2 最初の夜、ほんの少しの欲
ドックンドックンと心臓がうるさい。
アウラムから連れてきた付き人に身支度を整えられて、夫婦の寝室に押し込められた。
新婚初夜に何をすべきなのかは教えられている。
老いたヒキガエルが相手だったら、吐かないようにするのに必死だったかもしれない。けれど、相手が変わった今はその心配はなさそうだ。
代わりに、別の心配がある。
(シルヴァン様はわたしをどう思っているのかしら……?)
ここに来た時には、好かれなくてもいいと思っていた。どんな扱いにも甘んじるつもりだった。
けれど、食事をともにさせてくれて、大事な思いを話してくれた彼を、義務ではなく大事にしたいと思った。ほんの少し、欲が生まれた。
(……たとえ愛されたとしても、わたしであってわたしではないのだろうけれど)
そんなあきらめに似た思いを抱きながら、ベッドで分厚い本を手にしている彼の元へと向かう。
「シルヴァン様」
呼びかけると、彼が本をたたんで顔を上げる。寝室でも仮面は付けたままだ。
「ノア。様づけはやめませんか?」
「それは……、不敬ではないのですか?」
シルヴァン様が身を起こしてベッドのふちに座り、隣に腰かけるように手で示した。寝るためのゆるい服から、ほどよく逞しい胸元がのぞいている。
少し離れて横に座るだけで心臓が飛び出しそうだ。
「不敬……? 家族に様づけをするのですか?」
「はい。お父様は国王様でもありましたし、お兄様はお兄様ですし。下の兄は、ちい兄様と呼ぶことも多かったです」
「なるほど。ノアのご母堂がご尊父を呼ぶ時は?」
「名前に様をつけていましたね。あ、国王陛下と呼ぶこともありました」
「なるほど……」
シルヴァン様が困ったように口元に手をあてる。
「なら……、ノア様?」
「それはすごく違和感があります」
「そうですよね。なら、私にもやめてもらいたいです」
「えっと……、女性から男性には尊称をつけるけど、男性から女性にはつけないという意味での違和感なのですが」
「私は貴女と対等でありたいのです。それとも、私の名をそのまま呼ぶのはイヤですか?」
「いえ、そういうわけでは……。えっと……」
ドッドッドッドッと早く打つ心臓をなだめながら、両手で顔をおおった。
「……シルヴァン」
顔が熱い。ただ呼び方を変えただけなのに、とても近くなった気がする。
「はい」
どことなく嬉しそうな声が、嬉しい。
「ノア。私は客間で寝るので、安心してここを使ってください」
「……え」
熱がサァッと引いて、驚きのままにシルヴァン様を見る。
「あの、わたし、何か粗相をしましたか……?」
「いいえ? なぜそうなるのですか?」
「わたしと夜をともにしたくないのは、わたしが粗相をしたか、魅力がないのかと」
「そういうわけではありません。あなたは魅力的だと思いますし、何も粗相はしていません」
「なら、なぜ……?」
「それは逆に、私が聞きたいです。貴女は私と一緒に寝る意味がわかっているのですか?」
仮面の奥の瞳が真剣に見つめてくる。じっと見つめ返す。
「えっと……、はい。わかっている、つもりです」
「今日初めて会った男に身を委ねると?」
彼を見たことはあったけれど、会うのが初めてだと言われるならその通りだ。
「それが私の務めですから」
(あれ……?)
何も考えないで当たり前のことを答えたら、彼の瞳が傷ついたように揺れた気がした。
シルヴァン様が正面に向き直って、床を見つめて長く息をつく。
何が悪かったのかがわからなくて泣きたくなる。
ぽつりと、ゆっくりと静かに言葉がつむがれる。
「……何も期待しないつもりでいました。会う前から嫌われているのが当たり前だろうと。どんな言葉でなじられても受け入れるつもりでした。
なのに、貴女は……、私に感謝しているという。人となりも好ましい上に、私の願いを聞いて目を輝かせてくれた。
少し、欲が出てしまったのだと思います」
(欲……)
彼の言葉が自分の思いと重なる。
(待って……)
もしこの推論があっているとしたら。自分と同じ「欲」なのだとしたら、それが意味するのは……。
また熱くなってきそうだ。
考えがまとまりきる前に彼が続ける。
「貴女に会う前には、今夜、貴女を試すつもりでいました」
「試す……?」
「……この仮面を取っても、貴女が逃げださないかを。けれど……、今は、それを怖いと思っています」
(ぁ……)
言われて、思いだす。
「シルヴァン様はお式でも仮面を取られないのね」
「取れないのでしょう。昔大怪我をされて、見せられたものではないらしいもの」
(見せられないような大怪我……)
それはどれだけ辛かったのだろうか。
仮面をつけた彼は、整った顔立ちをしているように見える。ケガの痛みに加えて、傷が残った痛みもあったのかもしれない。
「わたしは気にしないと思いますが。シルヴァンが見せてもいいと思った時でいいですよ?」
驚いたように顔が上がって、それから、ふわりと口元が笑った。
「これは、提案なのですが」
「なんでしょう?」
「少しずつ、近づきませんか?」
「えっと……、こう、ですか?」
こぶし2つぶんくらい開いていた距離をそろりとつめて、ドキドキしながら軽く身を寄せた。
シルヴァン様のキレイな口元が耳に近づく。
「心の距離というつもりだったのですが。貴女はかわいいですね」
(きゃああああっっっっ)
盛大なやらかしと、思いがけず囁かれた「かわいい」という甘い音に、内心で叫ばずにいられない。
(少しずつどころかもう大好きですごめんなさいっ!!!)