朧 その2
部活スタートから1週間が経った。
南側の窓からは校庭で揺れる色づいたハナミズキの木が見えており、沈もうとしている陽に照らされている頃合いだ。
しかしそんな風景には一瞥もくれず、部室に使っている空き教室で、俺達はギターと格闘していた。
「ネック、太くて押さえられない」
今日は俺達以外は来ていないようだ。入ってわかったが、かなり自由な部活だった。幽霊部員も多いのだとか。
「大丈夫、その内成長して、手も大きくなるって」
「イーマイナーだけなら、なんとか」
中学1年の手に、クラシックギターは思ったより大きかった。先生の説明によると、エレキよりも、クラシックギターのネックは太いらしい。
「いや、そもそもコード弾かなくていいんだって」
誘ってきた大倭はそう言う。
「俺が弾きたいインベンションは、単音だから。2つのメロディーが行ったり来たりする曲だし、コードなくても弾けるって先生が」
弾けそうだから選んだのだろうか。
「成長期だし、そのうち大きくなるって。コードはそこから覚えたらいいと思う」
大倭の意見も一理ある。
「じゃあインベンションを練習しながら、成長を待つのか?」
笑うと見える大倭の八重歯。
「あ、それいいじゃん。そうしよう」
適当だなと思いつつも、ギターは面白いと思い始めていた俺は、ぽろんとギターを掻き鳴らしつつ、苦笑するだけにしてやった。
「あ、まだチューニングしてなかった。音、狂ってるわ」
「よく分かるな、そんな事」
大倭が驚いた顔で言う。少し慣れてきたって事かな?
「チューニング・フォーク取って」
俺がそう言うと、ほいよと大倭が俺のギターケースの中から二股の金属を出す。チューニングをするための道具で、フォークのような形のそれは、日本語では”音叉”と言うらしい。だけど俺にはその名前が定着しなかった。
受け取ったチューニング・フォークを机に叩きつけ、歯に挟むと5番目の弦を弾く。
それを眺めていた大倭が首を傾げながら口を開いた。
「お父さんが言ってたんだけどさ、チューニングってアプリでもできるらしいよ。もっと小型で性能のいいチューナーもあるみたいだし、なんでこんな原始的なやり方なんだろ」
チューニング・フォークの音と、5弦を押さえずに弾いた音を合わせる。それを基準に他の弦を調律して行く。
この作業が嫌いではなかったが、すぐに曲に入りたい時は面倒だなと感じていた。
疑問を発した大倭は、少し首を傾げて考えている。
「先生のこだわり?アプリを信用していないとか。小型チューナーを買わないのは部費問題として……ってか、疑問に思った事なかった」
チューニングは面倒だが、チューニング・フォークの音は好きだった。
コーンと鳴った音は、耳の中で停滞し響く。その残響に身を委ねる事が気持ち良いのだ。
「なぁなぁ、チューニング終わったら4小節だけ合わせてみようぜ」
「え、まだ早くないか?俺、まだちゃんと弾けないと思うけど」
「いいからいいから」
急かされるようにチューニングを終え、合わせ始める。その作業はチューニングよりも厄介で、チューニングよりも面白かった。
ほんの一瞬しか合わなかったが、それが興奮に変わる。4小節中の1小節もあっていなかったのに、俺達はハイタッチをして喜びあった。
その時。突然教室のドアが開く。
「お、まだ誰かいたのか。もう下校時間過ぎてるぞ。早く帰れよ」
先生だろうか。私服の大人だということは分かったが、背後からさす夕日のせいで顔がよく見えない。
中に入ってきそうな動作のその人を見ていた俺は、大倭の声で隣に視線を向けた。
「やべ」
大倭はそう言うと、慌ててギターケースを持ち上げた。もしかして怖い先生なのかな。
チリン
大倭のギターケースから、鈴の様な丸いものが転がり落ちる。
それはチリチリ音を鳴らしながら入口に向かう。小さいが綺麗な音だ。
ふとあの公園を思い出した。
俺の方が近いと思い、追いかけて拾い上げる。顔を上げると、入口には薄暗がりが広がるばかりで誰もいないかった。片付けに入った事が分かってどこかに行ったのかも。
怒られなくて良かった。
胸を撫で下ろしながら大倭の元に戻り、鈴を渡す。
「落としたぞ」
大倭は落とした事に気が付かなかったのか、目を丸くしてそれを受け取った。
「サンキュ……。これさ、お守りみたいなもんなんだ。持たされてんだよ」
「お守り?へぇ」
落としたらダメじゃないかと言いかけたが、大きな音じゃないから、気が付かなかったのかもしれない。
「いや、なんでもない。それより、今日はいい部活になったな」
切り替えるように、大倭がそう言ってソフトケースのファスナーを閉める。
「合奏って、思ったより面白いな」
俺はハードケースの蓋を閉めながらそう言い、金属の留め金をかけた。
最後にもう一度ハイタッチをしようとしたが、大倭が真顔で何か考え込んでいたから、何も言わずそのまま教室を後にした。
その日の帰りだった。
久しぶりにあの錯覚を見た。
しかし、今は鈴の音などしないし、大倭も隣にいない。あの公園の近くでもないし、垣根もなければ、見えたのも項垂れた人ではなかった。
大倭と別れ、1人になったいつもの下校道。
沈みかけの夕陽が街をオレンジに染める。
その人は、俺達と一緒に横断歩道をわたっていた。
白くて、頭上が揺らめいている。こちらを見るわけでもなく、話しかけてくるでもなく、ただ、一緒に横断歩道を渡っていた。
そのまま並んで歩いている俺は、心臓が物凄い速さで鼓動しているのを感じながら、横目でその人を見る。どこまでついて来るのだろうと思ったが、立ち止まる勇気もなく、駆け出す度胸もなかった。
どうしよう、どうしよう。
手に持ったギターケースの取手をぎゅっと持ち直す。足が自然と早くなり、夢中で歩いて気がついたら、白い人はいつの間にか消えていた。
「はぁ〜」
その場で座り込みたい気持ちだったが、追いつかれるのも怖かったので早足のまま家まで急いだ。
「ただいま」
駆け込むように家に入った俺は、食卓の前で玄関を振り返った。
点灯の消えた玄関は薄闇がわだかまっているようだったが、そこには何の変化もない。
こんな日に限って、母もいない。
ふと、大倭の顔を思い出した。
「相談してみようかな……」
目に焼きついた、ただの錯覚だと教えてくれたのだから、また何かヒントをくれるかも。
思いついたことに解決法を見つけたような気になり、安堵のため息を盛大に吐き出した。
「将生、いる?」
翌日、1時間目が終わった直後だった。大倭が俺の教室を訪ねてくる。
「な、なんかあったのか?」
思わず口からそんな言葉が出るほど、大倭は暗い顔をしていた。
「おれ、お前に謝らないと」
「何について?」
「あの人のことで」
ドキリとしたが、昨日の出来事をまだ大倭には伝えていない。俺は平静を装い、眉を寄せて大倭に聞いた。
「あの人って、どの人?」
「あのマンションと公園のとこに立ってた人」
「亡くなったっていう?」
「うん……」
教室の入り口で話す内容ではないような気がして、俺は周りを確認した。
数人がこちらを見ている。
項垂れたように立っている、大倭の様子が気になるのかもしれない。
「昼休みに詳しく話して」
「うん、そのつもりで来た」
決まり悪そうに言った大倭に、俺は頷いて場所を指定する。
「じゃ、裏庭で話そうぜ」
日中も陽が当たる事がなく、薄暗くベンチも花壇もない。そんな裏庭で遊ぶ者はおらず、ませた男女が時々くっついているだけだ。
俺は昼までの授業をソワソワしながら受け、大倭が謝る理由をアレコレ考えながら過ごした。