01.北風と旅人の結婚
アイレ・バーリドの結婚は、両親によって決められた。けれどアイレに異論はなかった。貴族の尊い血筋を絶やしてはならないという義務があるからだ。
アイレはバーリド家の人間ではなくなるが、結婚相手の家系もバーリド家に引けを取らないほど歴史のある家だ。両親から常々「古き血を重んじろ」と言われているアイレにとって、結婚相手になったリーミエン家に嫁ぐことは、ある意味当然だと思えた。
「古美術鑑定家、レイス・リーミエンね――皮肉ですこと」
小さな声は雨音にかき消された。窓に反射した自分の顔は自嘲気味に笑っている。結婚式は明日、外は雨雲で真っ暗だ。
アイレは明日、初めて自分の結婚相手と顔を合わせることになる。
結婚式は恙なく終わった。事前の打ち合わせ通り、何のトラブルもなかった。翌日の朝までの予定も母から聞いていた通りに進んでいき、こんなものなのかと、アイレはほっとしたようなガッカリしたような気分になった。
しかし、翌朝にしっかりと「ガッカリ」することになった。
というのも、翌日の朝食までレイスとの会話は全くなく、唯一の会話は、彼が骨董品や美術品を見繕うためにしばらくの間外出するという報告だった。
仕事熱心なのは良いことだと思ったアイレは、レイスを快く送り出す。
「さようですの。お気をつけていってらっしゃいませ」
「家のことは執事長に任せてあるから、君はまだ休んでても大丈夫だよ」
レイスは貴族特有の堅苦しさを排除した、親しみやすい口調でそう言った。
「お気遣いありがとうございます。でも、わたくしはすでにリーミエン家の者。勤めは果たしますわ」
「……そう? まあ無理はしなくていいよ」
口だけニッコリと笑ったレイスは、身支度のために早々に朝食を切り上げ、食堂にはアイレがポツンと残される。
ここまでは特段おかしなことはなかったが、食堂を出ようとした時に、扉の向こうから小さな会話を聞こえた。
「――てっきりヘリオス嬢と結婚されるのだと……」
「幼馴染だものね」
「以前からそういう話を聞いたことがあるわ」
「え? それじゃあ旦那様は元々、ヘリオス嬢と結婚する予定だったの?」
「ちょっと、声が大きいわよ――」
そこで声は遠ざかっていく。
そう。リーミエン家は歴史のある血筋だ――だから、妻以外に親しい女性がいても――貴族とは、そういうものなのだろう。
アイレは平然とした表情で食堂を出ると、何事もなかったかのように執務室へ向かった。
***
執事長は、自分の見立てが誤っていたのではないかと、わずかに背筋を正した。
「まずは仕事の一覧をくださる? それに招待客の候補があれば、そちらもお願いしますわ」
招待客とは、リーミエン家が開くオークションへの招待客だ。サロンで不定期に開かれるオークションを主催しているリーミエン家は、オークションに呼ぶべき客を選んでいるのだが――。
「恐れ入りますが、奥様はオークションに参加したことがおありでしょうか」
「いいえ。確か、バーリド家は参加したことがないはずですわ」
そうだろうなと執事長は思った。招待状を送ったことはあるが、記憶の限りバーリド家の者がオークションに参加したことはない。
何せこの婚姻は、バーリド家が「古い血筋を何より重んじる」一族ゆえに、同じく歴史あるリーミエン家を選んだものだ。古美術など興味の外――むしろ、交易ルートやコネを広げたいリーミエン家側にとっても、
古い家業を軽んじないバーリド家との縁は都合がよかった。レイスでさえ家業優先で、相手が誰であろうと深く考えなかったのだろう。きわめて貴族らしい、冷徹で合理的な理由。
――つまりアイレの家もアイレ自身も「客」ではないのだが、彼女は「次回出店する商品の目録を作りましょう。現時点でどれくらいあるのか把握しておくべきですわ」と淡々と話を進めている。それは“客として招かれる側”の言葉ではなかった。少なくとも、何も分からないまま座っているのではない。
正直、社交界でのアイレの噂は――現在、あまり良くない。今見た限りでもアイレはお世辞にも愛想は良くなく、表情を表に出さない貴族然とした女性だ。貴族令嬢としてその様子は普通なのだが、いかんせん主人であるレイス・リーミエンには、結婚を噂されていた女性がいた。
その女性はレイスの幼馴染、ファス・ヘリオスという名前で、アイレとは正反対の女性だ。
執事長から見てもレイスとファスは仲が良く、いずれは二人が結婚すると思っていたのだが――アイレがレイスと結婚したことで、アイレは瞬く間に「幼馴染の二人を引き裂いた女性」と認識されてしまった。
要するに、執事長もアイレに対して偏った認識をしてしまっていたのだが、彼女のこの様子を見て、自分も噂に振り回される大衆の一部なのだと恥じ入る。
「かしこまりました。資料が揃い次第、お渡しいたします」
執事長は一礼しながら、この方への見立てを改めねばならないと静かに思った。
執事長から渡された資料を手に、アイレは小さく息を吐いた。
“夫人”として扱われてはいる。だが、“歓迎”されていないことも、否が応でも伝わってきていた。
誰もいない執務室に、アイレの吐息は音もなく消えていく。
「わたくしが選んだとでも思っているのかしら」
そんなわけはない。むしろアイレだって、自分の両家に、領地に引っ込んでしまったリーミエンの元当主に、どうして自分を結婚相手に選んだのか問いただしたいくらいだ。
しかし、そんなことは貴族令嬢のするべきことではない。アイレはそう分かっているからこそ、父親にそれを尋ねたことはなかった。
だというのに、第三者が好き勝手にベラベラと噂をしている。きっと噂を流している者たちは、自分が選ぶ立場だと勘違いしている愚か者に違いない。
ふと庭の端に視線を移した。薄暗い空の下、雨に打たれた花々が、静かに揺れている。
……いつか、あの花たちに触れられる日が――。
アイレは首を振り、資料を開き、余計な考えを振り払う。
窓の外では、まだ空が重く曇っていた。




