朧 その1
俺がその存在に気がついたのは、小学5年生の冬だった。大倭の声と同時に聞こえた小さな鈴の音。
「わぁ、雪だ!」
静岡市内の小学校に通っていた俺は、同じクラスの仲良し5人組で下校途中、通学路を外れた公園で、ちょっとだけ寄り道してサッカーをしていた。
サッカーといってもただのパス回しなのだが。
「つめたー」
1人が雪を口に入れようと、大口を開けて天を仰ぐ。
「あ、俺もー」
真似したもう1人は舌を出して、雪を感じようとして躓いてコケている。
「寒いと思ったけど、まさか雪が降るなんてな」
「珍しいね」
2人は立ち止まってそんな会話をしている。
「なんだ、雪だったのか」
俺はそう呟いて、みんなにはバレない様に息を吐き出した。
「うまーい!」
冷たいだけで美味しいはずないと思うのだが、珍しい雪に興奮しているのだから仕方ないか。
俺は自分の足元にあるサッカーボールを靴の底で転がしながら、公園の背後にあるマンションの垣根を再確認した。
チラチラ舞う雪に、冬だというのに緑の葉を茂らせた垣根の端。そこにひっそりと佇む人がいるような気がしたのだ。項垂れた感じで立っているのに、目だけはこちらに向けられており、俺達をじっと見ている。
お爺さんのように見えた気がした。
あの時、ボールを胸でキャッチし、足の下に置いて一番近い友達にパスしようとしていた。その時に見えたので、ぎょっとして動作が止まったのだ。
そんな挙動を訝しんだのか、友達が俺の視線を追って雪に気がついた。
変な事を言って注目を集めるのは嫌だったので、俺が雪に気がついて動きを止めたと勘違いしてくれて良かった。
「だから急に止まったのか、マサキング〜」
「お、おう。積もるかな」
積もるなんて思ってないが、とっさに口をついて出た言葉だった。
「無理じゃね?」
「やっぱそう思う?」
去年は1日も降らなかったのだ。ここ、静岡市は意外にも雪が降らない。三重から嫁いできた母が、地元より降らないと驚いていた事を思い出す。
母は三重の南の方にある熊野の出身だ。和歌山も近い所で、地図を見ると静岡よりずっと南だが、そんな所より雪を見ないと言う。
「三重より降らないらしいよ」
母からの情報をそのまま伝えながら、もう一度だけマンションの垣根を見た。
しかし、そこにはただ緑が生い茂るだけ。
「そろそろ帰ろう。マサキング塾だろ。一緒に行こうぜ」
一番仲の良い大倭が、八重歯を覗かせながらそう言って、俺の足元にあったボールを奪うように蹴った。あっ、と言って反射的にボールを追いかける。
大倭が公園の端に置いていた荷物を取ると、ランドセルの中からチリチリ音がしていた。
鈴?
聞こうとしたが、みんなは大倭に倣って、ボールを蹴りつつ公園からでる。出遅れた俺は慌ててみんなの背を追いかけつつ、帰途へとついた。
「おかえり、将生。おやつあるわよぉ」
家に着くと母が出迎えてくれた。靴を放りだして、ドタドタと家に入り、リビングで掃除機をかけていた母を見上げた。
「雪!雪が降ってるよ」
「え、本当?」
母は驚いた様に目を見開いて、急いでベランダへ向かう。
「わぁ、ほんまやね〜」
滅多に出ない地元の訛りが、ベランダから聞こえてくる。
やはり興奮しているのだろう。
「珍しいよね。去年は見なかったし」
マンションの10階から、身を乗り出す様にして空を見上げる母にそう言った。
「富士山のイメージがあったから、こんなに雪を見ないなんて思ってなかったのよ。お父さんに騙されたわぁ」
最後だけ地元のイントネーションで言った母は、手を伸ばして雪を触ろうとしている。
「俺より興奮してんじゃんか」
そう苦笑しながら言った俺は、おやつを求めてリビングに戻る。
「ねえ、おやつって冷蔵庫ー?」
ベランダに向かって声を張り上げ、食卓に何も乗っていないことを確認して台所へ向かう。台所といっても、カウンターキッチンでリビングと隣接している。
母の返事を待たず、冷蔵庫に手をかけて扉を開いた。
「あ、これか」
ガラスの瓶に入ったぷりんが1個、冷蔵庫の中央にポツンと置いてあった。
「駅前のやつだ!」
最近の母のお気に入りパティスリーである。ママ友連中でランチ会でもしたのかな。
そんな事を考えながら台所を出て、鼻歌まじりに振り返った時だった。
「へっ」
変な声がでて、プリンの容器を絨毯に落とした。
ボテっと鈍い音を立てた容器は、幸いにも割れずに転がっている。
しかし、俺は玄関から目を離せないでいた。
公園で見た人影と同じようなシルエットが、玄関の暗がりにわだかまっていたからだ。
「あら、将生、どうしたの?」
母の声が背後から聞こえ、弾かれるように振り返った。
今見た事を告げようと、玄関を指差した。
「玄関、に……?」
先ほど見たはずのシルエットは、すっかり消えている。
「玄関?」
母は視線を下げるためか、俺の頭に顎を乗せて玄関を見ているようだった。
「何かあるの?」
「……うん、気のせいかも」
公園で見た事が気になって、影か何かを勘違いしたんだろう。
「あぁ!」
突然叫んだ母の声に、飛び跳ねるようにして驚く。
何事かと玄関の方を警戒したが、母は俺の足元に屈んで落としたプリンの容器を拾い上げた。
「中身ぐちゃぐちゃ〜」
「なんだ、そんな事か」
びっくりした。
「いいよ、カラメルが混ざって美味しいから」
母から容器を受け取って食卓につく。
スプーンで掬って一口に運ぶと、ほろ苦い香りと甘味が口いっぱいに広がる。
残念ながら、プルンとした食感は得られず、ドロドロの食べにくいプリンになっており、ほとんど飲むようにして食べた。
食べ終わって席を立つと、流しに容器を置くために移動し、さり気なく玄関に目を走らせたが、いつもと変わらぬ暗闇があるだけだ。
「雪のせいかな」
そんな、思ってもいない事を呟いた。
その日は、それ以上変なことは起こらなかった。
塾の行きも、帰りも、あの公園を通ってみたが、何の影も見る事はなく、自宅に帰ってからも、玄関はいつも通りだった。
数日が過ぎたが、あの雪の日以来、視界に異変は起きていない。
視界の端によぎる影を時々感じるものの、自転車のライトだったり、虫だったりと原因を究明できる事ばかりだ。
そんな事が続くと、あの日見た事も気のせいだと思うようになってきて、春になる頃には思い出す事もなくなっていた。
「マサキングさ〜、中学校で部活やるとしたら何予定?」
小6の夏休み前、塾の帰りだった。一緒に歩いていた大倭が突然そんな事を聞いてきたのだ。
「中学?まだ何も決めてないけど、サッカー部とか?」
「おお、アスリートになるのか」
「いや、そこまで本気では。だって、サッカー部ってモテそうじゃん」
「そこ、大事」
うんうんとお互い頷いて、どんな部活があるのか話しながら、いつの間にかあの公園前を歩いていた。
チリ……チリチリ……
鈴がランドセルの中で転がっているような音。大倭のほうから聞こえる。
持っているのか聞こうとしたその瞬間。
「!」
公園の背後にあるマンションの垣根に人影。
ほとんど忘れていたというのに、目が勝手にそれを見つけたのだ。
「え?」
何度か瞬きをするとそれは消え、後には人影のない垣根が何事もなかったかのように青々としている。
「気のせい?」
少し首を傾げて垣根を見ていると、隣から声がかかる。
「どした〜?」
「あ、いや。なんでもない」
「あそこ、気になるのか?」
「え……あそこって?」
ドキリとしたが、平静を装って聞く。
「マンションのほう。垣根のとこにさ、いつも立ってたろ?」
驚きもあって、足が完全に止まる。
「お前、見えてたの?」
そう聞くと、少し不思議そうな顔がこちらに返ってくる。
「そりゃ、そこに立ってたんだから、見えてるだろ。あの爺さん、ずっと俺達が遊ぶの見てただろ?笑ってないからさ、最初は怒られるかもって気になってたんだ。見張られてたのかと思ってたけど、違ったみたいなんだ」
俺が見た人と、同じ人の事を言っているのだろうか。
「その人ってさ、ちょっと項垂れた感じで立ってた?目だけはこっちを見てるんだけどさ」
「そうそう。なんか、腰悪かったらしいよ。あの公園で遊ぶ子どもを見るのが、日課だったんだって」
なぜそんな事を知っているのかと、訝しげな顔を向ける。
「ん?」
俺の表情の意味が分からなかったようなので、そのまま聞いてみた。
「あ、母さんが葬式の手伝いに行ったんだって」
「え?葬式?」
「うん。去年の今頃かな、死んだんだって。同じマンションでさ。1人暮らしだったから、同じフロアの人達でボランティアで整理とかしたらしいよ」
去年の今頃?
「雪の日は?」
「雪の日?」
「うん、いただろ?」
「え?もう死んでんだからいないよ。まあ、でも分かるような気がするな」
分かる?何が分かるのか、俺が分からない。
「ずっと同じ所で立ってたから、なんか目に焼きついている気がする」
「後ろのマンションの人じゃなかったんだ」
あの雪の日より前に見た記憶はないけど、気にしてなかっただけで、目は覚えていたのかも。だから、あの時見えたような気がした。
なんだ、そういうことかと納得し、ずっと喉につっかえていたものが、消えてなくなったような爽快感があった。
「そっか、そうだったんだ」
立っていたお爺さんの話を聞いたからだろうか。
目に焼きついている残像のような現象は、小学校を卒業するまでに5度あった。
錯覚の時、鈴の音が聞こえる事に気がついたのは、3回目の時だ。
だから、特定の音がきっかけになっているのだと思った。
その鈴の音が聞こえた瞬間、公園の後ろにあるマンションの垣根を見る。
必然的に大倭が近くにいるから、それも条件かもしれない。
公園、鈴の音、大倭。
この条件が整わないと、見ることができない錯覚。
鈴の事を聞こうと思いながら、そのタイミングがなく俺達は中学に上がった。
そして通学路があの公園から遠くなってからは、あの幻覚もなくなった。
「なぁなぁ将生ぃ」
大倭は中学に上がると、急にマサキングと呼ばなくなった。子どもじみて恥ずかしいらしい。ま、王様じゃなくなったっていいんだけどさ。
「なんだよ、ニヤニヤして」
「一緒にギター始めねぇ?」
「ギター?バンドとか?」
「いやいや、クラシックギター部」
「は?クラシックギター?」
急になんだと目の前の人物を見る。
「オレはさぁ、感動したわけよ」
鼻を上に向けて目を閉じて言う大倭に、俺は眉根を寄せて聞く。
「何に?」
「バッハにさ」
顔を俺に向け、ピッと人差し指を立てて大倭は言う。
「バッハ?チャラリ〜ってやつか?」
母がショックな出来事を茶化す時に使うフレーズを、軽く口にして聞いた。
「それもバッハだけど。オレがやりたいのはインベンションなんだ」
何だそれはと言いたかったが、首を傾けるだけに留めた。
「ピアノの右手と左手を分けて弾いてみたいって先生に言ったら、相棒を勧誘してこいと言われた」
ピアノ曲なのか。インベンションとやらが曲名なのか、何かのジャンルなのかは分からなかったが。
「で、その勧誘先が俺?」
大きく頷いた顔は、満面の笑みを湛えていた。
「嫌?嫌か?嫌なのかぁ?」
「うざっ!嫌ってほどじゃないけど」
纏わりつく大倭を払いのけて言う。
「オレも初心者だから、一緒に成長していこうぜ」
「お、おう」
勢いに負けて返事をしてしまった。
「んじゃ、行こうぜ」
「え?」
勢いに負けたまま、気がついたら空き教室でギターの説明を受けていた。顧問の先生から楽器の仕組みやメンテナンスの仕方、演奏の基本などのレクチャーを受ける。
「ハードケースとソフトケース、どっちがいい?」
「え、じゃあハードケース。それって、何のケースですか」
そのまま入部となったのは言うまでもない。