複雑な家庭環境
私が育った町は家の二階からでも富士山が遠くに一望できる澄んだ田舎町。
母に連れられてこの町へやって来たのは私が小4の時の事だった。
でも、その時、なぜか私の父はいなかった。サラリーマンの父は地方へ出張も多く、単身赴任で一年、二年、家を空ける事もあり、運動会や参観日などの学校行事も殆んど来なかったし、幼い頃、父に遊んでもらった記憶もない。
だから、私の中では父が家にいないことが当たり前の日常となり、次第に父の存在が薄くなっていたことは本当の事だ。子供ながらに今度もまた仕事で地方へ単身赴任しているのかと思ったが、実はそうじゃなかった。
『実はね、アオちゃん、お父さんと離婚したの』
母にその事実を聞かされたのは私がおばあちゃんン家に来て数日後の事だった。
『離婚……?』
当時、まだ小4の私でも『離婚』の意味ぐらいはわかる。
「あ…あぁ…」
(やっぱり…そういうことか…)
なんだかな…大人は嘘ばかりつくーーー。
心の中がちょっぴり複雑な心境だったーーー。
―――だが、ここ数年の出来事を振り返れば納得する事ばかりだった。
父が家にいないことなど日常茶飯事の事だが、寂しくないっていったら噓になる。
だけど、子供の頃から周囲の空気には かなり敏感だった私は空気を
読みすぎてしまうから自分が思っていることを上手く言葉で伝えることができな
かった。父と顔を合わすことが少なかった私が父の顔を思い出せないように、
きっと父も私の顔なんて覚えていないだろう……。
でも、家に父がいなくても私は生活できればそれでよかった。
マンションのダイニングリビングは10畳ほどあり、大きなテレビと無駄にデカい
ソファがあった。その手前にある座卓テーブルは落ち着いたアンティーク調を
モチイフにして作られ、光沢を帯びたテーブルは職人によって木目の隅々まで磨きあげられたものだった。こだわりの強いその座卓テーブルを父はわざわざイギリスから取り寄せたらしい。私は父に内緒でその可愛いくてオシャレな座卓テーブルでいつもお絵描きをしていた。私は子供心にいつも…いや…かなり気を使っていた。お絵描きをした後はいつも綺麗に後片付けをしていたし、消しゴムの粕もキレイに拭き取っていた。テーブルを傷つけないように新聞紙を敷いた上に紙を置いてひたすら絵に没頭していた。
カラーペンやパステルカラーで色をつけても、テーブルには写らないように神経を集中させて、そこで私が描いていた痕跡さえも残さないように消していた。置かれたリモコンの位置も1ミリの狂いもなく元あった定位置に戻す。だけど、私は父がそのテーブルを使っているとこなんて一度も見たことがなかった。
父が仕事から帰ってくるのはいつも私が寝静まった後か、朝方なのか?
――と、思い出せないくらいだった。
翌朝、母に『昨日、お父さん帰ってきた?』と聞くと、
『ええ、明け方だったかしら』とさりげなく答えた後、
『でも、シャワーを浴びてまた仕事行ったけどね…』
まるで他人事のように私に背中を向けたまま母は静かに呟いた。
冷え切ったマンションの広いダイニングリビングはポツリと離れてしまった
私と母の心に根深く溝を作り上げていた。
『もう、後戻りはできない』……と、心の奥深い場所でずっと温めて続けてきた
母の強く固めた決意は したたかにその日が来るタイミングを待っていたのだ。
『そういえばテーブルの枠目に彫られた微妙で繊細に刻まれた絵柄は
何だったのだろうか…』
不意に思い出す遠い日の記憶の中に飛び込んできたぼんやりと
浮かんだ木目の絵柄が思い出せないでいた。
母は絵を描いている私の向かいにあるダイニングキッチンでハンバーグを
作っていた。ハンバーグは私の大好物だ。これは最後の晩餐か?
ハンバーグの匂いに思わず私は顔を上げて母を見る。
初々しさが残る幼顔は何も知らず無邪気にはにかんでいた。
母のエプロン姿を見るのはいつも背中越しで、母は黙々と二人分の料理しか
作っていなかった。いつも母と二人だけの食事。それが当たり前の私の日常で、
会話も殆どなかった。いつの間にか私の中で父の存在は抹消されていた。
そして、その頃から次第に母の顔から笑顔がなくなっていたように思うーーー。
それでも、私の心は意外と冷静だった。そんな簡単に夫婦が壊れることなど
ないと、心のどこかで安じていたのだと思う。だって、まだ途切れなく繋いでいる
二人の糸の切り札は『私』の存在だから。自惚れだって笑われてもかまわない。
細くて今にも切れそうな糸でも二人が繋がってさえいれば私が存在している
意味がある。多分、この時の私は混乱を避けるためにそう思いたかっただけ
かもしれない。言葉に出さない沈黙が すでに もう手遅れだと予言していた
現実を受け止めるには、私はまだ幼すぎた。次第にどんよりした無言の空気は
二人を修復させることなど不可能となり、私にとっては地球最期の日と
同じくらいの貴重価値ともいえる最悪な日を迎えることとなった――――ーーー。
ある日の朝。普段通りに私は赤いランドセルを背負い、
『お母さん,学校行ってくるね』と、
洗い物をしている母に言葉を投げかけてみたが、無言の背中からは返答もなく、
『まあ、いつものことか…』と、諦めかけたその時,水の音がピタリと止まった。
『学校はもう…行かなくていいわ』
母の低い声色に一瞬、足を止める。
『え?』
(気のせい?)かと思ったが、私はゆっくりと母の方へ視線を向ける。
母は私の手を取ると、キョトンとした私の顔には見向きもせず、足早に
玄関に向かった。それは何の前触れもなく突然の衝動的行動に思えたが、
母にとっては衝動的でも何でもなかったのだろう……。
そして、玄関に置かれたボストンバックを手に取ると母は私を連れて
父が所有するマンションを出たのだった――――ーーー。
その日、父は仕事で東京を離れ、大阪へ向かう新幹線の車内だった。
父の仕事のスケジュールを把握していた母がその日に家を出る計画を
立てていたのだろう。数時間前に玄関に用意されたボストンバックの
中身はきっと私と母の身の回りの衣類だろう。準備万全に用意された
母のシナリオは予定通り決行された―――ーーー。
前もって私に言わなかったのは私の心に迷いがあると、決心が鈍りスムーズに
家を出ることができないと思ったからだろう……。
友達との別れ? それとも先生との別れ?
母は私の事をどれほど知っているのだろうか……。
それに、どっちについて行くかなんて、2択しかない選択肢を
わざわざ子供に聞く親はいないだろう……。
母は私が学校でどんな風に過ごしているかなんて知らない。
いちいち学校生活を楽しく喋れるほど私は器用じゃないし素直でもない。
休み時間は友達とワイワイしゃべるより一人でお絵描きしている方が
ずっと楽しかった。クラス替えをした4月頃は前後になった子と話もしていたが
それも長くは続かなくて、いつの間にかグループができていて、その中に
入っていくことができなかった。気付いたら孤立していてクラスの子達も
私の周囲には近寄らなくなっていた。そんなこと母に言ったった所で、
どうすることもできないことくらいわかっている。
これ以上、母の困った顔を見たくはなかったーーー。
母の手を私はぎゅっと握っていた。坂道を下り、住宅街を抜けるまで、
人混みはなかった。車の走行音も聞こえない。
この時間帯は皆、学校や会社に行っている時間帯だ。今朝に限って目覚まし時計が
30分以上遅れていた。私は普段と同じ時間帯に起きたつもりで、朝食をすませて
学校へ行くつもりだった。その事に気づいたのはマンションのエレベーターを
下りてエントランスにある柱時計が9時を回っていたからだった。
多分、私の目覚まし時計を30分以上遅らせたのも母だろう。
全ては私を連れて家を出る為に行われた計画だった―——。
駅まで約20分程だ。
私の目に映る空はぼんやりと雲った灰色をしていた。
今にも大粒の雨が降りそうな天気だ。空も泣いているのだろうか……。
果たして、この街を抜け出して何かが変わるのだろうかーーー。
だけど、この時の私はまだ子供で母について行くしかなかった。
母の計画にはまだ続きがあって、その先にある生活の変化に私の人生が
大きく変わろうとしていたことなど知る由もなかったのだったーーーーー。