73 終わりの勇気
「ちくしょう! 届きやがれーーッ!」
おれは地上に向かってなんども跳び上がった。
しかしヤツの用意した落とし穴はとんでもねえ深さで、とてもじゃないが脱出できそうになかった。
「くそっ! おれァなんてバカなんだ!」
冷静に考えればわかることだった。
なぜ魔王は逃げなかったのか。
なぜ魔王はわざわざおれの手の届くところに降りてきたのか。
そんなん、おれを倒すすべがあるからに決まってんじゃねえか!
ああ、なんてこった。
全力でも届かねえうえに、ジャンプでパワーを使いすぎたせいでクソの消費が半端じゃねえ。
スキルが……切れる!
「……くそっ!」
おれははるか高いところにある出口を見上げ、悪態をついた。
おれの体は虹色の輝きを失い、生身の肉体へと戻っていた。
魔王は穴のふちにいた。
ドラゴンの背に乗り、ずっとおれを見下ろしていた。
「ふははははは! どうやらスキルが切れたようだな!」
「……」
おれは奥歯をゴリゴリ噛み、黙って睨み返した。
もうどうしようもねえ。クソがなけりゃスキルは使えねえ。
周りにひともいねえから、オート・スキル”うんこ吸収”でクソをチャージすることもできねえ。
暗い穴ぐらの中で、おれは目を伏せた。
絶望のあまりいつもの悪口さえ出なくなっていた。
そこに、胸をえぐるような言葉が降りてきた。
「きさまはバカだなあ! そこに足がかりがあるというのに!」
「なにっ!?」
おれはがばっと顔を上げ、穴の壁面に目を凝らした。
足がかりだと? ……足がかりだと!?
「見えんか!? ほら、きさまの背面、ちょうど穴の中間あたりだ!」
「………………アッ!」
……あった。
土と岩石の混ざった壁面に、ひとひとりが腰を下ろせるくれえの岩が飛び出していた。
「あ……あ…………ああっ!」
おれは震えた。
目が裂けそうなほどおっ開いて、上下のまぶたが痛くなった。
頭がどうにかなりそうだった。
あるじゃねえか……よく見りゃチャンスがお迎えしてんじゃねえか!
ちくしょう! おれはどこまでバカなんだ!
冷静なら見えていた! 落ち着いて突起を探してりゃ脱出できた!
よく見ろよ! まずは観察だろ!
いくら頭にきてたからって、魔王ばっかり睨みつけて、大事なことになにひとつ気がつかねえたあどーゆーこったよ!
思ってたじゃねえか! 冷静にならねえとって!
「うああああああああッ!」
絶望を超える苦しみがおれを襲った。
ひざから崩れ落ち、見開いた目からどばどば涙を流した。
「少々酷なアドバイスだったか!? だがまあ、おかげで確認できた! きさまが本当に終わったことがな!」
ヤツの狙いは確認だった。
おれにまだクソが残っていればきっとあの岩を使って登ろうとするだろう。
だが、そうならなかった。
いまの状況が明確な答えだった。
「こ……このやろおーーーーッ!」
おれは立ち上がり、立ちグソ漏らしのポーズで踏ん張った。
「んがああーー! うんがああああーーーー!」
クソさえ出せりゃ希望がある。
ほんの少しだけでもスキルを発動できりゃ、地上に出て、みんなからまたクソをチャージできる。
だが、出ねえ!
最初ヤツを見たときカッとなってぜんぶ出しちまった!
「ドちくしょーーーーーーッ!」
——ビリッ!
「うっ!」
おれはケツ穴に鋭い痛みを感じ、ビクンとのけ反った。
踏ん張りすぎた。
無限のクソを漏らすことで傷ついていた肛門はもはやズタボロで、それで無理にきばったもんだから切れちまった。
無意識にズボンのうしろから手を入れ、パンツを触った。
ズキズキ痛み、じわじわ血が染みていく感覚があった。
「う、う…………」
おれは虚空を見つめた。
目の下にえぐれるほど濃いクマができてる気がした。
遠く、ヤツの声が聞こえた。
「ふははははは! そんなに悲しむことはない! どうせみんな逝くんだ! きさまの仲間たちみんな、もちろんおれさまもな!」
「うう……」
「先ほどはなぜ魔眼が通じなかったか知らんが、まあ、雲ごしに使ったから効果が薄かったのだろう! これから直に行って、すべての魔物を人類撲滅に差し向けてやる!」
「……」
「なあに、早いか遅いかの違いだけだ! おれさまも近いうちに逝くから、先に地獄で待っているがいい! ふははははは! ふはははははははーー!」
そう言うと、魔王を乗せたドラゴンはどこぞへと消えていった。
穴の中ひとり残されたおれは、どうしようもない現実に、胃液混じりの吐息を漏らしていた。
人類を救えなかった。
仲間たちの想いをダメにしちまった。
おれは、この穴ぐらの中で、ひとり朽ちていく……
「………………ちくしょう」
おれはぼろぼろの視線を空へと向けた。
小さな空だった。
穴の面積はかなり広いが、距離が遠いせいで、コインのように小さく見えた。
ふと、足がかりの岩が目に入った。
スキルさえ使えればここから出られる。
あの岩を踏み台にして、二段ジャンプで跳び上がれる。
そう、スキルさえ使えれば………………!
「バカやろう!」
おれは声に出して叫んだ。
情けねえてめえに気合を入れた。
「なにあきらめてやがる! まだ終わっちゃいねえ! おれはまだ、死んじゃいねえんだぞ!」
そうだ、おれは死んでねえ! まだ生きてる!
そりゃあつまり、可能性が残ってるっつーことだ!
考えろ! どうやってクソを漏らす!
まずはストックの有無だ!
いまおれは腹ン中が空っぽだと思ってる!
でも本当にそうか!?
実はがんばりゃちっとくれえ出るんじゃねえか!? やってみるか!?
しかしおいそれと試すわけにはいかねえ!
おれのケツ穴はさんざん使い込んだせいで切れている!
これ以上踏ん張れば最悪”中身”が出てきちまうかもしれねえ!
ダメだったときに取り返しがつかねえ!
いっそ土を食うのはどうだ!
土を食って下痢でもなんでもケツから出しゃあクソだ! スキルが発動する!
いや待て! 土はクソに入るのか!?
クソってのは食いもんのカスだろ!
クソになってなかったら失敗するんじゃねえのか!?
いや、それでもクソだろう!
たとえばきのこやコーンは消化されずにそのまんまの姿で出てくるが、パンツの中にそんなもんが残った記憶はねえ!
たとえ土でも、ケツ穴からひり出しゃスキルは発動する! きっとそうだ!
だが、いまから食って出すんじゃいったいどれだけの時間が………………
「……はっ!」
おれは気づいた。気づいてしまった。
まだある。
ケツから出せる、クソ以外のものが残っている。
——おれの”中身”——!
ごくり、と息をのんだ。
それは賭けだった。
やれば間違いなく死ぬだろう。
しかもとんでもねえ痛みを味わうことになる。
そもそもそれでスキルが発動する保証がねえ。
賭けに負ければ壮絶な無駄死にが待っている。
だが成功すれば即座にスキルが使える。
魔王は魔眼を使うと言っていたから、あまり悠長にしている時間はねえ。
となればもう、この方法しか残ってねえ。
だけど……だけどよおっ!
「うううっ……」
おれは震えた。
想像しただけで寒気に襲われた。
死にたくねえ。
激痛が怖え。
考えれば考えるほど頭ン中がぐるぐる掻き回されて、胃液が込み上げてくる。
けどどうすりゃいい!
このままじゃみんな死んじまう!
女王さんが!
ミギニオが!
キンギーが!
タイが!
そして、そして……
カレーノが!
おれはハッと目を見開いた。
その瞬間、なぜかカレーノとの思い出が次々とよみがえってきた。
「お隣いいかしら?」
そう言ってあいつは酒場の丸テーブルに座った。
あのときはこんなに深い仲になるなんて思いもよらなかった。
「どーんと花束を持っていくの! サプラーイズよ! サプラーイズ!」
あいつはメシを食うのも忘れて、ささやかな恋を応援してくれた。
他人事だってのに、ずいぶんとたのしんでやがった。
「♪——朝が来れば日が昇り〜」
すっきりと沁みる歌声だった。
歌に興味のねえおれでも、また飲みながら聴きてえと思った。
「ふわああ〜〜、しあわしぇ〜〜」
砂糖菓子をほおばったときの顔っつったら、見てるこっちまでとろけそうだった。
あの顔が見れるなら、菓子なんてぜんぶやっちまう。
どんどん、よみがえった。
次から次へと、あいつの笑顔が浮かび上がった。
そして……
「助けてくれて……ありがとう」
あいつはおれの手を握ってくれた。
心地よかった。
すべすべして、やわらかくて、どんなうまい酒よりおれを酔わせてくれた。
……もうあの手は握れねえ。
……もうあいつと触れ合うことはできねえ。
でも、それでもいい!
あいつに笑顔で生きてほしい!
あのきれいな手でしあわせをつかんでほしい!
そのためだったら、おれァどーなったっていいッ!
「やってやんぞこのやろおーーッ!」
おれは拳を握った。
中腰になって奥歯を噛んだ。
「うおおおおおーーッ!」
きばると同時に激痛が走った。
ケツ穴が裂けていく。
地獄の苦しみが襲いかかる。
だが——それでいい! それが狙いだ!
「うぐうううーーーーッ!」
なおも力を強めた。
頭の血管がびきびき言った。
ぶわっと氷のような汗をかき、びちゃびちゃと血が地面で音を立てているのがわかった。
おれは死ぬ!
おれは恐ろしい目に遭う!
だけど……カレーノが死ぬ以上につらいことなんて、この世にあンのかよおおおおーーーーッ!!!
「おれァベンデル・キーヌクト! 天下無双のクソ漏らしだあああアアアアーーーーッ!」
——ブチィッ! ズルズルズルッ!
「がァッ——!」
おれの首が、ビクン! とのけ反った。
一瞬、意識を失うほどの激痛が、肛門から背骨を伝って、目の奥を焼いた。
だが、一瞬だ。
次の瞬間には、もう痛みも苦しみも感じなかった。
「………………や、やったぜ、このヤロォ……」
穴ぐらの壁が虹色に照らされていた。
手を見れば、虹色の光をまとっていた。
それは”終わり”を意味していた。
そう、”終わり”だ。
魔王の支配の”終わり”……
人類の戦いの”終わり”……
そして、おれの人生の”終わり”……
スッと、こころが落ち着いた。
もう終わったとわかったときから、すべての覚悟が決まっていた。
「へっ、空っぽだぜ」
腹を撫でると、なぜかそこが空洞だとわかった。
パンツの中には、いままで感じたことのない、生あたたかい感触があった。
足元には、ひと目で取り返しがつかないとわかる血溜まりができていた。
「フッ……」
少しだけ、さみしいため息が出た。
「さて、行くか」
おれは出口を見上げた。
遠く小さい空は、手を伸ばせばすぐそこにあるように思えた。
——行くぜ!
おれは両脚にバネを効かせ、思いっきり跳んだ。
不思議と体が軽く感じた。
壁から突き出た岩に飛び乗り、もういちど跳んだ。
しっかりした岩だ、とこころの中でほめてやった。
そして、草の大地を踏んだ。
視界のすべてに青空が映った。
風のにおいを強く感じた。
夏のはじまりに吹く風だ。
若草が萌え、いのちの輝きがあふれ出す、生命の息吹だ。
それが、南から北へと、やさしく抜けていく。
「ああ、そうなんだな……」
おれは笑顔になった。
けどやっぱり、少し、さみしかった。
————まあいいさ。あいつが風に、乗れればいい。
おれは数秒目を伏せ、口元の笑みを絶やさないようにした。
だれかに見られてるわけじゃねえが、お天道様が見ていた。
それなのに男がくよくよしてたら恥ずかしいだろう?
「………………よし、ぶっ殺してやる!」
おれは”終わり”に向かって走り出した。
視線は水平より下に向けなかった。
目指す先の上空には、でっけえ太陽が浮かんでいた。




