第498話 硬い拳を手に入れろ
「うん、いいわね。離宮の絨毯よりいいかもしれないわ」
「こっちの方が比較にならないくらい安いはずなのにね」
木刀女子の中宮さんが素足で談話室の絨毯を確認している横で、綿原さんがサメを遊ばせている。絨毯の上を滑るサメか。相変わらず器用なものだ。
ちなみに二人とも訓練服に着替えていて綿原さんも裸足。まあ、クラスの全員がそうなんだけど。
騒がしい侯爵家のみなさんは、夕陽が落ちきる前に城に戻っていった。
晩餐会がある上に、侯王様とウィル様に至ってはそこから公務が残っているらしい。夕食自体もお仕事で、そこから追加で残業か。社会人って大変だ。
それでもティア様のために無理をして時間を作ってまで友人宅を訪れたご両親とお兄さんは立派だと思う。
そんな御一家を見送った俺たちは素早く夕食を終えてから、服を着替えて談話室にいる。
一年一組おなじみ、夜の屋内訓練だ。全員が全員体を動かすというわけではないが、各人がテーマを作ってそれぞれに練習をする。
本日のテーマは全員揃って大きく二つ。
ひとつは絨毯の確認だ。
「じゃあ始めるわよ。足裏に集中。まずは右足親指から」
「はーい!」
中宮師匠の声に、クラスメイトたちが間延びした返事をする。とはいえ、やるとなれば真剣だ。
とてつもなく今更であるが、一年一組が絨毯の上で裸足で訓練をしているのには、それなりの理由がある。
俺たちが中宮さんや滝沢先生から教わっている『北方中宮流』の歩法なのだけど、足首から下が極意なのだ。とくに足の指。
『足の裏で地面を握りしめるくらいの感覚よ』
なんてのたまう中宮さんは以前一度だけ、足の指で器用にハンカチを持ち上げるところを見せてくれたことがある。ちょっと恥ずかしそうだったから二度目は要求していないが、本当に『指でつまむ』感じな動きをごく自然にやってのけていた。足を浮かせたまま親指と人差し指だけで挟むのではなく、中指、薬指、小指に受け渡すような一連の動作を。
で、たまたまではあるのだけど、アウローニヤの離宮にあった談話室の絨毯の上で裸足練習を試したところ、感覚が掴みやすいんじゃないかという話が持ち上がった。
中宮さんの実家にある道場は板張りなので彼女には今更必要なモノではないが、なにしろ俺たちの大半は武術についてはド素人だ。さらに言えば、今はまだましだけどアウローニヤ時代はいろいろと切羽詰まっていた。
試せることはなんでもしようがクラスの標語みたいなものなので、俺たちはいろいろなことを考えながら昼間は訓練場で、夜は談話室で練習をし、さらには迷宮で実戦経験を積んできたのだ。
この世界にやってきてからほぼ三か月。最初の頃は足裏全体から始まったこの練習は、今ではこうして指一本を指定するレベルまでやってきている。
日本に戻ってからも役立つといいなあ。
「土踏まずを意識して。足は手と一緒」
「うーっす!」
中宮さんのコールでクラスメイトたちがその場で足をモチョモチョさせる。
これがまた結構キツいのと、加えて【身体操作】の影響が出やすいんだよな。ただし、前衛系で【身体強化】まで掛けると感覚がズレるらしいので、強い連中にはそれなりの苦労もあるのだけど。
「はい、じゃあ半歩。右から。足の裏で毛先を撫でるくらいに」
練習を始めた当初はズリズリとしていたみんなの歩みは個人差こそあるものの、スルスルと擬音を付けたい程度には上達していると思う。
とくに凄いのは、師匠二人を除けば綿原さん、ミア、陸上女子の春さん、チャラ子な疋さん、そしてチャラ男な藤永ってところか。女子率が高い。
召喚されて今日で丁度九十日。一年一組は頑張っているのだ。
◇◇◇
「わかんないなあ」
あんまりカッコよくないシャドーボクシングをしている夏樹がボヤく。
「パンチが理由だとは思うけど」
夏樹のパンチひとつひとつに軽く『観察カウンター』を繰り出す俺は、たぶんカッコいいはずだ。もちろん当ててはいない。
胸やら顎やらの目前で寸止めされている夏樹だけど、全く動じた様子がないのは度胸なのか、それとも俺への信頼か。
歩く練習を一時間くらいやってから俺たちが始めたのは、【鉄拳】の出現条件を模索することだった。
二日後に迷宮が待ち構えているのにやることかと言われれば、できれば研究しておきたいというのが本音になる。
先生が想定するように手首の強靭さを向上させる効果が高いのが【握力強化】よりも【鉄拳】だとすれば、是非とも出しておきたい技能なのだ。
武術素人な集団である一年一組は、振るったメイスや短剣の反動で手首や肘をヤラれるケースが多い。後衛職ですらメイスを使う俺たちにとっては有用な技能だと思えるのだ。
「【覗き見】とかならまだしも、八津に【鉄拳】はおかしい。絶対条件があるはずだよな」
「中宮に出ていないのが不自然だぞ。よりによって八津だからな」
イケメンオタの古韮とお坊ちゃんな田村が非常に失礼なコトを言っているが、気持ちはわかる。
中宮さんは木刀だけの武術家ではない。先生が高校生の頃に学んでいたように『北方中宮流』には当て身、つまり近接戦闘用のパンチが存在している。
先生はその後、札幌の大学で空手に転向し、全国大会で活躍してしまうなんていう快挙を成し遂げたのだが、ベースにあるのは『中宮流』の技術でもある。これはまあ、こぼれ話。
ほかの連中はまだしも、そんな中宮さんに【鉄拳】が出ていないのはおかしいという流れだ。
『クラスチート』がある一年一組は、誰かが技能を発現させれば、条件さえ該当すれば連鎖する傾向が強い。これまでは拳士系にしか出ない技能だと諦めていた【鉄拳】が俺に出現し、それを中宮さんが認識した以上、生えてこないのが不思議なくらいなのだ。
「しっ。しゃっ」
当の中宮さんも自覚はしているのだろう、今日は木刀を持たずに独特のシャドーを繰り返している。
高い位置でポニーテールにした黒髪をなびかせながら、美少女が舞う様に攻撃を繰り出す様は絵になるなあ。
なんて考えていたら、目の前をサメが横切り、そっちに視線を向ければ綿原さんもまたパンチを繰り出している。こちらもまた黒髪を背中に伸ばしたメガネクール美少女だ。
武術素人なハズな彼女のパンチは何故かサマになっている。
そんな風に今日の談話室ではボクシングもどきが大人数で行われているのだ。
後衛系のメンツの中には普段の避け訓練をしているのもいるけれど、前衛職はほぼ全員だな。ロリっ娘な奉谷さんが、ちっちゃい体でシャドーしているのが微笑ましい。
ちなみに先生と中宮さんが出現させた【握力強化】は、前衛系メンバーを筆頭に、複数名が今朝になって発現させた。俺は出ていないけどな。ずるい。
一番に欲しがっていた疋さんが見事引き当てているあたり、なんか不公平だと思うのだ。
「あ痛っ」
そんな談話室に、やらかした声が響いた。
「あらあら」
なにが起きたか誰もがわかっている中、聖女な上杉さんが駆け寄った先にいるのは、手首を抑えたメガネ忍者な草間だ。
盾を構えた馬那にパンチをぶつけていたのには気付いていたけれど、怪我するほど遠慮なく殴るような性格だったか?
「らしくないな」
俺と同じことを思ったのか、上杉さんから【聖術】を掛けてもらっている草間に、短い言葉で馬那が話しかけた。
「なるだけ八津くんの条件に近づけたんだよ。【身体強化】と【身体操作】を切ってさ」
「無茶するなよ」
「馬那くんの言うとおりですよ」
そんな草間のセリフは俺にとっては喧嘩を売られているも同然だけど、なんとか抑え込む。代わりに馬那と上杉さんが苦言を呈してくれているのだし。
「けどさ。出た。うん、出たよ!」
「草間、お前まさか」
ちょっと申し訳なさそうにしていた草間だったけれど、突然態度を豹変させてはしゃぎ始める。それを見た馬那は驚きの声を上げ、隣の上杉さんは片手を上品に口に当てていた。
◇◇◇
「【鉄拳】の出現条件は『身体強化系の技能を使わずにパンチして怪我をする』、かよ」
「怪我まで要るかは、わからないけどね。いや、要るような気がする、かな」
複雑そうな顔で口元に手を当てた古韮が話をまとめ、見事【鉄拳】を候補に出現させてみせた草間が補足するのをみんながそれぞれの表情で聞いている。
技能が連鎖しやすい『クラスチート』の恩恵があるとはいえ、拳士系ならナチュラルに出現する【鉄拳】の条件があまりにも特殊すぎる。それが俺の素直な感想だ。
殴り合いともなれば誰だって【身体強化】を筆頭とした身体強化系の技能を併用するし、それらを持たない後衛系職の連中は、そもそもこんな練習をしない。
後衛系で怪我をするくらいパンチの練習をしていたのなんて、『観察カウンター』を使う俺くらいのものだ。
しかしこれは厄介なことになった。以前【聖術】と【痛覚軽減】を同時に成長させようとして、自傷紛いなコトをして両方の熟練度上げをやった経験はあるが、訓練や実戦での負傷を繰り返すようになってからはそういう類の不健全なやり口は控えていたというのがクラスの実情だったりする。
ありもしない【毒耐性】狙いと【解毒】の向上のためにカエルの麻痺毒を食らいまくったなんてのも、今は昔だな。
要は、怪我が前提となる技能取得はいかがなものかということになる。しかも何度怪我をすれば出現するかもわからないのだ。いかに【痛覚軽減】があるとはいえ、これはちょっと。
こういうのにセンシティブな先生は、いい顔をしないんだろうなあ。
「えっと、馬那でいっか。構えて」
「……おう」
場が微妙な空気になったにも関わらず、馬那に普段通りに明るく声を掛けたのは春さんだった。
そんな彼女の目には、口調と違って決意がこもっている。それを見てしまった馬那は、ため息を吐くようにして盾を構えた。
「春風さん……」
「先生、ごめんなさい。前衛で一番【鉄拳】が必要なのって、ハルだから」
見かねて口を出してきた先生に向き直った春さんは、さっきと打って変わった硬い口調で決意を表す。
言っていることは……、たしかにそのとおりだ。
一年一組最速にして、それでいて武術素人の春さんは、一番怪我の多いアタッカーでもある。無造作に振るう二丁メイスは速さとパワーも相まって、身体への反動がモロに出てしまう。
次点ではミアになるのだが、彼女の場合は天才的センスなのか、不思議と怪我は軽いことが多い。残るアタッカーメンバーとして先生と中宮さんは衝撃を逃がす確かな技術を持っているし、草間は元々無理をしない。海藤は盾役としての怪我はするけれど手首とか肘は壊さなくて、疋さんに至っては中距離からでほとんど余裕だ。
こういう順位付けは好むところではないけれど、俺は状況次第で春さんの故障を折り込んで指示を出すこともある。
怪我の程度が大きいほど治療には時間がかかるし、医者と患者双方の魔力も消費されるのは厳然たる事実だ。
「ハルのせいで田村や美野里に迷惑かけてるし」
春さんはそんな自分をちゃんと理解している。
「それにさ、五層の敵はもっと硬くて強いんでしょ?」
周囲の仲間たちを見渡した春さんは、ちょっと申し訳なさそうな顔になっている。まさか、自分が足を引っ張っているとでも思っているんだろうか。
冗談じゃない。ちゃんと憶えているぞ。俺たち四人が二層に転落した時に、危機一髪で助けに来てくれた仲間たちを。
先行してくれた草間と一緒になって最早これまでかという絶体絶命なシーンで登場してくれた中宮さんと春さんは、俺にとってのヒーローだ。女子だけど。
あれから時間が経った今だって、攻撃力と速度のある便利な存在として、魔獣トレインとかでも活躍してくれている春さんは、絶対に誰かに劣る存在ではない。
「先生、僕はちょっと怖くて今日は無理そうだけど、春姉にやらせてあげて……、ください」
口を挟もうかと踏み込みかけたところでそんなコトを言ったのは、春さんの半身、弟の夏樹だ。いつもの朗らかな夏樹らしくもなく、気合の入った表情をしている。
春さんが足手まといだとかそんなのは最初っから存在しないような言い方で、ただ姉の希望を叶えてあげたいとする夏樹。俺なんかとは格が違うよな。
「……わかりました。大きな怪我だけは絶対に気を付けてください」
ため息を堪えて、眉をへにょっとさせた先生は、力なく苦渋の決断を下した。聞いているこっちが申し訳なくなるくらいの弱々しさだ。
先生はなんにも悪くないのにな。
「まずは今夜だけ試してください。明日は翌日に迷宮が控えていますので止めておきましょう」
「はい!」
そんな妥協案に春さんだけでなくクラスメイトの中でもやる気な連中の声が揃った。
先生にはごめんなさいだけど、なんかいいよな、こういうの。
あ、伝えておかなきゃならないことを思い付いた。
「『ヤーン隊』のタイマンでもそうだったけど、『観察カウンター』の時って俺、毎回事前から【痛覚軽減】使ってるから」
これだけは言っておかないとだよな。
「八津くん……」
みんなを代表して夏樹から、普段の明るさとは程遠い冷たい視線が送られてきた。なんだよ、せっかくワンポイントアドバイスをしてあげたっていうのに。
結局就寝までの三時間で【鉄拳】を発現させたのは、【豪剣士】の中宮さん、【重騎士】の佩丘、【聖騎士】の藍城委員長、そして【嵐剣士】の春さんだった。
もちろん春さんは弟と一緒になって大喜び。【風術】使いの彼女だけど、魔術系技能は【魔術強化】を取り終わっているので、今後は身体系を伸ばす予定だ。その中に【鉄拳】という選択肢ができたのはかなり大きい。
「せっかくだからパンチも練習しよっかな」
「頑張ってね、春姉」
「なにいってんのさ。ナツもやろうよ」
「えー」
酒季姉弟は、かくも仲良しなのである。
そんな和む光景に対して──。
「その、残念だったね」
「仕方ないわよ。後衛職っていうのもあるし、わたしは関節技メインだったから」
何度か挑戦して、その度に手首を痛めていた【鮫術師】の綿原さんがダメだったのは、俺としてはとても残念だ。後衛職だから、なんて言っているけど、そもそも後衛組で挑戦したのが綿原さんだけだったんだけど。
「ふんっ」
それでも諦めきれないのか、俺の横で正拳突きを繰り出す綿原さんだけど、これがまたサマになっているんだよな。普段は練習なんてしていないのに、先生とティア様のやり取りを見ていただけでここまでできてしまうのが凄いよ。
本当は彼女が怪我をするところなんて、たとえ【痛覚軽減】で痛みが薄くたって見たくもない。
けれども懸命な綿原さんの姿を見ると、どうしたって止める気にはなれないんだ。
「三日間はお休みだけど、綿原さんならすぐだよ」
明日は先生に禁止され、そこから二日は迷宮だ。【鉄拳】チャレンジはそれ以降ってことになる。
「そ」
汗で髪を額に張り付けながらパンチを繰り出し短く答える綿原さんは、俺の気休めを聞いてモチャっと笑った。
「ほらほら、風呂ができたよ。今日は男子から入りな」
そんなタイミングで談話室に戻ってきたアネゴな笹見さんの声が響く。
ここで本日の挑戦は終了ってことだ。
◇◇◇
「わたしにも出たわよ。【鉄拳】」
翌朝、朝食の席でご機嫌な綿原さんの言葉に俺などは唖然としてしまったのだけど、どうやら彼女、ヤケになって朝の風呂上りに自分のサメを殴ったら【鉄拳】が生えたんだそうな。
昨夜抱いた俺の悲しみと、それを押し殺した声援は何だったんだろう。
その話を聞いたみんなが、後衛職を含めて総がかりで綿原さんが泳がせるサメを殴ってみたのだけど、誰にも【鉄拳】は出現しなかった。相手が珪砂サメだったので、みんなの手が擦り傷だらけなのが痛々しくって、もう。
本日の【鉄拳】チャレンジを禁じていた先生が遠い目をして見ないフリをしてくれているのが、これまた心苦しい。
それにしても謎な出現タイミングだよな。サメが要素として存在した以上、綿原さん独自の特殊ツリーってやつなのかもしれない。
「あっ、そういうことかも」
俺と似たようなことを考えたのか、夏樹が脇に浮かべた自分の石を見つめている。
そう、綿原さんはサメを殴って【鉄拳】を出した。酷い字面だな。
さておき、ならば【石術師】である夏樹はどうなる。
声を上げた夏樹に皆の視線が集まる中、アイツは行動に出た。
「やってみるね!」
夏樹は己の操る石をうしろから加速させるように殴りつける。
うん、相手が石だけにカウンターはダメージでかそうだもんな。それをやったらさすがに先生に怒られそうだし。
「どう? ナツ」
コトが終わったのを確認してから、春さんが夏樹に期待の目を向けた。
「うーん、出ないね」
「そっかあ」
失敗報告をする夏樹だけど、大した悔しそうではない。むしろ春さんが残念にしているくらいだ。
元々純粋な攻撃術師である夏樹だから、それほど【鉄拳】に執着していない。出れば姉とお揃いで嬉しいかなってくらいの感覚なんだろう。
「だけどさ」
三メートル先くらいの空中で停止していた石を引き戻した夏樹は、そこで嬉しそうな表情を浮かべてみせた。どうしたんだろう。
「ちょっと、試したいかも」
クラスメイトたちが首を傾げているのに構いもせず、胸のちょっと前あたりに石を浮かべた夏樹は、正拳突きのポーズに入る。
そこまでして石を殴る気なのか? なんで?
次回の投稿は明後日(2025/05/07)を予定しています。