35 天のさだめ
おれは大地へと転がり落ちた。
全身を打ちつけたはずだが、わずかの痛みもなく、どこにも怪我はなかった。
背後には灰色のかたまりがあった。
巨大な魔物ごと死の色に染まった魔族ヴィチグンが、魔物の背で倒れ込み、苦痛のあえぎを漏らしていた。
「あがががっ……」
「けっ……もう話すこともできねえか」
おれは振り返らなかった。その必要もないと思った。
「てめえはおれに最期の言葉を訊いていたな」
「あ……ごご……」
「だが、てめえのような悪党には、そのひとことの権利さえねえ! 黙って地獄に行け!」
「おご……おご……ご……」
ヤツはなにか言おうとして、声が消えた。
しゃあっと灰が積もる音がした。
魔族ヴィチグンは滅びた。
途端、
「ガオオッ……」
魔物どもが崩れ落ちた。
それだけで地震か起きたかと思うような、十五万の総崩れだ。
さすがのおれも一瞬驚いたぜ。
「ヤツのコントロールから解放されたのか……」
おれはふう、とため息をついた。なんか知らねえが安心したぜ。
だって、いやじゃねえか。たとえ敵だろうと、だれかが苦しんでるのを見るのは好きじゃねえ。
もちろんかかって来たら殺すけどよ。でも、こいつらはいま、戦える状態じゃねえ。
相当つらかっただろうよ。
「さて、戻るとするか」
おれはナーガスに向かった。
触れると殺しちまうから気ィ使ったぜ。
なんせそこらじゅうで魔物がへばってひいひい舌垂らしてんだ。
本来なら殺すべきなんだろうけど、ま、いいじゃねえか。
けどナーガス兵はそう思っていなかった。
「殺せー! いまのうちだー!」
「あいつら……!」
おれはその殺戮劇をまのあたりにして、血の気が引いた。
まるで自分の身を切り刻まれるようなショックを受けた。
だって、相手は無抵抗なんだぞ! 相手は苦しんでるんだぞ!
「やめろおーーッ!」
おれは世界を突き抜けるほどの大声で怒鳴った。
「バカやろおーーッ! いますぐ殺すのをやめやがれえーーッ!」
おれの声を聞いたヤツらは、ぎょっとして動きを止めた。
なにか気に入らないものでも見るような目でいぶかしみ、不審な空気を漂わせた。
おれは全力で走り、みんなの前までたどり着いた。
ちょうどそのあたりで、おれの体から虹色の光が消えた。
「やめろ! 殺すな!」
「なにを言ってるんだ」
「いいから殺すなっつってんだよ!」
そこに、女王ヒットリーミの馬が、おれに立ちはだかるように土を蹴り上げ飛び込んできた。
「ベンデル! きさまどういうつもりだ!」
「こいつらは操られていたんだ!」
「なに?」
「魔族には魔物を操る力がある! あいつは、飲まず食わずの長旅で疲れ果てた魔物どもをコントロールし、無理やり戦わせてやがったんだ!」
「それで……なぜ殺すなと」
「想像しただけで地獄だぜ! のどもカラカラ、腹もスッカラカン、手足も疲れ切ってるってのに動かなきゃならねえなんてよ! 苦しいだろうよ! つれえだろうよ! そんな、地獄を味わったヤツらだぜ! 殺すことねえだろうが!」
「……」
女王はやや沈黙し、まぶたを薄く閉じた。
「きさまの言いたいことは、まあ理解できる。だがこいつらは魔物だ。生かしておけば、いずれひとを襲う。ならここで全滅させておくのが正解だろう」
正解だろう……か。
そうだろうな。正解だろうな。
だけどよ!
「ざけんなクソババア!」
「バっ……!?」
「てめえには、こころってもんがねえのか!」
「……」
「おれにはできねえ! こんなつらい思いをしたヤツらを、正解だ間違いだなんて理屈でぶっ殺すなんてできねえ! ましてや無抵抗なんだぞ! それが人間のすることかよ! てめえらは鬼かよ!」
「だが……」
「だがじゃねえ! もしこいつらを殺すってんなら、おれが守る!」
おれは剣を抜き、切っ先を女王のツラに向けた。
周囲からどよめきが起き、ガチャガチャと剣を構える音がした。
「ぜってえにさせねえ! 文句があんならおれをぶっ殺してみろ!」
「きさま……」
女王はそう言ったきり黙り込んだ。
がしゃがしゃと兵士の集まる音がおれを囲っていく。
魔物どもの苦しげな息遣いが背中で響く。
強い風が吹いた。
遠い空からすーっと雲が流れ込み、太陽を隠した。
世界が夜のような影に沈み、嵐の気配が強くにおった。
その不穏な空の下で、おれと女王は炎のような眼差しを、呼吸の揺れさえ感じねえほど静かにぶつけ合った。
血よりも熱く、殺意よりも冷たい緊張が、空気を満たした。
そこに、
「ベンデルやめて!」
兵士どもの合間を縫ってカレーノが飛び出し、おれの肩をつかんだ。
「なに考えてるの! ここで魔物たちを倒さないと、みんな死んじゃうわよ!」
「死なねえッ!」
「えっ?」
「そうはならねえッ!」
「どうしてそんなこと言えるの! 相手は魔物よ! 人類の敵よ! いまは倒れてぜえぜえ言ってるけど、復活したら絶対襲いかかってくるわよ!」
「そんときゃおれが倒す!」
「バカ言わないで!」
「バカでけっこう! 襲ってくるならおれがすべてぶち殺す! だがおれは、無抵抗で動けねえヤツを殺すなんて許さねえ!」
「ベンデル……」
カレーノは一歩退き、揺れる瞳でおれを見つめた。
そうだ。バカでけっこうだ。
おれだってバカ言ってんのはよーくわかってる。
でも引き退れねえんだ!
だれかが苦しむのを見るのがクソでえきらいなんだ!
相手がなんだろうとよお!
「落ち着け、そう熱くなるな」
「熱くならねえわけがねえだろ!」
おれは全身燃えていた。
怒りの熱で内部が真っ赤になっていた。
やっとこいつらは解放されたんだ。
いのちを、こころを、取り戻したんだ。
それを、惨殺なんてさせねえ!
おれは微動だにせず、剣を持つ腕を伸ばしていた。
その、おれの熱くなった肌に、ぽつりと雨粒が落ちた。
ぽつ、ぽつ、と小雨が降りはじめた。
かと思うと、数秒後には、一気に本格的な雨へと変わった。
ざあざあと、雨が降る。
だが、おれは動かない。女王も動かない。
降り注ぐ雨音の中、おれと女王の対峙は続いていた。
——が、
「見ろ、ベンデル」
女王が呆れるように力を抜き、おれの背後を遠く眺めた。
「魔物どもが雨水を飲んでいる」
振り返ると、地べたに這いつくばる魔物どもが口を開け、舌を出していた。
「脱水状態で倒れていたなら、これで復活するだろう」
「……」
「なに、きさまのせいではない。そもそもが間に合わない運命だった。たとえきさまに止められず、殺し回っていたとしても、この数では仕留め切れなかっただろう」
「……」
「天が決めたことなら仕方あるまい」
女王はふと空を仰ぎ、目を細めた。
「こんな天気は見たことがない。この時期、これほど急に曇り、雨が降るなど、ナーガスではまずないことだ。それがほかでもない、いまこのときに起こるなど、もはや天が決めたとしか思えん。……元より勝ち目の薄い戦いだ。ならば天のさだめに従い、その身委ねるしかあるまい」
それは半ばあきらめ、半ば覚悟の言葉だった。
それを聞いた兵士どもは、途方に暮れるように脱力し、雨に打たれるままになった。
おれは剣を降ろし、魔物どもを見渡した。
雨はざあざあと音を立てて降り注いでいる。
だが存外早く雨はやんだ。
十分も降らないうちに雲が風に流され、どこぞへと消えていった。
あとには輝かしい太陽と青空が残り、小鳥のさえずるような涼しげな風が吹いた。
ゆっくりと、魔物どもが立ち上がった。
ナーガス兵どもは再び円形を組み、息をのむように剣槍を構えた。
おれはその円の外にいた。
剣は鞘に収めてある。
不思議だった。
おれはこいつらが襲ってこないという確信があった。
理由はわからねえ。
だが、こいつらはもう戦うつもりがねえ。
魔物どもがおれをじっと見つめた。
おれは黙って視線を返した。
すると、
「ぐるるる……」
本当にそうなった!
おれの願いが通じたのか、それとも別の理由があったのかはわからねえ。
けど、あいつらは敵意のねえ鳴き声をおれに向け、うしろを向いて立ち去っていった!
「おめえら……」
おれは泣きそうになっちまった。
だって、こんなことあると思うかよ。
そりゃそうなってほしいたァ思ってたけどよ。
でもなんか、助けてよかったなあって思ったぜ。
おれの背後から、兵士どもの気の抜けた声と、崩れ落ちる音がした。
だろうなあ。死ぬか生きるかの際だったもんなあ。
いやあ、おれもよく止めたよ。
こうなったからよかったけど、元気になって攻撃されたらやばかったもんなあ。
おれはホッと胸を撫で下ろした。
なんにしても無事終わってよかった。
そんなことを思っていると、
「すごいわ、ベンデル!」
カレーノが泣きそうな笑顔で駆け寄ってきた。
「あなたの言う通り、本当にだれも死なずに済んだわ!」
そう言ってこいつはおれの手を握り、ブンブン上下に振った。
おいおい、興奮しすぎだぜ。
そんなに強く握っちゃってよお。うれしくなっちまうじゃねえか。
「それにしても、どうして魔物は襲ってこなかったのかしら!」
たぶん……気持ちが伝わったんだろうなあ。
助けてえって気持ちがよ。
「ねえ、あなたいったいどんな魔法を使ったの!?」
「魔法?」
魔法ねえ……
よーし、ここはひとつ、かっこよく締めるか!
「そりゃあ、愛の魔法ってヤツさ!」
「あ、あいのまほう……?」
ふふっ、とカレーノから笑みがこぼれた。かと思うと、
「あはははっ! なにそれ、だっさーい!」
「えっ!?」
「愛の魔法って、なによそれ〜! それにあなた、土で汚した顔が雨でぐしゃぐしゃになって、そんなんで格好つけて、おっかしーい!」
「ああっ!」
そ、そういやおれ、顔が真っ黒なんだった!
ひえー! こんなんでかっこつけちゃって、おれ……おれ……かっこわりいー!




