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覚醒の黄昏

 章は新プロジェクトのメンバーとして、営業2課から出向した。

 別フロアの部屋に移動してしまったため、咲子が章に毎日会うことはできなくなった。

 そのための切なさは、章に対する確かな恋心を示していた。

 忍と離婚せねばならない・・その覚悟をし始めていた。

 そんな折、咲子は営業部長からランチに誘われた。

 どういう風の吹き回しだろう、と不思議に思っていたが、言われるまま最上階の役員専用レストランにお供した。

 いつものランチの6〜7倍はするような値段のランチセットをご馳走してもらう。周囲は社内報でしか見たことがないようなお偉いさんばかりで、緊張せずにいられない。咲子はミス丸の内に選ばれたこともあり、有名人ではある。だが、もう年も重ねたし、注目の的からは完全に一線を退いていた。

 他愛もない四方山話をしながら一通り食べ終わり、食後のコーヒーを飲んでいるときに部長は本題に入った。

「緑川君は、松谷君夫婦の仲人だったよね。」

 話は、そう切り出された。

「・・そうです。」

「実は今、松谷君に縁談が持ち上がっているのを知っているだろうか。」

 咲子はカップを置き、頷いた。

「中川精密機器工業の社長令嬢とのことでしょうか。」

「そうだ。今回の仲介役は、私なんだよ。」

「先日祐善から聞きました。二人の出会いの場にいらっしゃったのは、部長でしたものね。」

「そう。君はあの時、不安を口にしていたが・・・実際のところは、どうなんだろう?」

「実際のところ、と申しますと?」

「江梨花さんが似ているから、という理由だけで付き合う気持ちになったんだろうか。」

「・・・それは・・。」

「一度はね、きっぱり断ったんだよ。だが、最近になって突然付き合うと言い出してね。とりあえず昨日の夜、君のご主人を酒につき合わせて話を聞いたんだが、何も聞いていないかい?」

「・・・ええ、まあ。」

「そうか。だいぶ遅くになってしまったからね。すまなかった。」

「とんでもございません。お気になさらないでください。」

 家に帰っても、顔をあわせることを互いに避けている。忍は毎晩外で食事をしたり、酒を飲んで深夜に帰宅する。朝は、食事の用意だけすませた咲子が忍より1時間以上早く家を出てしまう。同じ屋根の下に暮らしていても、1週間以上顔をあわせないことが可能だと初めて知った。

 咲子はテーブルの上で、両手の指を軽く絡ませた。

「私も主人も、松谷係長の幸せだけが望みです。美珂が亡くなって、9ヶ月。・・・妻の死に気が狂ってしまうほどの人が、そう簡単に他のひとを愛せるとは、私には思えません。」

「そう・・か。だが、君のご主人はこう言った。『それで寂しさが紛れるのならいいのではないか』と。」

「それは男の意見ですわ。女は・・・違います。」

「では、松谷君に一生独りで通せと言うのかい?」

「そんなことは思っていません。いつかは、と思っています。でも、江梨花さんのことは、まやかしだとしか思えないんです。それは、我慢できません。」

「それは、松谷君の奥さんのために?それとも、松谷君自身のために?」

「二人のためにです。部長だって係長の行動に合点がいかないから、私達夫婦に話を聞こうと思われたのでしょう?」

「そうだ。しかし君に言えるかね?松谷君に対して、『その女は美珂さんじゃない、目を覚ませ』と。」

 咲子は口を噤み、やがて静かに首を振った。

「それは・・余計なお世話になってしまうでしょうから。」

「うん・・そうなんだろうね。それに、松谷君はまだ完治したわけではないんだ。」

「新しいプロジェクトに抜擢されて、4月から上海だと聞きました。それは医者のOKも出た、と。」

「完治したからOKというわけではないんだよ。今も週に2回はカウンセリングを受けているし、薬も飲んでいる。江梨花という女性のことも医者に話して、付き合いを進められた・・らしい。」

 咲子は驚いた。

「それは・・無責任すぎますわ。カウンセラーって、何でも前向きに考えさせればいいと思っているのかしら!?係長が江梨花さんの中に美珂の面影だけをひたすらに追いかけていて、ある時現実に気がついたら、そのダメージがどれほど大きいか。」

「だが、そのうち江梨花さん自身を見るようになるかもしれない。」

「では、美珂は?結局捨てられてしまってもいいとおっしゃるんですか。」

「おかしな人だ。君は、松谷君の幸せを望んでいると言った。江梨花さんを選んで幸せになるのなら、喜んであげるべきではないのかね?」

「私はただ・・美珂が可愛そうでならないんです。」

「祐善君の話によれば、美珂さんも松谷君の再婚を願っていたというが?」

「それが・・!それが、男の人の考えだというんです。自分が死んだ後、愛する男が別のひとを愛することを望む女がどこにいるというんです?美珂は理性でそう言っていただけです、本心は嫌に決まっています!」

「ならば、松谷君に一生独りで涙をためて生きていけというのかね?」

「そうです、・・・そうです!」

 咲子は思わず本音が出たことに自分でも戸惑い、息を呑んだ。

 部長は何も言わなかった。

 咲子は、営業部長に自分の秘めた想いが勘付かれてしまったのではないかと不安になった。

 咲子はうつむき、「感情的になってすみませんでした。」と謝った。

 部長は穏やかに微笑み、言った。

「いや。君の言い分も最もだと思うよ。なるほど、男と女の意見の違いはあるだろう。だからこそ私は、夫婦それぞれの意見を聞きたかったのだし。・・・緑川君がどれだけ美珂さんと松谷君のことを考えているか、よくわかった。話を聞けて、良かったよ。」

 優しい言葉に、咲子は少しだけ救われた気がした。

「少し様子を見よう。いずれにせよ、答えを出すのは松谷君だ。私は信じているよ。松谷君が理性を持って、彼の人生にとって最も良い結論を出すと。」

「・・・はい。」

 ランチのお礼を丁重に述べ、咲子は一足先に食堂を出た。

 が、その刹那、咲子のパンプスが止まった。

 すぐ近くのエレベーターから、章が降りてきたのだ。

 プロジェクトの仲間だろうか。いかにも「デキる」感じの男性社員達数人に囲まれている。仕事の話をしながら、章は咲子に少しも気づかずに近づいてくる。

 思いがけず章の姿を久々に目にすることができたことに、咲子は息が詰まりそうだった。

 章をまともに見れずに俯いたものの、全身が章を意識して強張っている。

 食堂の入り口で、章は初めて咲子を見た。

 咲子もまた、顔を上げて章を見た。

 二人は一瞬視線を合わせ、また、すぐに離れた。

 咲子は、まるで中学生のような甘くて苦い疼きに、思わず胸を押さえた。

 だって、ただ一瞬偶然に会えたという事実が、こんなにも咲子の胸をときめかせる。

 罪悪感に苛まれているのに、本心はそれを簡単に裏切る。

 章に独りでいて欲しいという思いは、美珂のためなんかではない。他でもなく、咲子自身のためなのだ。

(私は、ずるい。)

 そう思った。

 美珂の名を語って、嘘の正義を振りかざすなんて。

 なのに尚湧き上がる、この高揚感。

 章に会えただけでこんなに幸せになるなら、これ以上のことがおこったらどうなってしまうのだろう?

(いいえ、・・・いいえ!考えてはいけない、いけないことよ!)

 美珂の死に顔を思い出す。

 美珂の死に様を思い出す。

 それが、咲子を止める唯一の方法だった。

(ああ、それでも、もう・・・!)

 


 忍から咲子に内線電話がかかってきたのは、11月下旬のことだった。

『仕事中すまない。もし会議中ならまずいと思って携帯にかけるのはやめたんだ。』

「大丈夫。・・どうしたの?」

『実は病院から電話がかかってきて。』

「病院?」

『ああ。・・・松谷が倒れたそうだ。』

「な・・・!」

『江梨花さんとのランチの最中だったらしい。章の両親がすぐには行けないいうから、俺が今から行ってみようと思う。咲子はどうする?』

「行くわ。エントランスで待ってればいい?」

『ああ、俺もすぐ行く。』

 咲子は、「江梨花と一緒にいた時に倒れた」ということにひっかかっていた。

 病院に着くと、主治医がちょうど廊下に出てきたところだった。

「松谷は・・?」

「典型的なストレスですね。相当色々ためこんでいたようです。体力も落ちていますし、また入院が必要です。」

「そんな・・。」

 忍は、章の両親が間もなく来る時間のため、ロビーで待機すると言って立ち去った。

 一人残された咲子は、そっと病室に入った。

 個室の窓際のベッドの横にいたのは、江梨花の姿だった。

 それは、美珂に似た女などではなく、間違いなく江梨花という他人の女そのものだった。

 咲子が来たことに気づいた江梨花は軽く会釈をした。蛍光灯の下でよく見ると、目が赤く潤んでいる。かすれた声で、涙ながらに江梨花は訴えた。

「いつもどおり、普通に食事をしていただけなんです。それなのに、突然顔を歪めて頭を抱えたかと思うと、倒れてしまって・・・。私、どうしたらいいのか・・!」

 章の恋人であるというようなその口調と態度は、はっきりと咲子の神経を逆撫でした。

 咲子は自分の中の悪魔の目覚めを、はっきりと感じていた。

 同情を求めるかのような江梨花を、咲子は冷たくあしらった。

「・・・帰ってください。」

「え・・?」

 咲子は、もう止められないほどに感情をむき出しにしないではいられなかった。

「わからないんですか?全ては、あなたが現れたから・・!死んだ妻とそっくりの女が目の前にいたら、嫌でも夢を見てしまいます!そしていつかは現実に気づかざるを得なくて、そのギャップに苦しむんですよ?松谷さんは耐えていたんです。夢と現実の狭間で戦わなくてはならなかったんです!誰のせいだと思ってるんですか!?」

 江梨花は唇を震わせ、うつむいた。

 この前の強気な姿勢は、今の江梨花からは微塵も感じられない。

 泣かせたかもしれない。

 だが、咲子の中の激しい嫉妬はどうにもおさまらなくなっていた。

「さあ、早く。もう二度と私達の前に姿を見せないで!!」

 江梨花は肩を震わせ、うつむいたまま小さく言った。

「すみません・・・もう、ご迷惑かけません・・!」

 江梨花は病室から走り去った。

 それを追うように病室から出た咲子を出迎えたのは、忍の姿だった。

 咲子が何も言えずにいると、忍は歩み寄ってきた。

「大きな声だった。全部廊下まで聞こえてたぞ。」

「・・・。」

「彼女、大泣きしていたし・・な。」

「わかってるわ。」

「どういうつもりなんだ?彼女には何の罪もないのに。」

 咲子は忍を睨み付けた。

「大ありだわ。亡くなった人間にそっくりな女が現れたら不快だろうって、自分で言ってたのよ!?それでも、わざと近づいたわ!」

「でも彼女が美珂さんに似ているのは、彼女のせいじゃないだろう。」

「そんなこと、わかってる。私が言いたいのは、何もかも承知して近づいた態度が許せないってことなのよ!」

「じゃあ彼女は、たまたま松谷の死んだ妻に似ているからっていう理由で、松谷に近づいちゃいけないっていうのか?」

「そうよ!すべては松谷さんのために・・・!!」

 そこまで言って、咲子はハッと冷静になった。

 忍の瞳に灰色の影が落ちたのを見たからだ。

(私は、何を言って・・・。)

「・・・君はただの嫉妬の塊だな。冷静な判断もできないほどに。」

 そして、苦しい笑いを浮かべながら忍は目を伏せた。

「そんなに・・好きなんだな。」

 咲子は何も言えずに、忍の言葉をかみ締めていた。

 どうして忍は、章が倒れたことを咲子に連絡したのか。章に近づいて欲しくないと思うなら連絡などしなければよかったではないか。それとも、忍にはもっと別の思惑があったのだろうか。

 咲子は大きく息を吸い、言った。

「私はただ、力になりたいだけなの。」

「俺たちは結局、松谷に何をしてやれるというんだ?」

「松谷さんが自分の生きる道をみつめていけるまで、支えてあげること・・だと思うわ。」

「俺は今までも散々力になりたいと思ってきた。だけど何一つとして解決できるようなことはできなかった。・・松谷に必要なのは、美珂さんだけだ。今回のことで、それがはっきりした。江梨花さんでも駄目だったし、時間にも・・頼りきれない。」

「・・・ならば、渡して。美珂の手紙を、松谷さんに。」

 忍の腕をつかみたいのを堪えて、咲子は言った。

「美珂はすべて考えていると思う。松谷さんを救えるのは、その手紙しかないわ。今は、もう『その時』だと思う。」

「なおさら、美珂さんを忘れられなくなる可能性もあるぞ。」

「松谷さんが立ち直って生きていかれるなら、それで構わないじゃないの?」

「・・・君は、松谷が好きなんだろう?」

「美珂も好きなの。松谷さんが美珂を忘れられないのが当然よ。私は松谷さんに好かれようなんて思わない。そんなことは全く望んでいない。美珂と松谷さん、二人とも大事なの。・・・それだけなのよ。」

「・・・・わかった。手紙を渡すよ。もう、限界だ。」

 二人は病室に入り、苦しい表情で眠る章を、想いを込めた眼差しで見つめた。

「本当にこの人の心は、美珂で一杯なのね。そうよね・・お互い初めて会ったときからずっと意識しあってた。それからの二人は、いつも一緒だったわ。」

 それは独り言のようであり、また、咲子自身に言い聞かせる言葉でもあった。

「なのに・・もういないのね。本当に美珂は、この世のどこにもいないのね。」

「そうだ。彼女なしで生きていかなくてはならないんだ。俺も、君も、松谷も。」

「優しい季節だったわ・・・。二人がいたのは、あんなにも優しい時間だったわ・・・。」

「ああ、そうだな。」

 忍は咲子の肩を軽くたたいて言った。

「もうじき松谷の両親が入院の手続きを終えてこちらへいらっしゃる。俺はお二人と話があるから残るけど、咲子はどうする?」

「先に帰るわ。・・・食事の用意をして、待っててもいい?」

「いや、遅くなるから先に寝てていい。夕食は外でとっていく。」

「・・・わかったわ。」

 結局忍は、何も許していないのだ。

 それは、そうだろう。

 どんなに穏やかに会話をしたって、咲子が口先で否定したって、咲子の裏切りは確かなのだから。

 亡き親友の夫で、そして夫の親友を愛してしまうなんて、どうかしている。

(幸せになってほしいだけなのに。美珂を亡くしたあの人に立ち直って欲しいだけよ。私の愛は、それ以上でもそれ以下でもないはず・・・なのに。)



 章は、無期限の入院生活に入った。

 現在は、章の母親がつきっきりで看病している。

 この2週間で章はプロジェクトから外され、上海への転勤もなくなった。江梨花との縁談の話もなくなった。こちらのほうは、咲子にも原因があるのだろうが・・。

 話しかけても反応せず、ただベッドで横たわるだけの状態。食事ができないため、点滴で栄養を摂っている。美珂が死んで初めて入院したときよりも、病状は深刻だった。

 咲子は見舞いに行きたい気持ちを、懸命に抑えていた。これ以上、忍の気持ちを荒立てたくなかった。自分自身の勝手な想いなのだから、しかも片想いでも不倫なのだから、こんな気持ちは一日も早く払拭せねばならない。

 そんな咲子の気持ちを知ってか知らずか、忍の方は毎日面会時間ぎりぎりに病院に駆け込み、章を見舞った。

 章の青白く生気を失った顔を見て、忍は思った。

 もし咲子の存在によって、章が生きる力を取り戻せるのならば、自分が身を引くべきなのでは・・と。

 咲子が同情混じりだろうと何だろうと、章を愛しているのは確かだ。

 咲子自身、それを認められない気持ちがあるから、「わからない」とか「違う」とか言うのだろうが、本心はとっくに章の方を向いているのだろう。

 忍は、もし咲子を失っても、章のようにはならない。

 しっかりと前を見据えて、咲子のことを少しずつ思い出に変えて、生きていくに違いない。

 ならば・・・。

 そこまで考えて、忍は拳をぐっと握り締めた。

 それで、いいのか?

 それが、いいことなのか?

(・・・わからない。そうさ、正解のない問題なんだ。だから、誰にも判断ができない。俺だってどうしたらいいか・・わからない。)

 章の眠るベッドの脇で額を抱えて、忍はうなだれた。

 今こそ、章の助言が欲しい。

 章に、どうしたらいいか教えてもらいたい。

 今こそ、支えて欲しい。

 崩れそうだ。

 足元からすべてが、崩れてしまいそうだ。

 章が泣かないから、自分も耐えるのだと言った咲子。

 あの時すでに、咲子の見る先は変わっていたのだ。

 忍は、胸元から美珂の手紙を取り出した。

 宛名である章の名が、震える筆跡で書いてある。

 美珂が亡くなって、間もなく1年になろうとしている。

 年明けの2月10日が美珂の命日だ。

 この1年は、章にとって何だったのだろう。

 苦しんで、もがいて、そして・・・。

 答えが、欲しい。

 その最後の手段が、この手紙なのではないだろうか。

 忍は、意を決した。

 散々待った。

 成り行きを、見守ってきた。

 でも、少しも事態は好転しなかった。

 今こそ、頼る時だ。

 今こそ「その時」だ。


 忍は次の日、章が起きている時間帯に病院を訪れた。

 ベッドで上半身を起こした状態で、虚ろな目で窓の外をながめている章の前に立った。

 そして、大切にしてきた白い封筒を、章の目の前に差し出した。

「・・・なんだと思う?」

 章の唇が僅かに開いた。

 忍は、言った。

「美珂さんからの、手紙だ。」

 ずっと付き添っていた母親が、章の表情の変化に気づいて思わず息を呑んだ。

 今まで何も映すことのなかった瞳に、色を見せたからだ。

 忍は、もう一度言った。

「松谷が今も忘れられないでいる、美珂さんの手紙だよ。」

 章の凍りついたような手が、ぎこちなく、だが、確かに手紙にむかって伸びていった。

 手が届く寸前に、忍は手紙をサッと後ろに隠した。

「読みたいか?」

 章はやつれた頬で、はっきりと忍へ視線を向けた。

「どうだ?彼女は言った、松谷が苦しんでどうしようもなくなったら渡してほしい、と。本当は読んで欲しくないのかもしれない。内容はもちろん、誰にもわからない。読んだら、負けかもしれない。読んで、なお苦しくなるかもしれない。それでも、読みたいか?」

 章は、力強い瞳で忍を見つめた。

「・・・読みたい。」

 章の母親は驚きで胸がしめつけられそうだった。入院して以来初めて聞く、章の声だった。

 忍は、唇をひきしめる。

 章は続けた。

「読みたい。あいつの最後の・・本音を聞きたい。苦しんでいる俺をどう思い、どう考えているか知りたい。負けでいい。・・・もうとっくに、俺は負けている。」

 青白い章の顔に、忍は限界を感じた。

「わかった。ただし一つ、条件がある。」

「・・・何でも言ってくれ。」

「2月10日の美珂さんの命日までに元気になって、仕事に復帰して、一周忌の法要に出ることだ。」

「・・・。」

「精神も身体も完璧に治すんだ。立派に立ち直った姿を美珂さんに見せてやれ。それができないなら、この手紙を読む資格はない。」

 無茶を言っているかもしれない。

 立ち直れないほど弱っているから、手紙を渡そうと思ったのに「手紙を読みたければ元気になれ」とは。

 元気になったら、手紙なんて必要がなくなるかもしれない。

 元気になったのに、手紙を読んだことで再び落ち込んでしまうかもしれない。

だが、これは忍の賭けだった。

 もともと章は理性ある、打たれ強い男だ。ただ深すぎる愛ゆえに、長い間悲しみにおぼれているだけなのだ。

 章は、しっかりと頷いた。

「わかりました。・・・やります。」

 章の母親と忍は思わず顔を見合わせて、喜びの表情を浮かべた。

「奇跡だわ・・いえ、美珂さんの手紙の魔法だわ・・!」

 母親は、涙を流して喜んだ。もうこのまま立ち直れないんじゃないかと思っていたからだ。

 章の変化を、美珂が隣で見つめている気がした。

 とりあえず、章の意識は一歩踏み出したのだ。

 美珂の手紙は、まさに薬だった。

 誰にもつくれない、奇跡の薬だった。


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