそくさと退散した後、回廊に残されたのはファス一人。

 彼女は一瞬だけ困ったように眉を顰めると、顔にかかる金の髪を振り払い、ホールへと歩き出した。

 フォスが去った後、アイレはロベールを見遣った。ロベールは珍しく、言葉を失ったように瞬きを繰り返している。恐らくアイレも同じような表情をしているだろう。

 フォス・ヘリオスは、噂に違わぬ温かな令嬢だった。

 ――少なくとも、あの言葉は演技には見えなかった。


「確かめもせずに噂に振り回されるなんて……わたくしとしたことが、軽率でしたわ」


 ロベールは静かに目を伏せた。




 ***




 アイレの動揺がようやく収まった頃、二人はホールに戻ったのだが、再び予想だにしなかった展開が、アイレを待っていた。


「リーミエン夫人」


 呼びかけに振り返ると、ファスが先程までと変わらない柔らかな笑顔で立っていた。その瞳は、まっすぐアイレを捉えている。

 まさか、ファスが自分から声をかけてくるとは思わなかった。それは周囲も同じだった。

 顔にこそ出さないものの、アイレは反射的に身構えてしまう。


「リーミエン夫人、改めて……この度はご結婚、誠におめでとうございます。ずっと直接お祝いを申し上げたいと願っておりました。今日、こうしてお目にかかれて、本当に光栄です」


 アイレの前で優雅に膝を折り、ファスがそう言った。

「お祝い」というカードで声をかけてくるとは思っていなかった。けれどアイレも貴族の人間。扇を畳み、ファスに正面からお礼を述べる。


「……ご丁寧に、ありがとうございます。ヘリオス様。貴方のような方にそう言っていただけて、リーミエン家も誇らしく思うでしょう」


 アイレは目元だけを緩め、完璧な夫人として応じた。内心では、彼女が何を考えているのかと心臓が激しく鐘を打っている。

 周囲の貴族たちは険悪な空気を期待していたようで、彼らから動揺の声が漏れていた。

 そんな空気の中、ファスはさらに一歩、アイレとの距離を詰めた。


「私、リーミエン夫人とは以前から一度お話してみたいと思っておりました。もしよろしければ、近いうちにお茶でもいかがでしょうか? 夫人とはぜひ、ゆっくりお話ししたいのです」


 ファスの茶色の瞳が、アイレをじっと見つめる。


「……ええ、もちろんですわ」

「嬉しいです! では、私から改めて招待状をお送りしますね」


 ファスは周囲に花が咲くような笑みを振りまき、アイレにだけ、ほんの一瞬強い光を瞳に残して、軽やかにその場を去っていった。

 その場に残された者は誰もが、今見た光景の意味を測りかねていた。ただ一人、最も理解できていないのはアイレ本人だった。

 敵意は感じない――それが、かえって落ち着かなかった。






 舞踏会から数日後、ファスの言っていたお茶会が実現された。彼女の行動はとても早かった。舞踏会の翌日には招待状が届き、リーミエン家中がざわめいている間に日程が決まり、誰もが困惑している合間に当日になった。

 これまでの出来事にも十分混乱していたアイレだが、その困惑はヘリオス家で頂点に達することになる。

 何故ならヘリオス家がやけにアイレを温かく迎えたからだ。使用人たちの笑顔にも他意は見えない。

 そんな雰囲気で案内されたのは、色とりどりの花が揺れる庭園だった。その美しい光景に、アイレは思わず口元を綻ばせる。


「リーミエン夫人、お待ちしておりました!」


 ニコニコと笑みを浮かべるファスが、白いガーデンチェアから立ち上がり、アイレへ近付いてくる。相変わらずの眩しい笑顔に、アイレはいつもの調子で挨拶を返した。

 最初は当たり障りのない会話だった。お祝いを言われたり、お茶やお菓子の感想を述べたり、素晴らしい庭へ賛辞を贈ったり。


「以前から夫人に興味があったのです」


 柔らかな雰囲気の中、ファスがそう言った。舞踏会の日の、彼女はアイレと話したかったと言っていた。


「それに舞踏会でのご対応、本当に素晴らしかったです。私も……」


 一瞬、雲が太陽を隠した。


「私も、夫人のようになりたかった」


 見たことのないファスの表情に、アイレはドキリとした。

 今までの温かな笑顔とはまるで違う陰ったファスの一面を、アイレの持つ言葉では、表現することができない。


「……なりたかった、とは。どういう意味ですの、ヘリオス様」


 アイレの声は、わずかに震えていた。

 いつも通りの笑みを浮かべるファス。だが、アイレは騙されない。先程の、雲が太陽を遮ったような陰りを、彼女は確かに見たのだ。


「ふふ、そのままの意味です……リーミエン夫人、貴方もご存知でしょう? 望まれる姿で在り続けることが、どれほど苦しいか」


 ファスはティーカップをソーサーに戻した。カチリ、という小さな磁器の音が、静かな庭園に響く。


「……ヘリオス様、貴方は――」


 ファスは何も言わずにニッコリ笑った。

 アイレは、返す言葉が見つからなかった。自分は「古き貴族令嬢」として孤独を選んできたが、目の前で微笑むこの女性は、誰も近づけない「太陽」として孤独の中にいたのだ。


「……わたくしも、貴方が羨ましかった」


 お茶が温くなった頃、アイレの口から無意識に言葉が零れた。

 ファスが驚いたように目を丸くする。もちろん、アイレ自身も驚いていた。こんなことを言うつもりはなかった。

 向かいのファスが静かに席を立つ。どうしたのかと思えば、彼女はアイレのすぐ隣へと歩みを進め、そっと手を差し出した。


「……アイレ様。私たち、お友だちになりませんか?」


 ファスの瞳は、大きく揺れていた。

 その奥に宿る濡れた光は、陽の差し込む海のようだった。

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