54 白いドレスは紅茶とともに
ゲーリィはうずくまっていた。
顔じゅうからあぶら汗を流し、震えながら、
「姉さん! 姉さん!」
と喘いでいた。
巨大な力を持つ男。
およそ一騎当千と呼ぶにふさわしい無双の男。
その実態は小さな人間だった。
一切を葬る剣と、凛とした騎士道の裏には、痛みを知らない、子供のような”弟”が隠れひそんでいた。
いまならきっと殺せる。
難しいことなどなにもない。
だが……どうにも気が進まねえ。
戦う気のねえ相手を一方的に攻撃するのは気に入らねえし、キレジィが”助けて”と言った相手を殺すなんて……
……いや、そうじゃねえ。そんなはっきりした気持ちじゃねえ。
おれはおれを殺したくねえんだ。
こいつはおれだ。かつて姉さんを愛し、姉さんを殺してしまった、絶望に沈む”おれ”なんだ。
……殺したくねえ。戦いたくねえ!
「ベンデル! 殺すんだ!」
オンジーが叫んだ。
「キレジィちゃんを殺した悪魔をさっさと殺せ!」
……なにひでえこと言ってやがる。殺意のかたまりみてえなツラで怒鳴りやがって。てめえらしくもねえ。
それにこれは、そんな簡単な話じゃねえんだ。
「なにしてる! そいつを生かしておけば、のちのち恐ろしい相手になる! 早く殺すんだ!」
たしかにその通りだ。
魔王を倒し、平和を取り戻すには、このバケモノを消さなきゃならねえ。
ここで倒さなけりゃ、いずれかならず衝突することになる。
つまり、どっちにしても殺すわけだ。
だが……ぐ……うう……
「殺せーーッ! 手遅れになったらどうするーーッ! スキルが切れたらお終いだぞーーッ!」
く…………くそっ! しょうがねえ! 悪ィが死んでもらうぜ!
「ちくしょうーー!」
おれは目をつぶり、ゲーリィ目がけて剣を振り下ろした。
見たくなかった。
おれは、おれを殺したくなかった。
だが——
ドスン! と、なにかがおれにぶつかった。
「なんだ!?」
目の前は灰色だった。
巨大ななにかがおれを押し返していた。
おれは身をひるがえし、転がりながらそいつを見ると、翼の生えた魔物だった。
「まずい! 逃げられる!」
とオンジーの声を聞いてハッと振り返ると、ドラゴンにつかまれるゲーリィの姿があった。
そして、
「魔物だーー! 魔物たちの襲撃だーー!」
周囲から青ざめた叫びが聞こえた。
遠く平原の向こうから、大量の魔物が攻め込んできていた。
まさか、ゲーリィ直属部隊!
「ベンデル急げーーッ!」
ドラゴンがブワッと飛び上がった。このままじゃ逃しちまう。
おれは反射的にそっちに行こうとしたが、一瞬、体がビクリと止まった。
こころが定まってねえせいだ。
ヤツを殺さなきゃならねえのに、気持ちが乗ってねえから、ほんの一瞬だが、止まっちまった。
その勢いが止まったところに、翼のある魔物が大量に飛び込んできた。
「やめろーー!」
と叫んだのはゲーリィだった。
だが魔物どもは次々とおれにぶつかってきた。
「くそっ、どけ!」
おれの勢いが死んだ。
ダメージはないが、推力は完全に押し殺されていた。
そして、自爆特攻の肉体がすべて灰となり、濛々と霧散したとき、ヤツの姿ははるか遠くの空にあった。
おれは決して逃してはいけない相手を逃してしまった。
その後は地上を襲う魔物を撃退した。
えらく強い魔物だった。
おれはオート・スキル”うんこ吸収”でクソを集め、トリガー・スキル”無敵うんこ漏らし”で次々と蹴散らしていったが、ふつうの戦士どもはかなり苦戦していた。
やはりヤツの直属部隊だったのだろう。
単体でも手強く、しかも連携を取るから、人間サイドはかなりの苦戦を強いられた。
結局おれのスキルでほとんどの魔物を殲滅した。
強敵との戦いでは、人間の知恵と経験はほとんど役に立たず、死者は千人以上にのぼった。
目測で、四、五千の魔物を葬ったとのことだが、キレジィの情報が正しければあと五千はゲーリィの魔物が控えている。
決していい結果とは言えない。
それに、最大の痛手は、ゲーリィを逃してしまったことだ。
戦士どもはおれの無双っぷりを見て大いに沸き立った。
これなら魔王を倒せる、魔物どもを駆逐できると勝った気になって、スキルの切れたおれを胴上げしたり、握手を求めてきたが、おれはこころから浮かれることはできなかった。
大量の笑顔にまとわりつかれながら、どうしても苦味が消えなかった。
……あたりまえだよな。だって、大切なひとが死んじまったんだから。
おれは歓喜の集団を振り切り、キレジィの遺体へと走った。
いまからなにかできるわけじゃねえ。
死んだ人間は決してよみがえらねえ。
けど、そうせずにいられなかった。
青い血が草を染めていた。
剣はのけられ、やすらかに眠る彼女を、カレーノやオンジー、そしてオーンスイの勇者たちが取り囲み、鼻水をすする音がじくじく響いていた。
そこに、一騎の騎馬が走り込んだ。
元々荒馬であろうそいつは、騎手の手綱さばきにより、一層猛々しく突っ込んできた。
そして、それよりも猛々しいはずの女が、静かに下馬した。
そいつはガクガク震える足をたどたどしく前に出し、キレジィに歩み寄った。
「バカ者が……」
女王は睨むような目で言った。
だが、声が震えていた。
「明日はお茶会だと、約束しただろうが……」
崩れるようにしゃがみ、キレジィの体に触れた。
眠った顔を覗き込んだ。
その瞬間、気丈な貌がぐしゃぐしゃに歪み、
「ばっ……バカも……わあああーーーーッ!」
キレジィの体を抱きかかえるように突っ伏し、哭いた。
猛獣が悲鳴を上げるような声で泣き叫んだ。
それにつられてみんなも泣いた。
おれは静かに目をつぶり、瞳の奥から流れ出す熱い涙をそのままに、ただただ立ちすくんだ。
その晩、死者の弔いが行われた。
毎度、戦いの晩は弔いがある。
千人の葬送は大々的に、そしてしめやかに終わった。
それとは別に、おれたちだけの弔いがあった。
城の中庭、ほどよく樹々が生え、草や花が彩り豊かに茂る、おだやかであたたかな空間に、女王さんとオーンスイ勇者が集められた。
そこに、ひとつの棺がある。
ブラック・ドッグのクロが尻尾を垂らし、中を覗いていた。
死者は世にも美しい、青肌の美女だった。
白いドレスを着ていた。
へそ上あたりで重ねた手には、紅茶の入ったティーカップが添えられていた。
棺の隣には、きらびやかな丸テーブルと、三っつの椅子、そしてティーセットと、いくつかの菓子が並んでいた。
おれみたいなボロボロの服を着た男には不似合いな景色だ。
そんな中、花を持ったカレーノが、棺の傍に立った。
「……どう、似合うかしら」
カレーノは真っ赤なドレスを着ていた。
薔薇のようにひらひらと広がるスカートは、絵本に出てくる貴女を思わせた。
「あはは、ちょっと見え張っちゃったかもね。わたしみたいな女が、こんな派手なの着ちゃって、ちょっぴり恥ずかしいかも。でも、せっかくのお茶会だもの。目いっぱいおしゃれしたいじゃない?」
そう、お茶会だ。三人はいま、お茶会をしている。
真っ白なドレスを着込んだキレジィ、赤いドレスのカレーノ、そして静かに佇む女王さんは、黒い上品なドレスを着ていた。
もっとも、そこに花の咲くような笑いはない。
「……ねえ、見てる? 紅茶はおいしい? お話はたくさんあるわよ。恋の話も、王子様の話も、わたし、たくさん用意してきたの。いくらだってお話できるわ。だって、ずっとたのしみにしてたから。あなたと、女王様と、きれいに着飾って、三人きりでお姫様みたいにお上品にしてさ……あはは、こんなご時世に贅沢よね。でも……でも……」
カレーノはふんわりとした笑顔で話していた。
しかし、じわじわと眉が下がり、歯を噛み締めるように口元が震え、とうとう……
「生きたあなたとお話したかった!」
ぽろぽろと涙があふれた。
手から花がこぼれ落ち、口元を覆って、ううっ、と声を漏らした。
それでまた、みんな泣いた。
わあわあと、ひっくひっくと、城の壁で囲われた小さな夜空に声を溶かした。
ただひとり、キレジィだけが微笑んでいた。
きれいなドレスと紅茶をたずさえ、星々のまたたきのような静かな笑みで眠っていた。
それはまるで、しあわせな夢を見ているような、そんな寝顔だった。




