私のエッセイ~第十七弾:「エレファント・マン」の世界
こんばんは!お元気ですか・・・?
今宵は、前回の「切り裂きジャック」と同様、19世紀のイギリスの有名人をひとり紹介します。
その名も・・・「エレファント・マン」!
ジャック同様、非常にインパクトのあるネーミングですが・・・彼には、「ジョーゼフ・ケアリー・メリック」という正式な名前があります。
ジャックは、いわば「名無しのゴンベエ」ですからね。
私が、なぜ「切り裂きジャック」のエッセイのすぐあとに、この「エレファント・マン」のエッセイを掲載したのかといいますとね・・・
「ジャックとは、何もかもが正反対の人物だから」です。
「エレファント・マン」と呼ばれたメリックは、ロンドン病院の地下室である「ベッドステッド・スクエア」という、「安住の地」を得るまでの間、人々から言われなき差別や偏見、そして醜い「好奇の目」にさらされ続けてきました。
後述しますが、ろくに家族愛が受けられず、その変形してしまった痛ましい体のため、満足に歩くこともできませんでした。
でも彼は、人生の最期にいたるまで、自分に親切にしてくれた人々への感謝と敬意を忘れることなく、常に「謙虚」「従順」・・・そして、「純粋」でした。
人を人とも思わず、「地球よりも重い」といわれる尊い生命を、何のためらいもなく残虐な殺害方法でもって無残に奪い、なおかつ、それを自らが軽んじ、笑いの対象とした「悪魔」とは、根本から、まるで真逆の存在でした。
驚くことに、「切り裂きジャック」が次々と娼婦たちの命を奪った1888年のホワイト・チャペル街の現場は、実はそのどれもこれもが、当時のメリックの住まいであるロンドン病院の地下室から、ほんの数キロしか離れていませんでした。
・・・両者は、お互いに「手の届く範囲」にいたのです!
さらに、メリックが病院で過ごしていた期間というのは、1886年~1890年でしたから、まさに「切り裂きジャック」の犯行の夜・・・そのすべての夜において、メリックとジャックは、わずか数キロの距離を隔てて対峙していたということになります。
かたや、五体満足の肉体を与えられながらも、その卑劣で残忍な悪魔的所業にのめり込んだ憎むべき魔物・・・
かたや、すさまじい全身の障害を負いながらも、人々への愛と感謝の心を失わず、自分を取り巻くあたたかく優しい人々に見守られながら、苦難の生涯を、短すぎるその生涯を、精一杯駆け抜けた心優しき青年・・・
神はなぜ、かくも皮肉で残酷な試練をメリックにお与えになったのでしょうか・・・?
メリックの、痛ましくも美しい、そして儚い生涯を鑑みましたときに、私は彼を想う自らの熱い涙とともに、「運命の冷罵」「運命の非情さ」というものを感じずにはいられません。
・・・長い前置きにはなりましたが、以下にエッセイ本文を掲載していきたいと思います。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鼻と唇の突起、著しく変形した額の奇観が「象」を思わせるところから、「エレファント・マン」と呼ばれた一青年の出生から死までを、抜粋形式で綴ります。
80年代初頭に、空前のブームを巻き起こした映画「エレファント・マン」では描ききれなかった真実がここにはあります・・・。
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1862年8月5日、一人の男の子が、イギリスの片田舎「レスター」に生まれた。
彼の名は、「ジョーゼフ・ケアリー・メリック」。
三人兄妹の長男だった彼は、出生時には、何の異常も認められていなかった。
しかし、生後21ヶ月の頃から骨が変形し始め、見るも無残な外観を呈するようになった。・・・これにより、彼は「エレファント・マン」とよばれるようになる。
それでも、12歳までは、公立学校に通う、猛烈に読書好きな少年だったのである。10歳で母と死別。その後の父の再婚。葉巻工場への就職、解雇、行商・・・と続く。
根気よく探して、やっとありつけた「葉巻工場」の職で、二年近く頑張ったが、満14歳を過ぎた頃から、変形した右腕がますます重くなり、葉巻を巻く細かい作業が不可能になってしまった。
・・・彼は職を追われ、長い期間、失業を余儀なくされる。
そして、空腹をかかえて街をさまよい、新しい職を探し続けた。・・・しかし、変形した彼の風貌を見て、雇い入れるところなど、どこにもなかった。
家に帰れば、心ない「ママハハ」が、「お前の稼ぎには、これでも多すぎるんだよ!」と言ってなじり、ろくに食べ物を与えてはもらえなかった。
それがつらかった彼は、空腹を抱え、またとぼとぼと足を引きずりながら、街をさまようこととなる・・・。
見かねた父が行商人の免許を取ってくれたが、これが息子にしてやれる最後の「愛情行為」となった。
行商人となったメリックだったが、怪物のように変形した彼をひと目見るや、みんなドアを閉めてしまい、商品なんぞ買ってはもらえなかった。
甲高い声で懸命に話す彼の言葉は、その歪んだ口のために、一般人には全く聞き取れない。ここにも、彼の悲劇があった。
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・・・ついに彼は、「レスター救貧院(作業院)」という、浮浪者収容施設に身をゆだねることとなる。
しかし、この施設は、メリック自身がのちの回想で、悔し涙を流し、身震いをしながら語ったように、かなりヒドイしろものだったらしい。
「救貧」とは名ばかりで、その収容者には、「屋根とメシ」を保証するかわりに、長時間の、過酷な刑務所なみの労働が待っていた。
まる4年、彼はその施設にいたわけだが、その間、この情け無用の施設で、その痛ましい容姿のために職員や同輩にどれほどあざけられ、屈辱をこうむったのかは、想像するほかはない・・・。
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やがて救貧院を出た彼は、見世物興行師「トム・ノーマン」に出会う。
・・・当時のイースト・ロンドンは、「暗黒時代」といわれたほど荒廃した状態で、汚物と凶悪事件と娼婦のエリアだった。
そんな時代背景を反映してか、「コビト」「巨人」「両性具有者」「ウロコのついた少年」などのグロテスクな見世物小屋が大繁盛し、人々は、そのいやらしい好奇心から、こぞって見世物小屋に詰めかけたのである。
・・・その中には、あの有名な「切り裂きジャック」の被害者のロウ人形なんかも展示されていたという。
メリックはノーマンと契約を交わし、「見世物」となることで生計を立てる決意を固めたのであった。
そして、見世物仲間とともにヨーロッパ各地を転々と巡業し、ともかくも、「安定した」暮らしの糧を手に入れたのである。
・・・このヨーロッパ巡業のメリックは、いたるところで騒動を引き起こしていたようである。
映画「エレファント・マン」にもあるように、移動のときの彼は、一箇所だけ穴があいた特殊な被り物を、頭からスッポリかぶっていた。
それを、好奇心にかられた心ない人がめくって、中を覗こうとしたわけである。
「見世物」として屈辱にまみれたかのように思えた彼だったが、のちの記録によれば、あの「救貧院」とは違い、興行師のことを少しも悪く言わず、「一人前の芸人」として扱ってくれたことがとてもうれしかった、と語っている。
・・・しかし彼は、最後にはその興行師からも捨てられることになる。
次第に「見世物小屋」への、ロンドン警察による弾圧が厳しくなり、ノーマンの小屋も畳まねばならなくなったのだ。
途方にくれたノーマンは、ロンドン行きの片道切符をメリックに渡すと、彼のささやかな蓄えを奪い取り、いずこへと姿を消したのである。
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・・・一方、ひとり知らない街に残されたメリックの心境はいかばかりだったろう。
所持金はゼロ。頼れる家族もいない。
おまけに奇形のために、満足に歩くこともできない。
話す言葉は全く聞き取ってもらえない・・・。
足を引きずってさまよう彼に、情け容赦ない群集が群がり、彼の洋服や被り物を剥ぎ取ろうとして、どこまでもまとわりついた。
おびえた彼がリバプール・ストリート駅の待合室にたどり着き、警官に助けだされたときには、彼の精神の疲労は極限に達していた。
メリックは震える手で、垢まみれの名刺を警官に渡したが、これが彼の忌まわしい人生を変える、
一大転機のキッカケとなるのであった。
名刺には、「見世物」時代に彼が一度診察を受けたことのある、ひとりの医師の名前が書かれてあった。
・・・『ロンドン病院:フレデリック・トリーヴス』。
連絡を受けて到着したトリーヴスは、昔の知人が今や忍耐の限界を越え、完全に打ちのめされているのが、手に取るように分かった。
すぐにトリーヴスは、メリックの身元引受人になることを警官に告げ、病院関係者を強引に説き伏せ、メリックをロンドン病院の、滅多に人が来ない「ベッドステッド・スクエア」という地下室に連れて行ったのであった。
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・・・その日を境に、ボロボロに傷ついたメリックの心も次第に癒され、優しく接するトリーヴスの好意に、恥ずかしげに、しかし、ひとつひとつ深い感謝を表すようになった。
病院のスタッフとも親交を深め、おずおずとではあったが、子供のように信頼を寄せるようになった。
いまや、トリーヴスもメリックの聞き取りづらい発音にすっかり慣れ、毎日二人で、水入らずのおしゃべりを楽しんだのだった・・・。
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そして、ある日、トリーヴスは一つのカケに出た。
メリックを本来の一般人のように、「自分もごく当たり前の人間なんだ。」と納得させるためであった。
トリーヴスは、ある若くて美しい未亡人に、ひとつの頼みごとをした。
それは、「ほほえみをたたえてメリックの部屋に入り、彼と握手することが出来るか。」というものだった。
・・・危険なカケだった。「嫌悪」や「当惑」を毛ほども表さないことが必要であり、失敗すれば、メリックの心に修復不可能なダメージを与えかねなかったからだ。
彼女は「できる」と言い、ごく自然に優雅な物腰で部屋に入り、ほほえみを浮かべてメリックに近づき、トリーヴスの紹介を待って握手の手を差し伸べた。
・・・効果はあまりにも大きすぎた。
メリックは、ゆっくりと彼女の手を離し、ゆっくりと、その巨大な頭を下げると、いきなり、聞くものの心を引き裂くようなすすり泣きを発し、抑えきれずに泣き崩れた。
のちにメリックがトリーヴスに語っている。
見知らぬ女性が手をとってあいさつをしてくれたのはおろか、ほほえみかけてくれたのは、あれがはじめてだった、と・・・。
この時からメリックは本来の自信を取り戻し、「いつも人の目がうかがっている」とか、「ヒソヒソささやいている」といった強迫観念が徐々に消えていった。
トリーヴスは、この後もメリックに何人もの美しい夫人を紹介したが、決まって彼が、「つつましく、もっぱら心を捧げる恋に」落ちたと回想している。
メリックのもとには、今や上流階級社交界の著名人たちが続々と慰問に訪れ、ついには、イギリス王妃までもが自らメリックへの訪問を希望され、メリックにとっては、まさに「夢のような」ひとときであったろう。
そんな幸福な境遇になったメリックだったが、少しも驕ることもなく、ただただ、深い感謝と喜びを表すのだった。
その純粋な人柄がまた人の胸を打ち、さらなる訪問者を招き寄せたのではなかろうか?
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・・・そして、1890年4月11日。
回診にきた看護婦が、ベッドに仰向けになったメリックのなきがらを発見した。
死因は、「頚椎の脱臼」による窒息死。
いつもは、その巨大な頭を仰向けにして寝られないメリックが、無理に仰向けに寝たために、その重い頭がうしろにかしいで、ガクンと下がったために、首の骨が脱臼したのだった。
メリックは、以前トリーヴスに言っていたそうだ。
「ほかの人たちのように、仰向けになって眠れたら、どんなにいいでしょうか・・・。」と。
おそらくメリックは、最後の日、なにか心に決するところがあって、それを試みたに違いない。
彼の死は、生涯彼が抱き続けていた願望・・・「ほかの人たちのように」という、痛ましい、しかしかなわぬ願いがもたらしたものといえよう。
メリックが生前残した次の詩から、彼の純粋な人柄がうかがい知れる。
「私の身長が極地にまで届き
手のひらで大海をつかめるとしても
私の大きさを測るものは 私の魂
心こそは 人の基準なり」
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ロンドン病院の「カー・ゴム理事長」は、新聞社に送った手紙の中で、こう述べています。
『ロンドン病院に収容されるまで、ジョーゼフがどんなに暗い毎日を送っていたか・・・そして、心ある人々の善意が、いかに彼を勇気づけたことか・・・。
生前の彼は、多くの人のお見舞いを受け、高貴の人々のおはこびまでいただき、おかげをもって、楽しみや気晴らしに事欠くようなことはありませんでした。
大の読書家だった彼は、十分に本を与えられ、演劇界のスターである、ある婦人のご厚意により、籠細工も学びました。
劇場にも出かけて、人目につかないボックス席で、芝居を見物することもできました。』
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このあと手紙は、メリックの人徳に触れ、司教による堅信礼を受けたこと、教会のミサに参列していたこと、そして、牧師と交わした最後の会話の中で、彼が『病院で受けた、あらゆる親切に深い感謝の意を表し、自分をここに導いてくれた神のご加護に感謝したい気持ちである』と語ったことを述べています。
また、カー・ゴム氏は、続けてこう述べています。
「このような『ありあまる恩恵』にあずかりながら、なおかつジョーゼフは死ぬまで、おだやかで謙虚さを失わず、人々の好意に感謝の気持ちを忘れることなく、必要な制約にはつねに従順でした。死におもむいたあとまでも、彼の人間像は奥ゆかしく高潔で、慈善に値するものでありました・・・。」
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ずっとメリックの晩年に寄り添ったトリーヴス医師も、自らが「エレファント・マン」の生涯を綴ったエッセイの終わりにかけて、自分の知りえたメリックの内なる気高さをたたえて、次のような言葉を、メリックにたむけています。
「メリックの精神を、もしも生きている人の形にして眺めることができたとするならば・・・それは、身の丈すらりと高く、秀でた額、のびやかな四肢、眼には不屈の勇気がみなぎる、雄々しい勇者の像であったろう・・・。」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
こんな、せちがらく、ともすれば誰もが自分本位になりがちなドライな世の中で、今こそ「メリック」のような、まっすぐで清い心が求められるのではないでしょうか・・・?
ここまで、長い長い私の拙いエッセイをお読み頂き、本当にありがとうございました。
あらためて、優しい先輩方、心ある読者の皆様には、深い感謝の意を表したいと思います。
では・・・。 m(_ _)m