第290話 精一杯の逃走劇
「なんだい、こりゃ。行き止まり?」
「これって」
石造りの部屋に笹見さんと綿原さんの声が響いた。
短い廊下の先にあった下り階段を降りた先にあったのは、扉も何もない小さな部屋だった。灯りのランブこそ壁に据え付けられていたが、それが逆に不気味さを演出している。
「隠し区画だよな、たぶん」
俺の言葉に綿原さんが頷き、笹見さんも思い当たったように納得の表情を浮かべる。
さすがにこんな意味不明の罠はない。それにこういう部屋を俺たちは知っているのだ。
俺たちが暮らす『水鳥の離宮』にも隠し区画と呼ばれる場所がある。使ったこと自体はないが、一度だけ出入りさせてもらったそこは、廊下の途中にある『壁に見える扉』の向こうにあった。
アヴェステラさんや王女様が使った王家専用の隠し通路とは別物で、隠し区画自体はしばらくそこに隠れるためだけの場所だ。つまり、脱出用には使えない。
離宮イコール逃がさないというのが伝わってくるような存在だな。ここまで逃げてきたが、この隠れ区画もそういう意味があったのだろう。
俺たちは隠し区画の内側にいて、まさにそこから出るための小さな部屋に辿り着いたということになる。
なるほど、ヴァフターや宰相が悠長に話をするわけだ。決めつけるのは危険かもしれないが、ここが『黄石』の一角にあるのだとしたら、団員の中でも知らない人間の方が多いんじゃないだろうか。
「どう?」
「ん、こことここ、かな」
小部屋の壁を【観察】する俺の肩越しに綿原さんが話しかけてくる。
近い距離を意識してしまいながら俺は、壁の一角を指さした。こんなこと、普段からバディモードでやっているのに、なぜか今日は動悸がな。異常事態だからか、それとも血を流し過ぎたからかも。
「たしかにちょっとだけ色が違うねえ。毎度のことだけど、よくもまあすぐに気付くもんだ」
「全部をいっぺんに見比べればね」
笹見さんの呆れたような声で、俺は我に帰ってきた。助かる。
こういう場面で役立つのが【観察】のいいところだ。全部を一気に見ることができれば、同時に違いもわかってしまうという理屈が成り立つ。一見同じ材質で均等に並べられている石畳の壁の一部だけ、微妙に違う色をしていて、しかもそこだけ埃っぽくないというのは、あからさますぎだ。
コレを二層転落の時にやっていればあの事故は防げていただろう。
あれ以来、俺は部屋に入る度に【観察】を使うことで、一年一組はトラップを全て回避することができている。
「それより八津くん、ちょっとゴメンね」
うしろにいる綿原さんが、俺の肩に手を乗せて、そのまま鎧下の袖を引きちぎった。しかも怪我をした側の方を。
「すごいわよね。もう血が止まりかけてる。それでもいちおう念のため」
傷の治りが早いのは、九階位な俺にも適用される。それでも綿原さんは千切った袖を素手でワイルドに引き裂いて、包帯みたいにしながら俺の腕に巻き付けてくれた。ちょっとキツ目だが、階位と【痛覚軽減】があるので、これくらいの方がいい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
モチャっと笑う綿原さんだが、左腕に雑な包帯ってものすごく覚醒とか封印感があってアレだな。
魔術は他人に直接届かないため、包帯は血に染まったままだ。それがまた中二感じに拍車をかける。
「ほらあ、二人が仲良しなのはわかったからさあ、八津、早くここ開けようよ」
「あ、ああ。そうだ、な」
ニヤリと笑う笹見さんがこの場で本来やるべきことを教えてくれた。
決して甘い空気を発散していたわけではないのだが、急いでこの場を脱出するのが最優先。うん、わかってる。
どうしてこういう時に限ってそっぽを向いて黙るのかな、綿原さんは。
「それでどうすればいいんだい?」
「えっと、たぶんそこの石を押し込んで……」
「どれどれ」
俺の指示に従って、笹見さんが石を押せばそこがへこむ。
「で、隣の石をズラせると思うんだ」
「ああ、なるほどねえ」
三センチくらいへこんだ空間に横の石を動かせば、そこに現れたのは無骨なレバー状のドアノブというか、鉄でできた取っ手だった。
実にありがちでシンプルな構造だが、意識をして気付けなければそうそうバレるものでもないだろう。
ここまではいい、ここまでは。
「問題は開けた先ね」
「だな。見張りがいるのを前提にしよう。綿原さん、笹見さん、準備を」
綿原さんが覚悟を決めた表情になり、それにつられた笹見さんの目にも光が宿る。
ヴァフターたちをボコったお陰か、弱気はなりを潜めたようだ。
扉を開けたらどうなるか。その場に大量の敵がいたら諦めるしかないだろう。
だがその可能性は低いと思う。こんな仕掛けがある石扉の先は普通に考えれば誰もが通る通常の空間のはずだ。しかも隠し区画への出入り口という性質上、当たり障りのない場所に繋がっているだろう。少なくとも『水鳥の離宮』ではそうだった。
つまり、そんな場所に大勢の人がいるのは不自然に映るはず。
ヴァフターの言うとおりに『黄石』のほとんどが今回の件に関係していなければ、なんていうのが前提なのが悔しいところだな。それと今は早朝というより夜明けくらいの時間帯だ。活動している人たちが少ないだろうということは、それだけ助けも見つけにくいということにつながりかねない。
想定は多い方がいいが、これ以上薄い想像を働かせまくってもキリがないか。
「しっかし、重そうな扉だねえ。内開き?」
「わからないけど、階位前提の仕掛けなのかしら」
バスケットボールくらいの水球を浮かべた笹見さんが妙なコトを気にすれば、サメを従える綿原さんが返事をする。
なるほどたしかに、この構造ならスライドドアとかではなさそうだし、だからといって蝶番のようなものも見当たらない。取っ手がある以上、押したり引いたりすれば開くのだとは思うが、総石造りの扉とか、いかにも重たそうだな。
「向こうに人がいるなら、開けたらすぐに気付くだろう。初手は口で騙して、隙を作ってからサメと水球。あとは流れで」
「行き当たりばったりは怖いわね。八津くん、期待しているわよ?」
「ああ」
綿原さんが頼もしく獰猛に笑っているが、俺に返せるのは苦笑しかない。
扉が分厚いせいで向こうの様子などはさっぱりだ。こういう時にメガネニンジャの草間が居てくれればと思うが、捕まってくれとは言えないしな。
捕まっていた部屋を飛び出してから一分か二分。背後から足音は聞こえないが、いつ何時ヴァフターたちが追いかけてくるかもわからない。ここは行動だ。
「んじゃ、あたしが開けるよ」
「頼む」
アネゴなノリを取り戻しきった笹見さんがドアノブに手を伸ばしかけたところで、触れてもいないのに石壁が動き出した。しかもこちらに向かって。
「ひっ!」
一転、笹見さんが怯えた声を上げるが、それどころではない。まさか魔力的な自動ドアというわけでもないだろう。
つまり、このタイミングで向こう側から誰かが入ってこようとしているのだ。こっちの存在を察知された?
「隠れよう。敵が入ってきたらうしろから攻撃して、そのまま逃げる」
声を潜めて提案すれば、女子たちは黙って頷いてくれた。
幸い石造りの扉は壁の中央から半分くらいの幅があったようで、こちらに向かって開いてきている。寄り添うようにすれば少しのあいだでも、隠れることはできそうだ。
俺たちは身を寄せ合い、呼吸すら止めてタイミングを計った。
◇◇◇
扉を開けて入って来たのは『黄石』の革鎧を着た近衛騎士が二人だった。片方はさっき宰相を送り出した顔だな。
ヴァフターたちもそうだったが、有難いことにメットは被っていない。装備も同じく短剣をぶら下げただけで盾も持っていなかった。迷宮内のノリでないのが助かる。
「ぐあっ!?」
「がっ」
初手は笹見さんの『熱水球』から。時間に余裕があったので温度も大きさもバッチリだ。
完全な不意打ちをするために、狙いは首筋をうしろから。驚きとダメージの両方が入っただろう。
「おりゃあ!」
「よいしょぉ!」
ぐらついた二人に俺と笹見さんで体当たりを仕掛ける。
この状況ならば非力な俺でも相手を転ばせることくらいは可能だ。滝沢先生や、武術女子の中宮さんに、さんざん教わったからな。
地面に転がった二人が、驚きと苦悶の表情でこちらを見上げた。ありがとうだよ、こっちを見てくれて。
「行きなさいっ!」
めっちゃカッコいいフレーズを綿原さんが口にしたのと同時に、三匹の【血鮫】が騎士に襲い掛かる。
齧るわけではない。完全に目だけを狙った綿原さんのサメは、至近距離ともあって、見事に目潰しを成功させた。
ただし、騎士の片割れは片目だけ。サメは三匹しかいないから。
「ぎゃあっ!」
だけどその騎士にはもっと不幸が待っていた。
一拍遅れて再形成された笹見さんの水球が目に当たれば、叫び声も上がるだろう。目に熱湯をつっこまれるとか、考えたくもない状態だ。
「十分だ。行こう」
転がりのたうつ二人の騎士にこれ以上の攻撃はもったいない。
サメの材料になっていた俺の血は残り少ないし、回収しながらとはいえ笹見さんのキープしている水も減ってきている。室内に入れば湿気も薄まり、増量とはいかないからな。
俺たちは即座に扉を潜り抜けた。
◇◇◇
「倉庫?」
「いかにもだよな」
キリリとした綿原さんが小さく呟き、俺もそれに同意する。
石の扉を潜り抜けて俺たちが入った場所は、埃っぽい倉庫のような部屋だった。壁には木製の棚が並び、武器ではなく雑多な木箱が置かれているが、中身は確認できない。なんとなくだが、使われていない体育用具室みたいな雰囲気だ。サイズ自体は体育館そのものクラスだが。
だからこそ隠し区画の出入り口にふさわしいのだろう。
そしてなにより、見える扉はひとつだけ。距離は三十メートルもない。そこさえ抜ければ、なんだけど──。
「何があった!?」
「どうしてお前らが!」
そんな最後の希望を感じさせた扉の手前には、騎士たちがいた。しかも八人。肩に付けられた部隊章はさっきまで戦ってきた連中と一緒だ。
敵と判断すべきだろう。
革鎧でメットこそ付けていないものの、半数が大盾を持ち、全員が腰に長剣をぶら下げている。
完全に俺たち三人を視界に納めていて、不意打ちは難しい。
俺はバカだった。なぜ大勢はいないだろうなんていうヌルい考えをしてしまったのか。
全部の隠し区画が『水鳥の離宮』みたいに廊下の途中から繋がっているなんていう保証は、どこにもなかった。こうやってワンクッション置く方が、むしろ自然じゃないか。アヴェステラさんが使った隠し通路が、まさにそうだったのに。
要は、少しでも楽観的でありたかっただけだ。弱い心が恨めしいぞ、自分めが。
ヴァフターに仕掛けたような狂言をするかどうかを一瞬迷う。
壁にあるランプだけが光源で窓の無い部屋だ。迂回させる形でサメや水球を使えば、あるいは、か。
「逃がすなぁ! 獲物が逃げたんだっ! 魔術に気を付けろ! 血と水だ。熱いぞ!」
背後から地面を這いずるようにして現れた騎士が、警告を出す。やられた。余計なコトまで伝えやがって。
獲物が逃げたと聞いた正面の騎士たちが、驚愕から警戒の顔に切り替わる。獲物なんていう単語が通じたのだ、これでこの場にいる連中が完全に敵だということが確定した。これはさすがにコレはヤバすぎる。
正面からのガチ戦闘なんてやったら、騎士八人でこちらの三名を制圧などは簡単な作業でしかない。捕まってからこちら、自分の無力さが恨めしくて仕方がない。
「どらぁぁ!」
そんな状況下でも、綿原さんは動いた。
壁際に積まれていた木箱を掴み、騎士に向かって投げつける。同時にサメを別の角度から走らせた。
「ムダなマネをっ」
標的になった騎士は一歩でソレを軽々と避けてみせる。
注意が逸れた騎士たちにサメと水球が迫るのだけど……。
「ダメ、だねえ」
「距離が」
笹見さんと綿原さんの悔しそうな声が結果を物語っていた。
ここまで二人の魔術が効果を発揮できていたのは、意想外で至近距離からの攻撃だったからだ。
【騒術師】の白石さんの【音術】のようにフェイントに特化しているのならまだしも、綿原さんのサメも笹見さんの水球も実体として存在している以上、視界に入れば見えてしまうし、盾を駆使すれば防げてしまう。
サメこそ形状や材質は異常だが、魔術による物質攻撃は王国の術師におけるスタンダードな攻撃でしかない。魔術使いと知って構えられれば、騎士の反応速度で受けきれてしまう。
「くっ」
「綿原さんっ」
木の棒をガラス片に持ち替えた綿原さんが、自分に左腕を切り裂いたのが視界に映った。血が流れだすのがゆっくりに見える。【目測】を持っていない彼女は、必要以上に深い傷を作ってしまっているかもしれない。なんてことを。
「玲子」
「……ああ、やるだけやるさ」
だらだらと血を零しながら綿原さんがガラス片を笹見さんに投げ渡す。受け取る笹見さんも一瞬躊躇してから、ニヤリと笑って腕を切り裂いた。
俺たちは先生や中宮さん、それと医者の卵な田村あたりから、切ってはいけない血管を習っている。だからこそ派手に血が噴き出るようなことはないが、だらだらと倉庫の床に血だまりが広がっていき、そこからサメが生えた。
「貴様ら──」
「三人の血が混じっちゃったわよ、八津くん、玲子。なんだか素敵だと思わない?」
血が武器だと警告されていても、あんまりなやり口に敵対する騎士が唖然とした声を掛けてくるが、綿原さんは黙殺した。
薄く笑って、妙なコトを言い出すあいだにも、彼女のサメは大きくなっていく。二十センチクラスが三匹だ。
「そういうのは凪と八津の二人でやっておくれよ」
「なによ玲子はイヤなのかしら」
「まさかだねえ。光栄だよ」
ニヒルな会話を繰り広げている笹見さんと綿原さんだが、こんなのは悪あがきにすぎないことも自覚しているのだろう。
たしかにサメの材料は増えたが、笹見さんの水は減る一方だ。そもそもサメの効果が薄い。
それでも二人の心意気はムダではない。ちゃんと時間を稼げているからな。ならば俺も付き合おうじゃないか。
「二人は魔術を連打。なんでもいいから時間を稼げ。うおぁぁ!」
だから俺は奇声を上げながら走りだす。
「八津くんっ!?」
「八津!」
綿原さんと笹見さんが驚いているが、相談している暇はない。
魔獣ならまだしも、相手が万全の態勢を取った騎士ともなれば、この三人ではまともなコンビネーションなど不可能だ。
ならば俺にできることなど、悔しいけれど時間稼ぎと、よもやの隙を作ることくらいしか残されていない。
「バカをするっ!」
真っすぐ向かってくる俺を視界に納めた騎士のひとりが盾を構えて、嘲りの言葉を吐いた。
そのとおりだよ。俺にはバカしか残っていない。
出血のお陰で体が重いし、女子たちのような力もなければ、遠距離攻撃もない。この場にいる人間の中で最弱ナンバーワンは間違いなく俺だ。
だけどお前たちが俺を殺せないことも知っている。
こちらはヴァフター一味にとって大切な『荷物』だろう?【聖術師】がいるかどうかは知らないが、怪我をさせるくらいが限度のはずだ。当たりどころが悪かったなんていう言い訳はできないはず。
「うおぉぉ!」
雄叫びを上げて、俺はあえて敵の盾に体当たりをカマしてやった。
もちろん相手は微動だにしない。それに対して弾き飛ばされた俺は、反動で壁際の木棚に突っ込む。ガラガラと音を立てて棚に置いてあったものが降ってくるが、そんなものを気にしてたら負けだ。ついでに痛みも。
再び立ち上がり、訝しげにしている騎士を睨みつけてやる。
「どぅらぁぁ!」
「やあぁぁ!」
そんな俺を見た綿原さんと笹見さんも、そこらの木箱やら適当に落ちていたものを敵に投げつけ、サメと水球を躍らせた。
これでいい。もう、これくらいしかできることは残されていないから。
向こうに見える扉は普通の木製だ。厚みなどは大したことはない。この部屋はすでに『隠し区画の外』であり、扉の先は『黄石』の通常区画だ。
こんな朝早くに、大きな音を立てて騒ぎが起きればどうなるか。
こちらが辿り着けなくても、向こうから来てもらえばいいだけだ。
「なんだようるせえな。朝っぱらからなにしてやがる」
そんな声が扉の向こうから聞こえてきた瞬間、騎士たちの動きが止まる。
耳をすませば、複数人がこちらに近づいてきていることもわかった。
俺たちの攻撃は通じなかったのは確かだ。それでも、音は届くんだよ。
「おいおい、こりゃあまた」
「ははっ、絶体絶命です」
「なんてザマだい。勇者様どもが」
扉を開け放って倉庫に入ってきたその人は、茶色い髪を短くした三十半ばのおじさんで、『黄石』の革鎧を着込んでいた。
ボロボロになっている俺たちを見て悪態を吐く口調、それがなんとも頼もしい。
「お久しぶりです、ジェブリーさん」
おじさんの名はジェブリー・カリハ。
第五近衛騎士団『黄石』カリハ隊の隊長で、以前俺たち勇者を鍛えてくれたその人だった。