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幻惑の昼

 美珂の死から2ヶ月が過ぎた頃、それは突然に起こった。

 仕事の最中に、章が発狂したのである。

 というより、突然立ち上がり、怒鳴ったのだ。

「どうして皆平気でいられるんだ!?俺にはわからない、どうして俺はこんなに冷静にのうのうと生きていられるんだ!?あいつが死んだのに!死んでしまったのに!!」

 自分のデスクで仕事をしていた咲子は、青ざめて章の下に駆け寄った。

「しっかりしてください、係長!」

 章は咲子の両腕をつかんで、顔を覗き込んだ。

「緑川、どうしてお前まで冷静なんだ!?親友だろう!死んでしまったんだぞ!あんなにやせ細って!・・・あんなになって死んでしまったんだ、君だって見ただろう!?」

「見ました!わかっています!苦しいのは、私だって同じです!」

「どこが同じなんだ?緑川は冷静で、俺は気が狂っている!いっそこのまま死んでしまいたいほどに!!」

 騒ぎを聞きつけて駆けつけた忍が、章を後ろから羽交い絞めにした。

「松谷、俺と一緒に来るんだ!」

 課内は騒然としている。忍は営業2課長に頷いてみせ、課長は社員を諌めた。

「さあ、みんな静かに!仕事を続けて。」

 咲子は乱れた髪を軽く撫で、その場にへたりこんだ。

 全然気づかなかった。

 章がまだ、こんなにも苦しんでいたなんて。

 章が理性で感情を押し殺す人間だということを忘れていた。

 平気なわけがなかったのだ。

 すべての感情を押し込めて、平静を装っていただけだったのだ。

 頭の中が混乱した咲子は仕事など全く手につかず、昼休みになると待ちかねたように忍のところへ行った。

「松谷さんは?」

「病院。財布の中の診察券を見つけて、かかりつけのクリニックに連れて行った。精神安定剤を打ってもらって、眠っている。」

「病院の先生は、何て?」

「最初は松谷の家族が無理に受診させていたらしいんだが、ここ1ヶ月、来院しなかったというんだ。医者は、もう立ち直ったんだろうと思っていたようだが・・違ったようだな。」

「松谷さんのご家族には、知らせたの?」

「ああ。すぐにお父様が見えたよ。ろくに寝ず、食べない生活はずっと続いてたんだな。心もだが、身体も衰弱しているから1週間ほど入院が必要らしい。」

「・・・49日が終わって、張りつめていた気が緩んだのかしら。」

「そうかもしれない。・・迂闊だったよ。少し、安心してしまっていた。美珂さんの死から立ち直ったのでは・・なんて。」

 咲子は、次第に自分を襲う黒い影に身震いした。

 それは、今更・・というより、今だからこその「美珂が死んだ」という確かな実感だった。

 忍は、デスクにしまってある美珂の手紙を思い出した。

 白い封筒には、硬く封がしてある。

 中を見てみたい、切にそう思った。

 この手紙で、章がさらに悲しみの底に堕ちていったら元も子もない。

 思慮深い美珂のことだから、章のすべてを察して配慮しているとは思うが、それでもどう影響を及ぼすかわからない。

 忍は「まだその時ではない」と判断し、もう少し様子を見ようと考えた。

 次の日。

 咲子は早めに仕事を終えて章を見舞おうと考え、いつもより早く家を出た。

 8時すぎにはオフィスに着き、営業2課の扉を開ける。

 と、次の瞬間、咲子は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 入院しているはずの章が一人、朝日のまぶしい部屋の中で机に向かっていたからだ。

「係長・・!何なさってるんですか?」

 章は、咲子の方を見もせずに答えた。

「見ればわかるだろう。仕事だ。」

 咲子は、章のデスクの前に立った。

「入院なさったと聞いています。」

「俺は、どこも悪くない。」

「身も心もぼろぼろだって聞きました。何を考えているんですか!?」

「・・それでも俺は、生きている。だから大したことはないんだ。」

 咲子は、章の両肩をつかんだ。

「病気の人にかぎって、自分は大丈夫だ、なんて言うんです!どうせ病院を抜け出したのでしょう?戻ってください。送っていきますから。」

 章は咲子を、冷たい、しかし生気のない目で睨み付けた。

「俺の身体だ。勝手にさせろ。」

「美珂が今のあなたを見たら、どんなに悲しむか・・!」

「悲しむがいいさ。あいつだって、俺を悲しめている!」

「何てひどい・・!あなたは、美珂を愛していたんでしょう?」

「今だって、それは変わらない・・!俺は自分が呪わしい。美珂が死んだのに生きていられる俺は異常だ。このまま死んでしまったほうが、よっぽど正常だと思わないか?」

 パンッ

 咲子は、思わず出た手を宙に浮かせたまま唇を噛んだ。

 唇が震えている。

 でも、言わないではいられない。

「美珂が考えていたのは、いつもあなたのことでした。死んだ後、あなたの苦しむ姿を想像して苦しんでいた。なのにあなたは、自分のことしか考えていない。美珂が望んでいるのは、あなたがあなたの人生を全うすることでしょう?死んでしまったほうがいいとか、そんな弱音を吐かないでください・・・!」

 その時、廊下で速い足音が響いた。

 ドアが音をたてて開き、忍が現れた。

「やっぱり・・!ここだと思った。松谷、すぐ病院へ戻れ。ご家族が心配して、俺に連絡をしてきたんだ。」

 章は、忍から目をそらせた。

「皆して、俺を病人扱いしないでくれ。」

「仕方のない奴だな。最近、アルコールとコーヒーばかりだったと聞いている。胃もやられてるそうじゃないか。」

「食い物が喉を通るほうがおかしい!こんなに苦しいのに、食欲なんか湧くわけがない!」

「・・・立派な病気だよ。いつまでもそんなでは、死んでしまう。ちゃんと療養して、直せ。・・・頼む。」

 二人はしばらく押し問答をしていたが、間もなく章の両親がやってきて、章をなだめすかして病院へ連れ帰った。

 その場には、咲子と忍だけが取り残された。

 咲子は何も言う気になれず、それは忍も同じだった。

 しばらくして、忍が重い口を開いた。

「もっと、一緒に苦しんでやるべきだった。」

「・・・私達では、何の慰めにもならないってわかっていても?」

「そうだ。何の役に立たなくても、一緒にいて、一緒に悲しんでやるべきだった。」

「松谷さんだって、本当はわかっているのよ。生きていかねばならないってこと。でも、愛する人が死んでも生きてるってこと自体が無神経な様で、許せないのね。」

 忍は、背中を向けたまま言った。

「今晩、俺は病院で松谷についていてやりたいと思う。咲子は、美珂さんの実家に行ってくれないか。」

「・・美珂の?」

「ああ。死後、章が美珂さんの実家に一度も行ってないってことはありえない。どんな様子だったか聞いてきてくれないか。」

「わかったわ。」


 美珂の実家は東京に近い神奈川県の、ベッドタウンにあった。

 ひっそりとした一戸建ての家で、美珂の家族は生活していた。

 仏壇に線香をあげて手をあわせた咲子に、美珂の母親がお茶をだしてくれた。

「こうして来てくださると、美珂も喜びます。」

 モノクロームの写真の中の美珂は、小さく微笑んでいる。

「松谷さんは、よくいらっしゃってますか。」

「ええ。週末には必ず。それで美珂の思い出話なども聞いていかれて。」

「松谷さんは、やっぱりまだ、美珂を愛しているんですね。」

「本当に、ありがたいことです。まあ、まだお若いですから、そのうち他の方と再婚なさるとは思いますけど。」

「そんなに器用な方ではありませんわ。」

「美珂の形見だと言って、いつも肌身離さずつけていたイヤリングをハンカチに包んで大事に持っていらっしゃるんですよ。」

「松谷さんが、初めて女性に・・美珂にプレゼントしたものだと聞いています。」

「そう。それから美珂の愛読書をぜひ欲しいとおっしゃって。一ページずつ丁寧にめくっては、あの子と同じ思考を辿れるのだと喜んでくださるんです。美珂は、本当に幸せ者です。」

 章らしい、と咲子はほほえんだ。

 咲子は再び、仏壇の写真を見上げた。

(美珂・・。松谷さんは、大丈夫よね?だってあなたが守ってくれているのだから。)

 止まったまま、二度と動かないその笑顔。

 咲子は溢れる感情を見せまいと、「また来ます。」とだけ言って、家を後にした。

 私鉄から地下鉄に乗り継ぎ、咲子はいつしか晴海ふ頭に来ていた。

 学生の頃から、やるせなくてどうしようもなくなると、海を見にここへ来ていた。

 都心のビルの夜景が、遠くに見える。

 潮の香りが、鼻をかすめた。

 人一人いない港で、今は波さえ音をたてない。

 停船する船が、わずかなオレンジの光を灯している。

(死んだのだ・・美珂は。)

 咲子の身体に、激震が走った。

 親友を失った、その悲しみが、今再び、咲子を襲う。

 入院して間もなく、美珂は咲子に「もう見舞いに来ないでくれ。」と言った。

 ― これ以上醜くなるの、もう、見られたくないの ―

 最期の1週間は、章でさえ臨終の間際まで近寄らせなかったという。それが美珂の、最期のプライドだったのかもしれない。

(幸せになれたはずなのに、もっと、もっと。)

 思い出す何百というシーンが、咲子の悲しみを一層盛り上げる。

 だが、泣くことはできない。

 だって、章が耐えている限り、自分も耐えると誓った。あの章が人前で泣くとは思わない。しかし・・・。

 強くならねば、と思う。

 章のためにも、自分がしっかりしなくてはいけない。

 最愛の者を残して死んでいかねばならなかった美珂のためにも。

 誰だって苦しいし、悲しいのだ。

 だから、そこから這い上がらねばならない。

 悲しみに、勝たなくてはならない。

「負けない・・。私は、絶対に負けない。」

 潮風に吹かれ、長い髪が宙を踊った。

 遠くで鳴る汽笛に紛れるように、咲子は叫んだ。

「負けるもんかーっ!!」

 夜の海は、咲子の声を呑み込み、黒い闇に変えていく。

 それはまるで、出口の見つからない心のようだった。


 章の病状は、想像以上に重かった。

 まるきり口をきかなくなってしまったからである。

 見舞った咲子は、章の母親の峰子と病院のロビーで話をした。

「あの章が、と思うと、ショックでなりません。」

 以前会った時には、若く美しくみえた峰子だったが、美珂の死と息子のことで一気に老け込んでしまったようだった。

「神様もひどいことをなさる・・。こんなに愛し合う二人をこんなに早く引き裂いてしまうなんて。」

 咲子は買ってきた温かい缶コーヒーを峰子に渡し、自分の分のプルトップを開けた。

「美珂も、とても心配していました。自分がいなくなったあとの松谷さんのことを・・。」

「この2ヶ月、本当に地の底でもがいて生きてたんですね。気付いてやれなくて・・・母親失格です。」

 峰子はハンカチで目頭をおさえた。

 咲子は、峰子の肩を支えた。

「お母様。松谷さんは、強い方です。大丈夫です。きっと、立ち直ります。」

 そんな決まり文句しか言えない自分に、腹が立つ。

 峰子をロビーに残し、咲子は一人、章の病室を訪れた。

 何も言わず、髪もボサボサで虚ろな目でベッドに横たわるだけの章の変わり果てた姿に、咲子は心を痛めた。

「一日も早く・・目を覚ましてください。」

 無論、返事はない。

「美珂のためにも、どうか。」

 その時だった。

 突然、章の手がピクリと動いた。

 咲子はハッとして、章の顔をのぞきこむ。

「・・・・美珂・・。」

「松谷さん・・?」

 章はゆっくりと掛け布団をめくると、病室の窓の方に身体を向けた。

「美珂・・・美珂がいる。」

 章はそう言って、窓の方に手をのばしながら、よろよろと歩き出した。

 咲子はどうしたらいいかわからず、呆然とその場に立ちつくした。

 だが、章の動きはそれに留まらなかった。

「美珂・・・待ってくれ、美珂。」

 この部屋の窓は安全上の配慮から、少ししか開かないようになっている。章はそのわずかな隙間から手をのばし、懸命に外へ出ようとしだした。

 咲子は慌ててその身体を押さえた。

「松谷さん!危険です、離れてください。」

 章は、開かない窓をもどかしく思ったらしい。拳で力いっぱいガラスを殴りはじめた。

 章の拳が、見る見る赤くなっていく。

「松谷さん!」

「美珂がいるんだ、あそこに!」

 章は空へ向かって手を伸ばし、もう片方の手でガラスを叩き続ける。

「いけません、松谷さん、駄目です!」

「美珂がいるんだ、あそこに!早くしないと、行ってしまう!!」

「しっかりしてください、美珂はいないんです。死んでしまったんです!」

「嘘だ!だってあそこにいるじゃないか。笑って、俺を待っているじゃないか!」

 咲子は章の細い胴に抱きついて止めるので、精一杯だった。

 体中汗だくになり、咲子は叫んだ。

「美珂はいないんです!もう・・・どこにもいないのよ!!」

 騒ぎを聞きつけた医師達が駆けつけ、ようやく章はベッドに戻された。

 咲子は息を切らして壁に体重を預け、うなだれた。

 今度ばかりは、泣きたかった。

 泣くことを堪えていることに、何の意味もないような気がした。

(教えてよ、美珂・・・。私は、どうしたらいいの?)

 咲子の長い睫が、溢れようとする涙を必死に止めている。

(私には一体・・何ができるというの・・・。)


 章の容態は、日増しに悪くなる一方だった。

 美珂の幻覚を見、わけのわからないことを口走る。

 まさに重症だった。

 今までは仕事という目的に身も心も捧げて何とか理性を保っていたのが、入院し、そのすべてを取り上げられてしまったために精神の拠り所を失い、心が堕ちていくばかりになったのかもしれない。

「寂しいんでしょうね、とても。」

 章の担当医が、咲子にそんなことを言った。

「でも、私達ではその寂しさは癒せないんです。」

「・・・彼は、そんなにまでも奥さんに盲目的だったんですか。」

「松谷さんは、ずっと仕事一筋だったと聞いています。生活のすべてを、仕事に捧げていたんです。そんな中、美珂に会って・・・初めてだったのかもしれません、松谷さんにとって本当の恋愛は。」

「仕事・・・させた方がいいのかもしれませんね。」

「え?」

「松谷さんのように、一つのことに真っ直ぐのめりこんでいくタイプには、ありがちなパターンなんです。奥様と会う前の支えが仕事なんでしたら、仕事に復帰させたほうがいいのかもしれません。入院して悶々とすごしていても、どうも改善の兆しが見られないようですし。」

「・・・会社で、また奇行が出ないとも限りませんわ。」

「会社の協力が得られるなら、数時間ずつでも出社させて様子をみたいと思いますね。会社の産業医とも連携して・・どうでしょう?」

「とりあえず、明日課長に話をしてみます。その上で、また連絡を。」

「わかりました。お願いします。」


 章の能力を高く買っている営業部長の計らいで、まずは午前中3時間のみ、部長付き秘書という形で仕事に復帰することになった。通常業務に戻すには、まだ心配が多いからだ。 

 その話を聞いた忍は、出しかけた美珂からの手紙を、もう一度机にしまいこんだ。

 渡すことは、いつでもできる。

 

 そして夏が過ぎ・・


 やがて、駆け足で秋がやってきた。



 章は、美珂以外の女には興味がないと言い切っていた。

 美珂は自分の死後、遠慮せずに再婚するよう何度も章に言っていたが、がんとして受け付けなかった。

 部長の計らいや、家族の優しさ、そして忍と咲子の切なる思いに触れ、章の心は少しずつ和らいでいった。

 とはいえ、まだ予断は許さない状態のため、まだ完全に仕事に復帰はできていない。部長につきっきりで過ごし、午後5時には何があっても退社する。

 医師の忠告は、とにかく美珂の話は今は避けるように、ということだった。それができるほど、章の傷はまだ癒えていないからである。

 しかし、どういうめぐり合わせなのか、それは、突然の出来事だった。

 営業部長が商談で、ある精密機器メーカーを訪れ、章もそれに同行していた時だった。

 帰りのエントランスホールで、不意に現れた女子社員に二人は目を奪われた。

 その会社には以前から何度か来たことがあったが、はち会ったのは、これが初めてだった。

 章は、持っていた鞄を思わず落としてしまった。

 部長はどうしていいかわからず、ただ息を詰めてその様子を見守るしかなかった。

 相手の女子社員も二人の様子に戸惑い、目をぱちくりさせていた。

「あの、どうかなさいましたか?」

 優しい声だった。

 その女性は、まさに瓜二つとしか言い様がないほど、美珂に生き写しだった。

 正気に戻ったのは、部長が先だった。

「いえ、何でもありません。失礼しました。・・・松谷君、行こう。」

 部長は章の鞄をひろうと、まだ呆然としている章の腕を引っ張るようにして外に連れ出した。

 これがいいことなのか、悪いことなのか・・・。

 帰りのタクシーの中、章は一言も口をきかなかった。

 だが、めぐり合わせは、これで終わらなかった。

 次の週。

 例の女子社員が、章の会社にやってきたのである。

 女子社員はあの精密機器メーカーの常務秘書であり、社長令嬢というおまけまでついていた。常務直々の商談のため、営業部長は会社のVIP用ラウンジに二人を招いた。最上階にあるこのラウンジは、一般社員でも重要取引の際は使用できることになっている。

 その日は、咲子も偶然にこのラウンジで外国からの客と商談をしているところだった。

 咲子ははじめに章と営業部長に気付き、そして次に、同じテーブルに着いた女に気付いた。

(・・・!)

 咲子は息を呑み、青ざめた。

 なぜ青くなったのかはわからない。ただ、不快感が体中を襲った。

 やがて章達は商談をすませ、雑談をしながらコーヒーを飲んだ。

「いや、こんなに優秀な部下をお持ちとは羨ましい。松谷さん・・でしたね。将来が楽しみだ。」

 常務の言葉に、営業部長も話をつないだ。

「我社の期待を背負ってますから。将来の重役候補ですよ。」

「その上、なかなかの男前で。実はここにいる私の秘書の中川江梨花君は、うちの社長の一人娘なんですが、どうでしょう?ここは一つ、結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」

 営業部長は、思わずコーヒーを喉につまらせて咳き込んでしまった。部長はすべての事情を知っている。どんな返事もできはしない。

 すると、江梨花の方が頬を紅くして、常務に言った。

「やめてください、常務。お二人が困ってらっしゃるではありませんか。」

「・・いえ、気にしないで下さい。」

 営業部長は、驚いた。

 章がまともに他人に対して受け答えをしたのは、久々のことだ。

 今でさえ余計なことは一切しゃべらず、「はい」とか「いいえ」とかの繰り返しだったのが、これはどういうことだ?

 部長はこれが、美珂にそっくりの江梨花のせいなのだと、疑ってやまなかった。

 二人が帰り、章と部長だけになると、すでに用を終えていた咲子は営業部長を呼びとめ、章には聞こえないように訊ねた。

「さっきの女性はどなたですか。」

「中川精密機器工業の常務秘書にて社長令嬢だ。」

「・・・それだけですか。」

「それだけ、とは?」

「・・部長は、何もお感じにならなかったんですか?」

 部長は、歳でくすんだ瞳を、厳しく咲子に向けた。

「私達には、関係の無いことだ。感じる感じないは、松谷君にまかせればいい。」

「係長はまだ病気なんですよ?それなのに、目の前にあんな瓜二つの女がうろついたら、」

「うろついたら・・・何だね?」

 咲子は言葉に詰まった。

 部長は軽く溜息をつき、言った。

「亡くなった奥さんに似ているからという理由でどうにかなる男ではないだろう、松谷君は。」

「・・・なら、よいのですが。」

「松谷君の理性は、今も昔も変わらないよ。安心しなさい。」

 いつもの優しい部長の声に戻ったため、咲子もそれで納得するより他なかった。

 だが、事態は急速にエスカレートしていった。

 江梨花の家が、章に対し、縁談を持ちかけたのである。

 仲介した営業部長は章の立場をすべて中川社長に打ち明けたが、社長は一向にかまわない、と言うのだ。

「うちの娘がとにかく惚れ込んでしまって・・・。いや、急ぎません。松谷さんの沈んだ心をもし江梨花が癒してやれるなら、それで今は十分です。」

 営業部長が江梨花の見合い写真を持って松谷家を訪れると、章の両親も突然の話にうろたえていた。

「とにかく、亡くなった美珂さんのことはもう娘同然に思っておりましたし、まだ1年もたっていないので・・・。申し訳ありませんが、何ともお返事できません。」

 章の父は江梨花の写真を見ながら、複雑な思いにかられた。

 もし江梨花が普通の娘なら、すぐに断っていただろう。だが、美珂に瓜二つとなると、少し話が変わってくる。性格はともかくとして、章の興味をひくには十分すぎる。もし、美珂に似ているからという理由で再婚したとしても、それで章が落ち着くならいいのではないか、と思ったからだ。この先、息子が一生一人でいるのは、やはり賛成できない。もしかしたら、これは美珂のお導きではないのかとさえ考えた。

 章は父から江梨花の話を聞くと、「皆、どうかしている。」と吐き捨てるように言ったきり、二度と話をしなくなってしまった。


 後日、章個人を訪ねに、昼休みの時間帯に江梨花がやってきた。

 章はどうしても邪険にできず、近くの喫茶店に誘った。

 ガラス張りの大通り沿いの席で、江梨花は頭を下げた。

「父が、とんでもない話を持ちかけたのではないでしょうか。」

「・・・。」

「私は、確かに松谷さんのことを初めてお見かけしたときから、素敵だと思っていました。でも、まさかそれで縁談にまで持っていくとは思っていなかったんです。私の勝手なわがままからご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。」

 江梨花は、机に額がくっつくほどに深く頭を下げた。

 章は、何も言う気になれない。

「それに、私・・松谷さんの亡くなった奥様のこと、聞きました。お辛い所に、私みたいなそっくりな女がうろついていたら、もっとお辛くなってしまいますよね。」

 会社で仕事をしていたときの美珂の口調と表情が蘇ったようで、章は思わず苦笑した。

「・・・確かにあなたは妻によく似ている。そんなあなたが悲しそうな顔をするのは、やっぱり見るに忍びない。ですから、もう気にしないで下さい。」

 江梨花は、そっと微笑んだ。

「松谷さんは今でも、本当に奥様のことを大切に思っていらっしゃるんですね。」

 章は、ちょっと目を伏せた。

「これは、お聞きになっていませんか。私は精神を患って、まだ完治していないことを。」

「そうは見えません。」

「理性を保とうと、必死だからです。余計なことを、考えないようにしているからです。」

 江梨花は、章の気持ちを察した。

「私がいたら、嫌でも思い出してしまいますよね。」

 その暗い声に、章はふと優しい気持ちになって微笑んだ。

「でもその反面、ずっと見ていたい、とも思ってみたりもするんです。・・勝手でしょう?」

「いいえ、ちっとも。でも、松谷さんは私という人間そのものには全く興味がないのだと、よくわかりました。」

 美珂と違うのは、自分の気持ちをストレートに伝えてくるところだ。江梨花は、羨ましいくらい正直なのだろう。

 その頃、社員食堂で忍と待ち合わせていた咲子は、あるOL達の会話に釘付けになった。

「ねえ、私さっき、すごいもの見ちゃった!」

 若いOLの黄色い声は、とにかく響く。

「えーっ、何々?」

「松谷係長が、女の人と一緒にいたの!」

 咲子はハッと硬直して、水の入ったグラスを持つ手に力を入れた。

「松谷って、あの営業の?」

「そう。ほら、奥さんが病気で死んじゃって、ちょっとおかしくなったっていう人よ。」

「だって、もとから女嫌いで有名じゃなかった?今なんて、女とは口もきかないって聞いたよ?」

「それがさぁ、一緒にいたのが、なんか奥さんになった女にすごい似てたんだよね・・。死んだって話、嘘じゃないよね?」

「本当に決まってるじゃん!」

 咲子は、デザートのプリンにスプーンを差し込んだOLの肩をつかんだ。

「松谷係長を、どこで見たの?」

 咲子の表情がよほど怖かったらしく、OLはすぐに答えた。

「オフィス出たとこの、”カフェ・フランボワーズ”だけど・・?」

「ありがとう!」

 咲子は財布を持つと、グラスを置いたまま食堂を飛び出した。

 すれ違いざまに食堂に入ってきた忍は、咲子の慌てぶりに驚いた。

「咲子?どうしたんだよ?」

「ごめん、すぐ戻るわ。ちょっと待ってて!」

 咲子が会社を出て大通りを渡ろうとした時、向かい側にあるシックなガラス張りの喫茶店から章と江梨花がでてきた。

 二人は何か会話を交わすとすぐに別れ、江梨花は地下鉄の駅へ向かって歩いていき、章は会社へ戻ろうと、横断歩道に向かってきた。

 横断歩道を渡ったのは、咲子が先だった。

 咲子に気付いた章は足を止めた。咲子が、明らかに自分に向かって歩いてきたことに気付いたからだ。

 渡りきったところで、咲子は章と向き合った。

「今の方が、中川精密機器工業の社長令嬢ですね。」

「・・・ああ、そうだ。」

「会ってらしたのは、美珂に似ているからですか。」

「・・・。」

 章は沈黙を保ったまま信号が再び青に変わるのを待ち、横断歩道を渡り始めた。

 咲子は、慌ててあとを追いかけた。

「係長!」

「・・・緑川には、関係ないだろう。」

「私は、心配しているんです!」

 大通りを渡りきり、再びアスファルトの歩道を歩く。章は大またで早足になり、咲子は懸命にそれを追いかけた。

「俺の何が心配なんだ?」

「美珂に似ているという理由だけで、他の女の人に惹かれたりしないでほしいんです!」

「なぜ、そう思うんだ?」

「だって、あなたは女の人とただでお茶を飲む人ではないでしょう!?」

 章が不意に立ち止まり、咲子は危うくぶつかるところだった。

 章は振り向いたが、その瞳は冷たい光を帯びていた。

「誰とお茶を飲もうと、俺の勝手だ。どうして緑川にそんなことを言われなきゃならない?」

「係長は、もう美珂を忘れてしまったんですか?」

「忘れてないから、似ている女でも何でも見ていたいと思うんだ。」

「そんなの、美珂に失礼です!」

「緑川。」

 章は、咲子を厳しい視線で見下ろした。咲子の瞳も怒りの色を帯びていたが、章の表情の恐ろしさに、思わずたじろいだ。

 章は言った。

「そういうことは美珂が考えることで、緑川には関係の無い、筋合いのないことだ。」

「それは・・・。」

「緑川が考える領分ではない・・違うか?」

 咲子は負けじと言い返した。

「そんなこと、わかっています。でも、私が言わなければ他に誰も言わないでしょう!?美珂が言えないから、私が代弁しているんです!」

「・・・美珂は、そんなことは言わない女だ。」

「口にしなくたって、嫌に決まってます!嫌でないなんてありえません!」

「それは美珂の考えではなく、君の考えだろう?」

「違います!」

「違わなかったとしても!」

 章の切れ長の一重が、真っ直ぐに咲子を凝視した。

「俺の行動に、どうして緑川が干渉する?」

「干渉って・・・。」

「それは、美珂にしか許していない権利だ。緑川に与えた覚えは・・無い。」

 その言葉は、咲子の心を深く貫いた。

 章の言うことは、正しい。

 なのに、こんなことを言ってしまった、言わずにいられなかった自分がいたことに、咲子は気付いた。

 何も言えずに俯いた咲子に、章は口調を和らげた。

「俺は、本当は心のどこかで美珂を忘れたいと思っているのかもしれない。眠れないほど苦しい気分が、美珂に似ている女が現実に動いているのを見るだけで、やわらいだりするんだ。」

 咲子が見上げた章の横顔は、ただ一人の女を想っている男の顔だった。

 整った鼻筋から薄い唇にかけての線が、切なくなるほどきれいで、咲子は苦しくなった。

「すまない。」

「・・え?」

「言い過ぎた。・・・緑川の言うことは、最もなのに。」

「係長・・・。」

「わかっているんだ。このあと、もっと深い絶望が待っていることを。」

「もっと・・深い?」

「そうだ。だから今は少しだけ、夢を見ていたいんだ。救われる気分を、少しだけでも味わいたかった。どうせ美珂を・・忘れられるはずがないからな。」

 章はそう言って苦笑した。

「・・・緑川にだから、こんな恥ずかしいことを打ち明けている。緑川は、俺の気持ちを誰より早く察してしまうからな。今回のことも・・図星だったし。」

「・・・。」

「もし、緑川以外の女にこんなことを言われていたら、許さなかった。そうだな、手をあげていたかもしれない。それで、許してくれないか。」

 章はそう言うと再び背を向け、オフィスのエントランスに向かっていった。

 このときの章の一言が、どれだけ咲子の心に染みたか。

 咲子は胸が一杯で、わからないくらいだった。

 咲子は今、自分がとてもまずい気持ちを持ち始めたことに、苦い思いも感じていた。

(私は・・・。)

 咲子は、オフィスの非常階段の壁に額をおしつけ、頭を冷やそうと努めた。

(どうかしてる。私は、何を考えてるの・・・?) 

 章のつらい気持ちを想うと、心がきしむ。

 章の、ほんの少しの浮気に対しても、不安と嫉妬が渦巻く。

 こんな気持ちは美珂が感じるもので、咲子が感じるべきものではないはずだ。

 そんなことは、言われなくても痛いくらいわかっている。

 社員食堂で忍が待っていることを思い出したのは、昼休みが終わる直前のことだった。

 もういないだろうと思いながらもガランとした食堂に行くと、隅の席で一人、忍がコーヒーを飲んで待っていた。

 忍は咲子の姿を見ると溜息混じりに苦笑して、立ち上がった。

「もう、仕事の時間だ。行こう。」

「ごめんなさい。久しぶりに昼を一緒にとろうって、先週から約束していたのに。」

「いいさ。家へ帰ればどうせ一緒なんだから。」

「・・・今日は、定時で帰れそうなの。夕飯作って、待ってる。」

「ああ。」

 忍は笑って許してくれたが、咲子には罪悪感しか残らない。忍が許したのはランチをすっぽかしたこと自体であって、その理由に対してではない。咲子の心内を知れば、忍は笑うことはもちろん、咲子を許さないだろう。

 その夜は、忍も8時には帰宅し、二人で夕食をとった。

 咲子は、江梨花の一件をすべて忍に話した。しかし今日、章が咲子に言った言葉だけは、伝えずにおいた。

 すると忍は、咲子にとって思いがけない返事をした。

「もし、それで松谷が幸せになれるなら、いいんじゃないのか?」

 咲子は、その言葉にいきり立った。

「なぜ、そんなことを言うの?美珂に瓜二つってだけなのよ?それ以外の何ものでもないのよ!?まやかしだわ。」

「美珂さんだって望んでたことだ。松谷が幸せになるのなら、再婚して欲しいと言ってた。」

「どうして男にはわからないの?相手のことを思えば、再婚してほしいって言わざるをえないけど、本心では嫌に決まってるじゃないの!自分が死んだ後、また他の女を愛するなんて、どこの女が喜ぶっていうのよ!?」

「なら怒ればいいのは美珂さんだ。咲子が怒る筋合いがどこにある?」

「美珂が怒れないから、私が代わりに怒ってるのよ!」

「美珂さんが君にそうしろと頼んだわけじゃないだろう?」

「あなたならわかってくれると思ったのに!」

「わからないのは君の方だ。君は美珂さんが亡くなったのを悲しんでいるのか?松谷が苦しんでるのを悲しんでるのか?」

「両方よ!それは、あなただって同じでしょう?」

「当たり前だ。だが、君の方はそうは見えない。」

「・・・どういうこと?」

「君の頭の中は、松谷のことで一杯だ。・・・違うか?」

 咲子は、言葉を失った。

 否定が、できない。

 嘘を言えるほど、忍を愛していないわけではない。

 忍は、グラスの赤ワインを飲み干した。

 章が入院してた間ほとんど毎日咲子が見舞いに行っていたときから、忍は一抹の不安を抱いて、ここまで来た。

 だが、その不安が現実になってしまったとは。

 忍は、今まで言わなかったことを、咲子に打ち明ける気になった。

「実は俺、美珂さんから一通の手紙をうけとっている。」

「・・・そんなものを、いつ?」

「入院する前かな。死んだ後、松谷が苦しんでいたら渡して欲しいと言われて、預かった。」

 咲子は苦しくて、思わず笑った。

「どうして親友の私でなく、あなたなの?美珂のあなたへの態度も、おかしくない?」

「どうしてかって?今の君の状態を見ればわかることじゃないか。」

「私・・・?」

「そうだ。俺達4人は、友情の間に愛情も絡ませていた。だが俺は、それをごっちゃにしたことはない。美珂さんは友情で、君へは愛だった。」

「私だって、・・そうよ。」

「そうは思えない。君が江梨花さんに対して抱いているのは明らかに嫉妬だ。それは、気づいているんだろう?」

「私は、すべてが愛なのよ。あなたへも、美珂へも、そして松谷さんへも!すべてを愛しているのよ。でも、恋愛とは違うわ。そういうのって、あるでしょう?」

「今まではそうだったろう。だが、今はどうだ?」

「・・・私は、美珂を思わなくなった松谷さんなんて見たくないのよ。」

「松谷だって、立ち直らなくてはならないんだ。そのきっかけが女だって、仕方ないだろう。」

「美珂はどうなるの?松谷さんを置いて死ななくてはならなかった美珂は!?」

「死んでしまったんだ。もう、どうすることもできないんだ。それは、美珂さんだってわかっていた!」

「あんなに愛し合っていたのに!?江梨花さんの中に美珂を見て、何が幸せなの!?」

「じゃあ、松谷に一生一人でいろというのか!?」

「美珂がいるわ。美珂が、いつも一緒にいるわ!」

「松谷家の一人息子だぞ。まわりがどっちにしたって放っておかないだろう!」

「美珂以外の女なんて許さないわ!他のどんな女も、松谷さんの相手になんて駄目よ!」

「じゃあ、君が松谷と結婚するか!?」

「!!」

 忍に肩をつかまれ、咲子は自分の心がもうどうにもならないほど忍に曝されているということを知った。

「それなら、許せるのか。」

 咲子は、何もいえなかった。

 そんなこと、考えてもいなかった。

 だが、否定ができない。

 章が他の女と再婚するくらいなら、自分が独占してしまいたいと思う。

 こんな気持ちが、自分の中に芽生えていたなんて。

 咲子はこの時初めて、自分の気持ちを確信した。

 忍が言うとおりだ。

 もう、疑いようもない。

 忍は咲子の体をそっと放すと、静かに言った。

「咲子の気持ちは、よくわかった。」

 忍は食べ終えた食器を、カチャカチャと音をたてながら片付け始めた。

「実は明後日から1ヶ月、香港へ出張するんだ。・・・ちょうど良かった。」

「ちょうど良かった、って・・?」

「少し、お互いに頭を冷やしたほうがいいだろう。独りになって、色々考える時間が必要だ。」

「忍さん、私は・・。」

「美珂さんの手紙は、とりあえずまだ俺の手におさめておく。」

「駄目よ。・・・わかってるでしょう?松谷さんに必要なのは、美珂の愛だけだって。」

「それも、今だけだろう。・・・やがて、変わるんだ。」

 忍は食器をシンクに置くと、

「後は、頼んでいいか。出張の準備をしたい。」

 と言い残し、ダイニングを去った。

 咲子は、自分がとんでもないことをしていると思った。

 親友亡き後、その夫を好きになるなんて、どうかしている。

 だが・・・今の咲子に、その想いを消してしまえるだけの強さはなかった。章が美珂以外の女を愛したら、苦しくてたまらない。かといって、自分を愛するわけがないと、咲子は知っている。

 忍を蔑ろにしたのは、自分だ。

 あれほど好きで、大好きで、やっと結婚した相手を身勝手な理由で傷つけたのは、自分だ。

 章を好きになるということは、今迄も、これからも、咲子にとって絶対のタブーだった。

 美珂がいない今、美珂の残したものをどう処理して、現実につなげていくのか。

 美珂がいない今、美珂のいない穴をどう埋めて、未来をつくっていくのか。

 それは、答えの見えない、最も難しい問題だった。


 忍が長期出張に出て、1週間が過ぎた頃だった。

 咲子はめずらしく残業がなく、まだ多くの社員が行き交うエントランスホールに下りてきたが、ある人影にドキリとして立ち止まった。

 受付から遠く離れた柱の影で、江梨花がまわりを気にしながら立っているのを見つけたのである。

 美珂そっくりの顔だが、背はずっと高い。

 水色のツーピースを着た彼女は、美珂と同じようにお嬢様っぽい雰囲気を漂わせている。

 本来なら最も避けて通りたい相手なのだが、不安げな表情が美珂そっくりで、咲子はどうしても放っておけずに思わず声をかけていた。

「失礼ですが、松谷係長をお待ちですか。」

 江梨花はとても驚いた様子だったが、すぐに微笑み、頷いた。

「待ち合わせではないんです。ただ私の方で話があるだけなので、勝手にお待ちしてるんです。」

「係長は会議中で、まだ1時間ほどかかると思いますが。」

「1時間くらいでしたら、待ちます。」

「・・・ここで、ですか。」

「ええ。まずい・・ですか。」

 咲子は、江梨花の性格までが美珂に似ている様な気がして、複雑な表情で笑った。

「よろしければ、社内のそこのラウンジでお茶でもいかがですか。私は松谷係長の部下で、祐善咲子といいます。」

 江梨花は咲子のことを寸分も疑いもせず、「喜んで。」と言ってついてきた。

 社内の人間が外部の人と打ち合わせをしたり待ち合わせに使うラウンジは、エントランスホールとガラスの衝立で隔てられており、皆、気軽に利用している。エレベーターから降りてきた相手をすぐに見つけられるし、受付嬢も案内しやすい。しかもフリードリンクで、いつでもコーヒーと紅茶は飲めるようになっている。

「さすがは大企業ですね。うちとは規模が違います。」

 広い吹き抜けを見わたしながら、江梨花は感嘆の声をあげた。

 咲子はコーヒーをカップに注ぎ、江梨花もそれに続いた。美珂はコーヒーが飲めず、絶対紅茶派だったため、江梨花との違いを見つけて咲子は何だかホッとした。

「祐善さんは、松谷さんの・・亡くなった奥様のことをご存知ですか。」

「ええ。・・・私の親友でしたから。」

「私に、とてもよく似ているとか。」

「・・・そうですね。」

「だから放っておけなくて、こうして誘ってくださったんですか。」

「そうかもしれません。」

「親友に似ている女がうろついていると・・不快ではありませんか。」

「別に・・・。それよりも、美珂との思い出が蘇ります。」

 江梨花はコーヒーを一口飲み、つぶやくように言った。

「亡くなっても尚、心の中に残る存在なんですね。」

「絶対に忘れられません。・・・それは、」

「松谷さんも同じだと、おっしゃりたいのですか。」

 江梨花の真っ直ぐな瞳が、咲子をとらえた。

 咲子は、思わず息を呑んだ。

 江梨花は、勘付いているのかもしれない。

 江梨花が章に安易に近づかないよう、咲子が牽制しようとしていることに。

 だから、こんな挑戦的な物言いをするのだ。

 咲子は、上目遣いに江梨花を睨んだ。

「だとしたら、どうします?」

 咲子は気付いていないが、その強気な自信は揺ぎ無い美貌に裏打ちされたものだ。非のうちどころのない唇で、江梨花をけしかけた。

 江梨花はそんな咲子に、フッと嘲笑した。

「別に、どうもしませんわ。私は、私です。亡くなった方の身代わりなんて真っ平ですし、迷惑です。」

 その言い方には、咲子も苛立ちを隠せなかった。

「そうですわね。美珂の代わりなんて、誰にもつとまりませんもの。係長もそれはよくわかっているはずですし。」

「でも、将来のことはわかりませんから。」

「随分な自信ですわね。」

「だって亡くなった奥様に酷似しているということは、少なくとも私の容姿は松谷さんの好みだということでしょう?」

「それは、安直過ぎる気がしますけど。係長はそんなに単純ではありませんから。」

 江梨花は不快の色を露わにした。

 だが、咲子は一歩も引くつもりはない。

 二人の視線が鋭くぶつかりあった。

 しかしほどなく、江梨花が視線の先に、章を見つけてしまった。

 江梨花は咲子のことなどまったく構わずにガラスの衝立をすり抜けて、章のところに駆け寄った。

「お忙しい中、ごめんなさい。ただ、どうしてもお話したいことがあって。」

 章は、後ろを追いかけてきた咲子に視線を移した。咲子は慌てて弁明した。

「エントランスでお待ちだったので、お茶に誘ったんです。」

「・・・そうか。」

 章は落ち着いた眼差しで、江梨花を見た。

「話とは、何ですか。」

 江梨花がちらっと咲子を一瞥したため、咲子はすぐに頭を下げた。

「では、私はこれで失礼します。」

 咲子は章の返事を待たずに、逃げるように外へ出た。

 外の空気は、だいぶ冷たくなってきている。

 もし、章が本当に江梨花を選ぶようなことがあったら、どうしたらいいだろう。

 信じたい。

 章が、美珂以外の女性を愛するわけがない、と。

 忍が預かっているという美珂の手紙を見てみたいと思う。そこに、美珂が「私以外の女を絶対に一生愛さないで。」とでも書いてあれば、章は思い留まるに違いない。

(でも、そんなことは書いてないんだろうな。逆に再婚しろ、とか余計なこと書いてあるのかもしれない。美珂、お人よしだから・・。)

 だが、嫌だ。

 章が江梨花を選ぶなんて、嫌だ。

 絶対に、嫌だ。

 江梨花は、美珂と全然違う。

 美珂と同じ優しい顔で、咲子を挑発する意地の悪さを持っている。

(あんなの、違う。あんなの、美珂の代わりになんか絶対ならない!)

 帰宅を急ぐサラリーマンの群れに逆らうように歩きながら、咲子は苛立ちを紛らすようにオフィス街を彷徨った。

 江梨花を見る章の目が穏やかだったことが、許せない。

 咲子に対するのと全然違う声で章に近づいた江梨花が、許せない。

 そんな二人に耐えられない自分が、許せない。

 感じてはならない嫉妬心を止めることができない自分が、許せない。

 今は、何もかもが・・・許せない。


 忍が香港から帰ってきた。

 帰国しても、まだ咲子の瞳が自分を見ていないことに、忍は傷ついた。だから、咲子が傷つくであろうことも、口にしてしまう決心は簡単についた。

 スーツのジャケットを脱ぐ間もなく、忍は咲子に言った。

「実はここに帰る前に、松谷に会ってきた。そこで二つ、決まったことを聞いてきた。」

「・・・ふたつ?」

「そうだ。まず一つ。来年の4月から、松谷は上海支社へ転勤する。」

「・・・転勤って・・病気のほうは・・?」

「ある大きなプロジェクトが立ち上がってて、20人くらい一度に送り込まれるんだ。松谷の親しい人間も行くし、医者からもOKが出たらしい。」

 章と遠く離れることになる・・・その事実が、咲子の喉下を締め付けた。

 苦しい息の中、咲子は訊いた。

「それで、もう一つは?」

「・・中川精密機器工業の社長令嬢と付き合うそうだ。」

「・・・嘘・・・。」

 咲子の衝撃を感じながら、忍は言った。

「嘘ならいいが、真実だ。俺も全然知らなかったが、すでに一度うちの営業部長を通して松谷家へ縁談を持ちかけたらしい。」

「でも、松谷さんが江梨花さんを愛してるとは思えないわ。」

「どうして咲子にそんなことがわかるんだ?」

「だって、江梨花さんは美珂に外見が似ているだけなのよ。中身は全然別人よ。付き合う要素なんてどこにもないようなひとよ?」

「それは松谷の見解ではなく、君の思い込みだろう?松谷も、一人で辛いんだよ。そこへ死んだ妻そっくりの女が現れたら、誰だって夢を見たくなると思うぜ。」

「夢・・?ならば、やがて現実が必ずやってくるわ。」

「そのときは、その時だ。」

「美珂の手紙、渡さないの?」

「今はまだ、渡さない。もう少し結果が出るのを待つ。松谷が立ち直るせっかくのチャンスを潰しかねないからな。」

 咲子は、下唇を噛み締めた。

「美珂は・・松谷さんのことしか考えてなかったわ。その彼女の手紙が、チャンスを潰すわけないじゃない?」

「俺だって、そう信じたいさ。だけど、死の淵の人間が書いた手紙だ。理性を失っていたって不思議じゃない。」

「その言い方はひどいわ。美珂が最後の最期まで口にしていた言葉を、あなただって覚えているでしょう?なのに信じてあげられないの?」

「・・・咲子に、そんなことを言われたくない。」

「何ですって?」

「君こそ、自分の状況をよく考えろ。亡き親友の夫に横恋慕しているのはどこのどいつだ?」

「・・・それは違うわ。」

「違わないね。松谷が江梨花さんと付き合うのが許せないのは、美珂さんのためなんかじゃない。君自身のためだろう!?」

「違う!・・・違うのよ。」

「どう違う!?」

 忍は咲子の両手首をつかんで、自分の方を向かせた。

「俺の目を見れるか?」

 咲子は忍から顔をそむけたまま、唇を噛んだ。

 忍の目を見たら、今度こそ見抜かれてしまう。

 だが、本当に章を愛してしまっているのか、咲子自身よくわからないのだ。この気持ちが、美珂を思う故なのか、章そのものが好きなのか、それとも、その両方なのか。

 だが、やましい気持ちには変わらない。

 忍は、手首をつかむ力を緩めることなく言った。

「弁解できないだろう?」

「・・・わからない・・わからないのよ。」

「わからない?簡単なことじゃないか。」

「簡単?」

「君は松谷の慰めになるなら、奴に抱かれることも厭わないだろうってことさ。」

「!」

 咲子はそこで初めて、忍を凝視した。

 忍の凍るような悲しい瞳で、咲子は更なる罪悪感にさいなまれた。

 だが、これだけは否定しなければならない。

 忍と夫婦であり続けたいと思う気持ちがあるのなら、絶対に否定しなければ。

 なのに。

 なのに、唇が開かない。

 章に抱かれるなんて、絶対にありえないし、望まない。章の肩の後ろに、必ず見てしまうであろう美珂の影を感じながら、抱かれるなんてできるわけがない。

 それなのに、否定できない。

 忍の言うとおり、章が自分を抱くことで慰めを見出せるというなら、抱かれていい。

 違う。

 咲子自身が、章を癒すために抱きたいとさえ思うのだ。

 忍の手が、咲子から離れた。

 深い息を吐きながら、忍は額を覆った。

「1ヶ月離れれば冷静になって、また今までどおりになると思っていた。でもそれは、とんだ誤算だったよ。」

 咲子は半開きの唇で、苦しみに喘いだ。

 声にならない。

 罪悪感から、涙も許されない。

 忍を愛している。それは、変わらない。

 だが、それとは別の次元で章を愛している。そう言っても、誰にも理解されないだろう。

 勝手な言い分だ。

 勝手すぎる。

 結婚という、「一生を共にする」という約束を忍と交わしていながら、それを破るなんて。

 背を向けた忍の肩先が、震えている。

 咲子は思わず、忍の背に抱きついた。

 心から、忍を愛おしいと思う。

 咲子は、このまま忍に抱かれたいと思った。

 そうすれば、章への想いなど断ち切れると思った。

 今、忍に目茶目茶にされたいと切望した。

 だが、忍は咲子を冷たく突き放した。

「・・・残酷だよ、咲子は。」

 忍の声が、静寂の中で低く響いた。

「他の男を見ている目だ。・・・そんな女を抱く気にはなれない。例え、自分の妻であっても。」

 忍はそのままリビングを離れた。

 咲子は一人、ソファに崩れこんだ。

 忍が拒絶するのは、当たり前だ。

 忍との絆が切れる音を、咲子は確かに聞いていた。


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