07.絵を習いにいくだけのはずだった(2/2)
そして、カインは彼女を抱き上げたまま窓に近づくと、
「いきますよ」
と、窓から下に飛び降りた。
「!!!!!」
アイリーンは、声にならない叫びを上げた。
必死に片手で鞄を抱えながら、もう片方の手でカインの胸元にしがみつく。
カインは、ふわりと着地すると、すごい勢いで走り出した。
(は、早い!)
彼女は、鞄をギュッと抱えた。
どこに向かっているのか尋ねようとするものの、舌を噛みそうで口を開けることができない。
恨みがましく見上げると、そこには月明かりに照らされたカインの端正な顔があった。
どこか楽しげな雰囲気で、夜の光の下、赤い瞳が妖艶に光っている。
彼は、そのまま貴族街を猛スピードで走り抜けると、中門に到着した。
眠そうな兵士の横を風のように通り過ぎ、街へと入る。
そして、あっという間に城壁に通じる階段を駆け上がると、そこから一気に下に飛び降りた。
「!!!!!!」
窓から飛び降りるのとは比較にならない浮遊感に、アイリーンは再び声にならない叫び声を上げた。
カインが抱きかかえる手を強める。
そして、びっくりするほど、ふわり、と地面に下りて少し歩き、カインは立ち止まった。
近くの石の上にアイリーンをそっと下ろして、その前に跪くと、鞄から水入れを取り出す。
「少し休みましょうか」
「え、ええ、ありがとう」
アイリーンは目を白黒させながら、渡された小さなコップで水を飲んだ。
頭がぐるぐるする。
(な、なんだか大変なことになってしまいましたわ)
絵を習いに行くだけのはずが、とんだ大冒険になってしまっている。
正直帰りたいとは思うものの、今更「もういいです」とは言えない。
(……これは行くしかありませんわね)
そんな覚悟を決める。
そして、何とか一息ついて、ふうっ息を吐くと、カインが立ち上がった。
「もう少し休んでいただきたいところですが、このあたりは野獣が出ます。先に進みましょう」
「わ、わかったわ!」
野獣は嫌だとアイリーンが慌てて立ち上がると、カインは再び鞄を抱えた彼女を横抱きにした。
「いきますよ」とつぶやくと、すごい速さで走り始める。
誰もいない街道に出ると、更にスピードを上げて進んでいく。
前方からの風圧に、アイリーンは思わず目をつぶった。
忘れがちだけど、この人悪魔だったわ、と考える。
悪魔は強いと聞いていたし、重い荷物を軽々と運ぶなど、力があるんだなと思うこともあったが、ここまで人間離れしているとは思っていなかった。
そして、そのまま身を任せて移動すること、しばし。
カインが街道をそれて、森の中へと入っていった。
真っ暗で不気味な音が聞こえてくる森の中を、ただひたすら進んでいく。
アイリーンは不安になって、カインの胸元をギュッと握った。
こんな薄気味悪い場所は初めてだ。
しばらく森を進み、小さな泉がある空き地に到着すると、カインがアイリーンをそっと下ろした。
「少し休みましょう」
「え、ええ」
アイリーンは、倒れている木の上に座った。
ずっと揺れていたせいか、体の平衡感覚がおかしくなっている気がする。
そして、カインに渡された水を一口飲むと、そうだわ、とポケットを探った。
少し潰れたマドレーヌを取り出す。
彼女はそれを半分に割ると、前に跪いているカインに大きい方を渡した。
「どうぞ。少し潰れてしまったけど、美味しいわよ」
カインが首をかしげた。
「私に、ですか?」
「ええ。疲れた時には甘い物がいいって聞いたことがあるわ」
アイリーンを抱えてここまで走ってきたのだ。
悪魔とはいえ、きっと疲れたに違いない。
気遣うような視線を向けてくるアイリーンと、差し出されたマドレーヌを、交互に見る。
そして、彼は、くすりと笑うと、マドレーヌをそっと受け取った。
「ありがとうございます。でも、心配は不要ですよ」
「そうなの? でも悪魔も疲れるのでしょう?」
「これくらいなら大丈夫です。――それで、こちらの方が大きいですが、いいんですか?」
「もちろんよ。わたくしは運ばれているだけですもの」
2人は隣り合って座ると、泉の流れる音を聞きながら、マドレーヌを食べる。
そして、カインは再び立ち上がると、アイリーンをそっと抱き上げた。
「もう少しです」とつぶやくと、再び森の中を走り出す。
そして、走り出してからしばらくして。
頭上にあった月が傾いてきた頃。
前方にうっすらと建物らしきものが見えてきた。
近づくと、それは崩れ落ちて蔦が絡まった、かなり古そうな石の建物だった。
月明かりに照らされ、不思議な雰囲気を醸し出している。
「……あれは?」
「800年前は立派な城でした。今は見る影もありませんが」
カインはアイリーンを抱き上げたまま、建物の崩れた場所から身軽に中に入った。
ゴロゴロと転がる石を乗り越え、建物の奥へと向かう。
奥は更に石だらけで、大きな石が無数に積み重なっていた。
「恐らくここですね」
そう言うと、カインは、少し離れたところにアイリーンを下ろした。
石の山に近づくと、積み重なった大きな石を、ひょいひょい除け始める。
そのあまりの凄まじいパワーに、アイリーンは鞄を抱き締めながら目を見張った。
まるで大きな石が綿か何かで出来ているように見える。
(カインって、こんなにすごいのね)
そして、全ての石がなくなると、地面に引き戸が現われた。
カインがそれを引っ張ると、ギギギギと音を立てながら、重そうに開く。
(なんか不気味な扉だわ)
アイリーンが身震いしていると、カインがどこからかロウソクとロウソク立てを取り出した。
火をつけて、
「ちょっと待っていて下さい」
と、引き戸の中に下りて行く。
廃墟の中に1人残され、アイリーンは不安になった。
ちょっとした音にもびくっと体を震わせる。
そして、しばらくして。
カインが、引き戸から出て来た。
アイリーンに近づいてくると、横に置いてある鞄を持つ。
「大丈夫そうですので、行きましょう」
「……ええ、分かったわ」
ここまで来たら覚悟を決めるしかないと、アイリーンは恐る恐る引き戸の中をのぞきこんだ。
中には階段が続いており、その先は真っ暗だ。
「こ、この中は大丈夫なの?」
「ええ、多少迷路のようになっていますが、そう複雑なものではありませんし、大丈夫です」
「そ、そう」
彼女は思い切って階段を下り始めた。
カインが、中から引き戸を閉める。
ガシャン、という重い音がして、引き戸が閉まると、そこには本物の暗闇が広がっていた。
ロウソクの周囲以外は、完璧な漆黒だ。
(こ、これは怖すぎますわ!)
アイリーンは、カインの腕にしがみついた。
もう淑女がどうとか言っていられないくらい、怖くて仕方ない。
カインは、「大丈夫ですよ」と、そっとアイリーンを抱き寄せた。
アイリーンに鞄とロウソク立てを持つように言うと、彼女を再び横抱きにして、ゆっくりと歩き出す。
カツカツ、とカインの足音がこだまする。
そして、暗い中を歩くこと、しばし。
2人は大きな円形の部屋に出た。
カインが、アイリーンを下ろすと、ロウソクを頭上に高く掲げる。
その照らす先を見て、アイリーンは息を呑んだ。
「これって!」
そこにあったのは、カインを召喚したときに使ったものとよく似た魔法陣だった。
模様は単純だが、それよりもずっと大きい。
カインは、魔法陣を丁寧に確認すると、アイリーンの方を振り向いた。
「行きましょう。知人はこの先にいます」




