30 空腹はスパイス
空は晴天だった。
お日様を隠す雲はほとんどなく、風もゆるやかで、動くとやや汗が肌に滲んだ。
おれたちは、ナーガス兵二千人とともに、外壁の周りをぐるっと囲み、視線を外に向けていた。
その先には、無尽蔵とも思える大量の魔物。
人間二千に対しておよそ三万匹という大質量が、ゆっくりと大地を踏み鳴らし、覆い迫ってくる。
「十五倍か……」
オンジーのひたいから、つうっと汗の雫がこぼれた。
そうか、十五倍か。十五倍っつうと……たくさんだな。いっぱいいるもんな。
「こんなのを三十人で相手しようとしてたなんて、わたしたちどうかしてたわ」
カレーノは槍を旗のように立て、薄く閉じた目で遠くを見ていた。
声が明らかに沈んでいる。
後悔してるんだろう。どう考えても、この人数じゃ勝ち目はねえ。
思えば、あのとき酒場でついて来なかった勇者どもはマトモだった。
机上の空論とはよく言ったもので、この作戦ならいけると踏んでも、それは実際に大軍をまのあたりにしてねえからそう思えるだけで、現実に敵の姿を見たら、根っこから間違ってたことがはっきりわかっちまった。
おれたちゃどうかしてたよ。
おれたちオーンスイの勇者は北東の一角に集まっていた。
「少数で魔王を倒そうなどと考えるくらいだ。よほど腕に自信があるんだろう。スキル持ちもいるようだしな。なら最も層の厚い場所に陣取れ」
そんな女王さんの提案——もとい命令に従って、ここにいる。
ま、酒と菓子をもらったし、それくれえゆーこと聞いてやんねえとな。
それに女王さんもこのエリアにいることだしよ。
少しうしろの方だが、指揮の旗と銅鑼を腰に差して、馬上に構えている。
ほかにも十人ほどおなじ装備の騎馬がいて、方々に散らばっている。
そう、ナーガスには馬がいるんだ。
魔物がはびこって、ふつうの動物がほとんど滅んじまったこのご時世に、むかしながらの馬を数十匹飼っている。
絵でしか見たことねえ本物の馬だ。
こりゃあいろいろと期待できそうだぜ。
なにせナーガス軍は、勇者なんて荒くれ者の集まりじゃなくて、規律ある、統率された軍隊だ。
魔物との戦い方を知っているのはもちろん、指揮者の合図に従ってさまざまな陣形を描くという。
二千人がチームワークできるなんてすげえことだぜ。
「うまくやれるかな」
オンジーはずいぶん不安がっていた。
おいおい、いまさらなにを心配してやがる。ほかの勇者どもを見ろ。みんな目ェギラギラさせて、薄ら笑い浮かべてるヤツもいんぞ。カレーノだって強い目だ。
合図を知らねえおれたちは、おのおのの判断で動いてくれって言われている。
ならオーンスイ勇者の強さを見せてやろうぜ。
でけえ図体して弱気になってんじゃねえ。
ほら、そろそろ戦闘領域だぜ。
視界一面の魔物どもが、とうとう距離数百メートルまで押し迫って来た。
ひと型、獣タイプ、大型、小型、飛翔タイプ、ありとあらゆる種類の魔物が地平を塞ぎ、輪を狭めていく。
それが、ビタリと止まった。
まだ直近じゃねえ、だが遠すぎもしない、叫べば言葉が伝わるほどのところで、一斉に足を止めた。
騒がしい静寂が訪れた。
土を踏む音が消えた代わりに、はあ、はあ、という息遣いが大量に重なって、空気を揺らしている。
まだ遠いはずなのに、舌を出して呼吸するヤツらの吐息が、地鳴りのように小さく轟いている。
へっ、震えてくるぜ。
この震えが武者震いなのか、恐怖なのか、よくわからねえ。
周りの兵士どももおなじ気持ちなのか、そこらじゅうからガチガチと金属の小さく当たる音が響いてくる。
やれんのか? 本当にこれ、勝てんのか?
「ねえ、ベンデル……」
カレーノがずいぶんとしおらしい声で話しかけてきた。
こんなときになんだ?
「わたし……怖い」
「カレーノ……」
カレーノも震えていた。
気づけば顔がはっきりと怯えに染まっていた。
身のこなしから力強さが消え、可憐な少女のそれになっていた。
……そりゃそうだよなあ。女のくせによくこんなとこまで出張ってきたもんだぜ。
本来なら奥に引っ込んでお祈りしたり、泣く子をよしよしあやしてるはずだろ。
それが、土埃舞い、剣槍立ち並び、死ぬか殺すかのクソ戦場に立ってんだ。
素直に賞賛するぜ。
すぐにビンタするクセはいただけねえけどな。
「なあに、勝てるさ」
おれは嘘を言った。
勝てるかどうかなんてわからねえ。いや、むしろ敗色濃厚だ。
どれだけ人間に知恵と技術があろうと、数の暴力には敵わねえ。
まともにやりゃ、一網打尽だろう。
けど、ここで萎縮するわけにはいかねえ。
気が落ち込めば、それだけ鈍る。
攻めなきゃならねえところで腕が前に出なけりゃ、その分敵が腕を伸ばす。
だが、カレーノの震えは止まらなかった。
目をつぶり、見えないなにかに押し潰されるのを耐えるように、肩をすぼめていた。
こいつだけじゃねえ。オーンスイ勇者はバカだから、へらへら笑っているが、真人間のナーガス兵どもは現実との直面で縮み上がっていた。
鎧の当たる金属音に混じって、歯を噛み鳴らす音がガチガチと響いてやがる。
ちっ、しょうがねえなあ。
「あーあ、腹減ったな」
おれはカレーノの肩に手を置き、すっとぼけた。
「へっ?」
「あ〜、肉が食いてえなあ〜。あぶらたっぷりで塩の効いたヤツがよお。それか煮込みシチューもいいねえ。あれにパンをつけて食うとこれがまたうめえ。ソーセージにマスタードとトマトソース垂らしてかぶりつくのもいいな。ちっと苦えりんご酒で流し込んでよ。やわらかいハンバーグを肉汁こぼしながらほおばって、こんどは甘いぶどう酒で合わせて、でもやっぱ、しっかり歯ごたえのあるステーキが一番だよなあ。ブ厚いのをゴリゴリ切って、口ン中でたっぷり味わってよお。そんでウィスキーをくいっとやんだ。おー、たまんねえなあ!」
「なに言ってるのよ。一時間前に食べたばかりじゃない」
「一時間前だろうが百年前だろうが腹が減ったんだよ〜」
おれは口元から垂れるよだれをぐいっと拭った。ああ、マジで腹減ってきやがる。
「おい、バカやろう!」
おれの話を聞いて、オーンスイ勇者たちがぎゃーぎゃー騒いだ。
「食い意地張ったクソ漏らしが! てめえのせいで腹減っちまったじゃねえか!」
「ああー! 肉が食いてえー!」
「小鳥の肉を骨ごとバリバリ食いてえー!」
「酒ー! 酒ー!」
おーおー、みんなよだれ垂らしてわめいてやがる。
それにすげえ音だ。腹の音がグーグー鳴って、響いてやがる。
へへっ、どうだい。おれのメシ・トークは効くだろう。
食欲がググッと持ち上がって、腹ン中の空洞から欲望の熱気が湧き出して、居ても立ってもいられなくなるだろう。
そいつが叫びになってのどから飛び出し、恐怖なんかかき消しちまうだろう。
その効果を立証するように、ナーガスのしみったれどもの顔つきが変わった。
ゴクリと唾を飲み込む。
むむっと口を横に広げ、よだれを垂らす。
困ったような、悲しむような目になって、叫ぶように舌を見せる。
ピシッとした姿勢が、内部の熱でじわじわ広がる。
——頃合いだな。
「おーい、女王さんよおー!」
おれは後方にたたずむヒットリーミ女王に言った。
「これが終わったら酒と肉をたらふく食わせてくれんだろうなー!?」
「なにィー!?」
女王は怒るような目でおれを睨んだ。しかし、
「バカ者ー! わたしが約束を破るような不埒者に見えるか! 食え! 好きなだけ飲め!」
「みんな! 聞いたかーー!」
おれは歓喜の声を上げた。
「あのクソ魔物どもをぶち殺しゃあ、酒も、肉も、食い放題、飲み放題だ! いっちょやったろうじゃねーかーー!」
それを聞いた勇者どもは、荒くれ者特有の下品な笑顔で、
「うおおー! やろうぜクソどもー! ナーガスの食いもんがなくなるまで食いまくってやらあーーッ!」
剣を振り上げ、わあわあわめき散らした。
すると、その熱波に触れたナーガス兵どもも、
「バカ言うなー! おれたちもたらふく食うぞーー! 田舎者に遅れを取るんじゃないぞーー!」
おおー! と得物を掲げ、高らかに叫んだ。
よし、顔色がいい。欲望にまみれてやがる。
恐怖が消えたわけじゃねえが、それよりも強い活気がみなぎってやがる。
「こ、こんなときにバカじゃないの!?」
バカ騒ぎの中、カレーノは真っ赤になって呆れていた。
どうやら地元の仲間が食い意地張るとこ見せて恥ずかしいらしい。
でもよお、
「なあカレーノ。おめえはなにが食いたい?」
「はあ?」
「これが終わったら女王さんがいっぱい食わせてくれるってよ。おめえはなにが食いてえんだ?」
そう訊いた途端、カレーノの腹の虫が鳴いた。
口元にほんのりよだれが見える。
なーんだ、おめえも食いしん坊じゃねえか。
恥ずかしそうにもじもじして、くちびるモニョモニョさせてよお。
ほれ、言ってみろ。
「け、ケーキ……」
「はあ? 小さくて聞こえねえなあ」
「ケーキが食べたい……かも」
「かもじゃねえよ。食いてえんだろ? あらかじめ女王さんに聞かせとかねえと用意してもらえねえぞ?」
「えっ、そんな……」
おれは剣を掲げ、叫んだ。
「肉だー! おれは肉が食いてえーーッ!」
お、聞こえたな。女王さん笑ってやがる。
おめえもやるんだよ、ほら!
「わ……わたしはケーキ!」
「もっとでけえ声で!」
「け……ケーキが食べたーーい!」
カレーノは槍を高く持ち上げ、でっかく叫んだ。
「ケーキとクッキー! カステラ! プリン! タルト! フルーツジュース! それと、それと……とにかく甘いものいっぱーーい!」
だははは! なんだそりゃ!
おめえ真面目なツラしてけっこう欲張りだな!
女王さんも腹抱えて笑ってらあ。
でも、よかったな。
「いいぞーーッ! 好きなだけ食わせてやるーーッ!」
やったぜカレーノ! 今夜はパーティーだ!
「あはははっ。なにこれ、バカみたい!」
そうだよ、バカだよ。大バカだよ。
でもいいじゃねえか。
おれも、おまえも、超笑顔だ。
いいかい、人間ってのは希望があるから生きていけんだ。
今夜うめえもんが食えると思うからがんばれんだ。
まっすぐだろうが、曲がっていようが、バカになるほど前のめりになりゃ、とんでもねえ勇気が湧き上がるんだ。
となりゃあ震えてる場合じゃねーだろ。
こんなクソ魔物ども、ばばっとやっつけちまって、ガーっと豪勢な晩飯を食わせてもらおうぜ!




