モクバの到着
朝食を食べ終わってからしばらく邸宅の中を散歩したり本を読んだり、気ままに過ごしているうちにいつの間にやら昼に近い時間になっていた。
太陽は空高く昇り、煌々と輝いていた。
「お嬢様、弟君を乗せた馬車が到着いたしました」
エミリア付きの侍女であるハエルが言った。
「ついにこの日がやってきたか…」とエミリアは思い、読んでいた本を閉じた。
記憶を思い出してからまた1週間も経っていない。徐々に思い出しているとはいえ、エミリアは不安を感じていた。
…エミリアの記憶ではモクバがやってきた当日エミリアは早速彼を糾弾する。
平民の服を着たモクバを”みすぼらしい恰好”だと声高く言い放ち、自分の弟にふさわしくないから家に入れるなとエミリアが駄々をこねるのだ。
その後改めて食事の場が設けられるのだが、やってきてすぐの糾弾もあってモクバは食事のパンを落としたり、スープをこぼしたりと粗相をしてしまいそれすらも大きな声で責める。
4歳児とは思えない狡猾で嫌味な少女。賢いがゆえに相手の最も苦しむ言動をとれる。原作のエミリアはひどく賢く、幼いころのモクバとの出会いをきっかけに成長するにつれてどんどんと悪に染まってしまってしまったのだ。
「…今行くわ」
そうはなりたくない。
エミリアは自分の胸に手を置き何度も深呼吸をした。
数日前までの自分は確かに、多少なりともモクバへの嫌悪感があった。生まれてたった4年とはいえ、「将来当主になる」と言い聞かされて育ったのだ。外から来たぽっと出の少年に、自分の存在意義を奪われたと感じてもおかしくはない。
しかし、自分はもう数日前のエミリアじゃない。
何度も何度も自分に「大丈夫」だと言い聞かせ、エミリアは歩き出した。
「ハエル、手をつないでくれる?」
エミリアがそういって手を差し出すと、ハエルは少し驚いたような表情になったがすぐ微笑み手を握った。
「どんな子かしら」
部屋を出てそう言ったが、ハエルは答えなかった。
廊下にはたくさんのメイドたちがいて、こちらを見ている。みんな少し心配そうに、
***
玄関ホールへ到着すると、10名は超えるであろう使用人がずらりと並んでいた。
ホール奥にある大きな階段の上からエミリアが見下ろしていると、ホールの中心に立つ父と母がエミリアを見上げ微笑んだ。
「エミリア、こちらへ来なさい」
父がそういい、エミリアに向けて両手を伸ばす。
エミリアはハエルの手を放し、ハエルを見て小さく「ありがとう」と伝え、階段を降りた。本来、貴族の令嬢が使用人にお礼を言うのはよくない、らしいんだけど何がよくないのか未だに理解ができない。
そして、父の両手の傍に立つと優しく持ち上げられ視界が高くなった。
しばらくすると重そうな玄関扉が開く。そこには若いメイドに手を引かれた子どもが1人。
気分の重そうな足取りで邸宅に入ってきた3歳の男の子は困惑したように周りを見回している。今まで住んでいた場所とは空気も雰囲気も何もかも違うだろう。不安になったのかメイドの手を両手で握り後ろに引いた。
「坊ちゃま、お父様とお母様ですよ」
優しそうな若いメイドは男の子に話しかけた。
その言葉を聞いてか、男の子は視線を上げて私たちを捉えたようだった。
しばらくの沈黙が続いた後、男の子はメイドの後ろに隠れ「帰りたい」と漏らした。
自分が数日前までのエミリアのままであったならきっと今怒りの頂点に達しただろうと思った。
受け入れよう受け入れようと幼いエミリアが自分に言い聞かせていたとしても、いざ我が家にやってきて顔を見て自分の居場所を奪う予定の自分よりも小さな子どもが開口一番「帰りたい」等と言ったら…。想像に難くない。というか、読んだ。
このシーンでしばらくの沈黙の後、エミリアがモクバを糾弾する。
普段から品行方正でまじめなエミリアが人が変わったようにモクバを責める姿を大人たちは止めることもできず傍観するのだ。
今思えばたった4歳の子どもが自分よりも小さな子どもを糾弾しているのなら周りが止めろ、と思うのだが普段感情を表にださない少女が突然感情をむき出しにて怒ったのだ。
面食らうか、どうしたらいいかわからなく、なってしまったのだろう。
…しかし、今のエミリアは4歳+ほぼ成人した大人程度の年齢…であるので全く怒りのような感情は沸いてこない。
何ならかわいいとさえ思ってしまう。あっぱれ、精神年齢大人。
まだ3歳のモクバ。
紺色で艶のある髪に宝石のように青い瞳。3歳ながらにすでに容姿が出来上がっている。
絶対的に将来美男子になることを予見させる顔立ちだ。
小さくやせて細い身体に、汚れた布切れのような洋服もののこれだけ美しいのだからもう少し太って衣服を整えたらどうなってしまうのだろう。
潤んだ瞳のままモクバはその場にへたり込みそうになっている。つれてきたメイドは父や母の顔色をうかがいながらモクバを立たせようと必死に声をかけている。
周りの使用人たちもどうしたらいいのか困惑の表情のまま固まっている。
「あらあら…、いらっしゃい」
優しい声色が邸宅に響く。母、アルトゥヌの声だった。
「みんなみんな、貴方が来るのを待っていたのよ」
そう続けたアルトゥヌは自らモクバのもとへとゆったりと歩みより、彼を優しく抱き上げた。
本来であれば”来客”側であるモクバが両親二人の前へ歩み、礼をするのが礼儀だ。3歳とは言え教えられてここに来ていることだろう。
「奥様…!お召し物が汚れてしまいます…!」
モクバを連れていたメイドが慌ててモクバをアルトゥヌから引き離そうと手を伸ばす。たしかに、モクバの衣服は薄汚れていた。いつ洗ったのが最後なのだろうと疑問に感じるほど服は黄ばみ、黒いすすまでくっついていた。
「いいの、…汚くなんてないわ」
そう言ってアルトゥヌはモクバを抱きかかえたまま私と父のもとへ戻ってきた。
必然的にモクバの目線がエミリアの頭一つ分ほど低い位置に来る。
「この子はエミリア、貴方のお姉さまよ」
アルトゥヌ言い、その言葉を一緒にモクバはエミリアを見た。
真っ青な空のように澄んだ瞳がエミリアを見る。
「…いらっしゃい。みんな、貴方を待っていたわ」
じっと見つめあうエミリアとモクバの様子を見て、くすくすとアルトゥヌは笑うと父に寄り添ってそう言った。これまた必然的にエミリアとモクバも寄り添いあうこととなり、エミリアはとりあえずモクバに微笑みかけた。