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厳寒の朝

 それは、空気の流れさえ凍りつくような厳寒の朝のことだった。

 淹れたてのコーヒーの香りがたちこめるダイニングで、祐善咲子ゆうぜん・さきこはトーストの焼き上がりを待ち構えていた。

 スリッパを通して身体の芯に伝わってくる寒さは、厚めの黒タイツでも誤魔化しきれない。だが、今日はどうしても成立させたい商談がある。だから、このチャコールグレーのタイトスカートに、青のグラデーションスカーフできめていきたい。これが咲子の勝負服であり、ラッキージンクスでもあるからだ。

 咲子は膝の内側を擦り付けあうようにしてダイニングの端から端へ移動し、朝食の準備を整えていく。

 もうすぐ6時30分。夫のしのぶが支度を終えて来るはずだ。それまでに、野菜スープを完成させておきたい。

 と、その時だった。

 突如、リビングの電話が鋭く鳴り響いた。

 こんな早朝に一体何事だろう、と咲子が思っている間に、夫の忍が受話器をとった。

「はい、祐善です。・・・・はい・・・。」

 忍は、ネクタイを片手で持ちながら話をしている。

 咲子は焼きあがったトーストにバターを溶かしながら、忍の方を眺めていた。忍は咲子に背を向ける恰好で話しているため、全然様子を窺い知る事ができない。

 電話は、1分ほどで終わった。

「どうしたの?」

 忍の唇は固まったように動かない。

 その表情に、咲子はハッとなった。

 嫌な予感が予感ですまないことを、腕の鳥肌がいち早く察していた。

 忍は瞼を伏せがちにし、低い声で言った。

「今朝早く・・・亡くなったそうだ。」

「・・・誰が・・・?」

 咲子は、その答えを知っていた。

 だが、聞かずにいられなかった。

 聞くまでは、信じたくない。

 例えその間が、数秒だったとしても。

 忍は、そんな咲子の気持ちを知ってか知らずか、ただ、聞かれたままに答えた。

美珂よしかさんだよ。」

 それは、4ヶ月前に癌と余命を告知され闘病し続けていた、咲子の親友だった。入院するまでは、会社の同僚だった。

「美珂さんのご両親が知らせてきた。どうする?病院へ・・・行くか。」

 咲子は、震える唇を無理に動かした。

「行って・・・どうなるの?」

「咲子。」

「行ってどうするのよ。美珂が生き返るわけじゃなし、どうしてそんな無意味なことしなきゃならないのよ!」

 バンッ、とダイニングテーブルを叩き、咲子は叫んだ。

「今日は大事な商談があるのよ。病院に行ってる暇なんかないわ!」

 朝食の用意を放って部屋を出て行く咲子を、忍は黙って見守ることしかできなかった。

 咲子がどんなに美珂を好きだったか知っている。だから、忍は何も言えない。何と言えばいいのか、わからない。

 鍋の中のスープの煮え立つ音だけが、冷たいキッチンに木霊していた。


 その朝、咲子はどういうルートで出勤したのか、覚えていない。ただ、地下鉄の暗いホームから地上へ向かう階段を登りきったとき、やけに太陽の光がまぶしかったことだけ脳裏に焼きついている。

 オフィスのエレベーターに乗り、薄暗い中廊下を歩き、自分のデスクに着く。

 時間が経ち、続々と皆が出社する。

 だが、一つの席だけは埋まらない。

 美珂の夫である、係長、松谷章まつたに・しょうのデスクだ。

 周囲は、もう美珂の訃報を知っているのだろうか。

 その時、課長が咲子の席にやってきた。

「松谷君の奥さんのことだけど・・・。」

 咲子の肩が、ビクッと震えた。

 課長の言葉の続きを聞いたら、すべてが現実になる。信じたくないことが、現実になってしまう。

「私・・・資料の準備をしてきます。」

 咲子はそう言うと、部屋を飛び出した。

 資料の準備など、とっくにできている。かと言って、デスクに戻りたくない。

 行くあてがない果てにたどり着いたトイレで手を洗いながらふと鏡を覗くと、そこには青い顔が映っていた。乱れた長い黒髪の間から、やけに紅い唇がのぞいている。見慣れたはずのその顔は、なぜか見知らぬ女に見える。

(私は・・どうしたらいいの?)

 しばらくし、咲子は取引先へ行く準備をしようとやむなくデスクへ戻った。そこへ、一緒に出張する予定の先輩社員がやってきた。

「緑川。」

 社内では夫の忍と同じ苗字であること故の混乱を避けるため、旧姓の「緑川咲子」で通している。

「今日は、僕一人で行くよ。」

「え・・・?」

 咲子は先輩社員を見上げた。

「どうしてですか?私、この商談は絶対成立させたいと思って準備してきました。」

「わかっている。だけど、・・・そんな青い顔色の人を連れて行けない。」

 咲子は、思わず頬を手で触ってみた。その手が小刻みに震えているのを、咲子は初めて知った。

 先輩社員は咲子の肩をたたき、

「僕に任せておけ。君の分も、ちゃんとプレゼンしてくる。絶対、商談はまとめてくる。」

「でも、」

「君のご主人が・・ほら、入り口で待っているよ。」

 営業2課の入り端に、夫の忍が来ていた。

 忍の暗い顔は、咲子を否応なく現実に引き戻した。

「・・・咲子。美珂さんに会いに行こう。」

「どこへ・・?」

「松谷家だ。遺体が、自宅へ戻ったというから。」

「嫌よ。」

「なに?」

 咲子は、唇を噛み締めた。

「私は行かない。」

「どうして?親友だろう?最期のお別れをしたくないのか?」

「したくないわ。」

「咲子。」

「見たくないわ。美珂の死体なんかに会ってどうするの?話しかけたって返事ができないものに会って、見て、どうしろって言うの!死体にすがりついて、『生き返って。』って、泣いてお祈りでもしろって言うの!?」

 咲子の大声に、課の社員達の視線が集まる。

 忍は眉をひそめて、咲子の肩を支えた。

「落ち着けよ、咲子。じゃあ俺一人で行くから、お前は家に戻れ。」

「・・・。」

「今夜は、帰らないかもしれない。明日は松谷の家から出社することになるかもしれない。そしたら、替えのシャツを持ってきてくれ。」

「どういうこと?」

「・・・松谷のことが、心配なんだ。一人にさせたくない。」

「松谷さんが・・・心配?」

「俺は今朝、病院へ寄ってきた。だいぶ憔悴しきっていたからな。ついていてやりたい。」

「・・・そう。」

「本当はお前の傍にもついていたかったんだ。だけど咲子にその気がないなら仕方がない。今日は、親友を選ぶ。」

 忍は咲子を説得するように瞬き、そして咲子に背を向けた。

(私は、別に今、誰かに傍にいてほしいなんて思わない。)

 咲子は忍の背を見送りながら、そう思って唇を噛んだ。


 咲子と美珂は7年前、大手商社に同期入社した。

 咲子は大学のミスキャンパスに選ばれたこともある美貌の持ち主。一方美珂は地味な容貌で、同期の中でも全く目立たぬ存在。だが、新入社員研修でたまたまグループが一緒だったことから二人は話をするようになり、いつの間にか意気投合していた。美貌を誇って自信に溢れ、行動力もあり、男友達の多い華やかな咲子。生真面目で仕事をソツなくこなすものの、人より何歩も後ろに下がって行動する控えめな美珂。周囲は美珂を完全な引き立て役として見ていたが、咲子は美珂の堅実で誠実な姿勢を尊敬していたし、美珂は咲子の積極性と実行力に憧れていた。やがて咲子は秘書課、美珂は経理課に配属されたが、その後も二人は良い友人として付き合ってきた。

 咲子が夫の忍と知り合ったのは、3年前。美珂の上司として配属された忍に、咲子が一目ぼれしたのが始まりだ。咲子は美珂に忍のことを探ってもらい、結果、キューピッドになってもらった。その2年後、一般職から総合職への試験に合格して営業に配置転換された咲子の上司となったのが、松谷章まつたに・しょう。課は違えど係長同士として知り合った忍は章と親しくなった。章より二つ年上の忍は間もなく課長代理に昇進したが、二人の友情は変わらなかった。年の差関係なく、タメ口をききあう仲だ。

 忍は章が好きだったし、咲子は美珂が好きだった。夫婦の意見は一致し、二人ををくっつけてしまおうと画策した。そして二人が結婚したのが、半年前。美珂の病気が発覚したのが、4ヶ月前。

 そして・・・。


 美珂の通夜にも、告別式にも、咲子は受付に立った。

 知り合いにも、知らない人にも同じように頭を下げてばかりいた。香典を頂くたび「ご愁傷様です。」という言葉をかけられ、その度に首だけが下を向く。

 会場ですすり泣く人を見ても、咲子の心は何も感じなかった。それよりも、(泣けるだけ、あんたたちは冷静なのよ。)と冷ややかな眼差しを向けていた。

 咲子がそんな気持ちになる理由の一つに、美珂の夫、松谷章の姿があった。

 章は一度も下を向くことなく、ただひたすら宙を睨みつけていた。

 濃い眉の下の一重の眼で、薄い唇を真一文字に引き締め、正座のまま微塵も動かなかった。

 真新しい黒いスーツに黒いネクタイ。

 そこには、いつもオフィスで見ていた上司の面影はない。

 やつれた頬が、険しい表情を一層際立たせている。

 美珂と出会う前も、出会ってからも、章は無愛想で厳しい、しかし誠実な男だった。他人に厳しいが、それ以上に己にも厳しい。それゆえか、友人はほとんどいなかった。本社に戻るまでずっと地方を回っていたらしいが、いつも一匹狼的な存在だったらしい。上司にも臆せず意見を言い、誰に媚びることもなく、他人に容易く気を許さない。そんな章が唯一友人として付き合ったのが、忍だった。

 忍は、咲子とは対照的に葬儀の裏方で忙しく走り回っていた。

 章には「何も心配しなくていい。」と言い、松谷家の親類と打ち合わせをしたり、葬儀屋との連絡に奔走している。ここ数日、咲子は忍とろくに顔を合わせていない。

 告別式の後、親類縁者が火葬場へ向かう際、忍と咲子も一緒に来るよう、親戚一同に促された。

「最期のお別れです。」

 棺の周りに一同が集まった時、咲子はそこへ近づくことができなかった。

 咲子は結局、美珂の死に顔を一度も見ることができなかった。

 忍が咲子の手を引こうとしたが、咲子は黙って首を振った。見たくなかったし、見れない。

 だがその時、棺に寄らなかった者がもう一人いた。

 章である。

 美珂の家族や章の両親が涙を流して別れを惜しんでいる中、章は一人、離れた場所に立っていた。その章の拳が震えているのを見たのは、おそらく、同じように棺に寄らなかった咲子だけだったろう。

 咲子は、章の気持ちが、細い糸のようになって自分の心に流れ込んでくるのを感じ取った。

 鉄の扉が重い音をたてて閉じられ、火葬が始まった。

 終わるまでの時間、皆は別室へ案内された。

 だが、章だけは閉ざされた固い扉の前から動こうとしなかった。

 忍が章の肩を抱き、別室で休もうと促すと、章は忍に言った。

「ここに居たいんだ。」

「でも、ここには座る場所もない。だいぶ疲れているはずだ。少し休んだほうがいい。」

 忍の言葉に、章は少しだけ微笑んだ。

「ありがとう、祐善。だけど、ここに居させてくれ。」

「・・・じゃあ、俺も一緒に。」

「いや、祐善は緑川についていてやれ。俺は、大丈夫だから。・・・これが最期だから、美珂と二人きりにしてくれないか。」

 忍はそれ以上何も言わずに、章を残して立ち去った。

 忍が泣いたのは、そのときが初めてだったかもしれない。咲子は隣に並んで歩きながら、そう確信していた。忍が泣くのは、美珂の死に対してではない。美珂を失った章の辛さに涙しているのだ。

 遺体が焼け終わるまで、2時間はかかる。

 親類達が和室で食事をしたり、話をしている中に忍も混ざった。

 忍と咲子は若いながら、章と美珂の仲人を務めた。二人がそれを強く望んだからだ。そんな縁もあり、章や美珂の一族とは付き合いが深い。忍がその中に混ざるのは、当然といえば当然だった。咲子は美珂の両親と話をしていたが、途中どうしても章のことが気になり、トイレに行くふりをして席を立った。

 今日、この時間に火葬が行われているのは美珂一人らしく、待合室を出てしまえば、人影はほとんど無い。

 広い大理石の廊下の片方に並ぶ、鉄の扉。

 その一つの扉の前で、章はまっすぐ立っていた。

 微動だにせず、拳を握り締め、扉の中を睨みつけるように仁王立ちになっていた。

 その様子を柱の陰からうかがい知った咲子は、章がどれだけ美珂を愛していたのか、痛いほど思い知った。

 仏頂面なのは妻に対しても変わらないらしいと聞き、「ちゃんと美珂を大事にしているんでしょうね?」と詰め寄ったこともある。章はいつも返事を濁していたが、美珂が「幸せだ。」と言い切るから、章を信じることにしていた。だが、信じるまでも無く、その愛は真実だったのだ。

 忍が章を心配するのが、よくわかる。

 今、章は確かにしっかりと立っているようだが、一方で、今にもあの扉を開けて、燃え盛る棺に抱きついてもおかしくないような気もする。無論、扉には鍵がかかっているし、そんなことはできるわけがない。しかし、そんな危うさが今の章の身体には感じられてならないのだ。

 咲子は、じっと息を殺して章を見守った。

 目を離してはいけないような気がした。

 そして、固く心に思った。

 章が泣かない限り、自分も泣いてはいけないのだ、と。

 美珂を失って一番辛い章が泣かないのに、他人の自分が泣いてはいけないのだ、と。

 だが、章が泣かないのは悲しみを耐えているからではないかもしれない。咲子と同じように現実を受け止められないか、まだ美珂の死を実感していないかのどちらかかもしれない。または、美珂の死を受け止めようと気を張っているからか。どちらにせよ、章の心は張り詰めた糸だ。いつか、切れる時が必ず来る。いつか、緩むときが訪れる。その時、章がどうなってしまうのか。

 美珂亡き今、章を暫らく見守ることが自分や忍の役割なのではないか・・・。咲子は、そう感じていた。


 7日間の慶弔休暇を終え、章が出勤した。

 いくら「見守る」とはいえ、章の家に居座るわけにもいかず、ただ心配するだけだった咲子はホッとし、同時に嬉しかった。このまま出勤しないのでは・・という、一抹の不安もあったからだ。

 章は課長に挨拶をし、また、葬儀に訪れた同僚にも挨拶をして回っていた。周囲の同情の空気が、課内を覆いつくしているようだった。

 章は、一番最後に咲子の所に来た。

「色々と、世話になった。ありがとう。」

 咲子は立ち上がり、頭を下げた。

「とんでもない。私は・・・何のお役にも立てませんでした。」

「君と祐善には、結婚式の前からずっと世話になりっぱなしだった。君たち夫婦は、俺たち夫婦のいつも支えだった。感謝している。」

 咲子は眉根を寄せて、やつれた章を見つめた。

「だいぶお疲れのようですね。どうか、ご自愛だけは忘れないで下さい。」

「ありがとう。」

 気の利いた言葉一つかけられない自分が恨めしい。いつも、そうだ。

 咲子は、気落ちしている人に何と声をかけたらいいか、いつもわからない。「それは咲子が気落ちしたことないからだよ。咲子は美人だし、頭いいし、何でもこなせるもんね。自分に自信あるでしょ?男に振られたこととか、片想いとか、経験ないでしょ。だからだよ。」学生の頃、女友達からそんな風にいわれたことがある。咲子だって、努力しているし、悩んでもいる。そんなに自信があるわけでもない。なのに、他人からはそんなふうに思われているんだ、と思うとショックだった。必死の努力をして掴んだ栄光でさえ、「生まれつきの美人は得だよね。」の一言で済まされてしまう。そりゃあ、色んな容姿が存在するこの世で、咲子は確かに恵まれているのだろう。だが、それに胡坐をかいているわけではないことを知って欲しい。

(それを言わなくても真っ先にわかってくれたのは、美珂だった。)

 だから、ずっと一緒にいても苦にならなかった。咲子が友達になりたいと思った唯一の女性だった。美珂を失い、咲子は再び独りの日を送ることになった。

 昼休み、女子トイレの個室に入っていたときのことだった。

 咲子は昔から女子が集団でトイレに行くのが嫌いだ。化粧直しのために洗面台に群がっている女子も嫌いだ。だが、昼休みの終了が近い時間帯には嫌でもそういう連中に出くわす。

 咲子が個室を出ようとドアに手をかけたときのことだった。

「ねえ、営業2課の松谷係長のこと聞いた?」

 このトイレは食堂の近く。色々な課の女子が出入りする。聞きなれない声の主は、見知らぬOLだろう。咲子は思わず手を引っ込め、個室の中で息を潜めた。

「聞いた。奥さん、死んじゃったんでしょ?」

「まじ?超かわいそー。」

「結婚半年だって。残酷だよねぇ。」

 OLは3、4人くらいで会話をしているようだ。

「でもさぁ、喜んでる女は絶対いるよ。松谷係長って愛想無いけどイケメンで有名じゃない?社内OL専用裏サイトの人気投票で5本の指には入るもんね。」

「そうそう。結婚するって聞いたとき、何人の女が泣いたことか。しかも相手の女って、はっきり言ってブスだったじゃん。」

「すぐスレに顔写真貼り付けられて、酷評されてたよね。地味で冴えなくて、『どこがいいの?』みたいな。」

「そうだよ、だから皆納得しなかったんだもん。」

「でも、これで振り出しに戻ったわけよね。」

「もしかして、狙っちゃう?」

「いい男なんて、すぐ誰かのものになっちゃうんだから遠慮してちゃ負けだもん。」

 その会話を耳にした咲子の怒りは、限界に達した。

 激しく肩で息をしながら憤りを抑えていたが、もう、駄目だ。

 咲子は個室のドアを勢いよくバンッと開けると、洗面台に並ぶOLの後ろに仁王立ちになった。OL達はドアの音と鬼気迫る気配にハッとして、恐る恐る振り返ってきた。

 咲子は社内でも有名な美人OLの代表だ。社員なら誰でも顔を知っている。長身の美女に見下ろされるように睨まれ、OL達はすっかりビビッて声も出せない。

「誰が、・・・誰がブスですって?」

 咲子はOL達の間に割り込み、さらに睨みをきかせた。

「松谷係長はね、女を見る目があるのよ。上辺ばっかり着飾って誤魔化してるような馬鹿OLには興味がないの。少なくとも、あんたたちみたいに人の悪口言って喜んでるような女なんて歯牙にもかけないわね。」

 咲子は更に、一人のOLににじり寄った。

「悲嘆にくれてる係長に下らないチョッカイ出したら、私が承知しないわよ。よく覚えておきなさい!」

 OL達は肩を丸めてそそくさと逃げ去っていった。

 まだ怒りがおさまらない。何かを投げつけたり、殴りたい気分だ。

(美珂・・・。)

 亡き親友を想うと、それだけで涙が出そうになる。だが、咲子は必死にそれを堪えた。

(駄目よ。誓ったじゃない、松谷係長が耐えてる以上、私も泣かないって!)

 咲子はそう自分に言い聞かせて、デスクに戻った。

 その日の帰り、忍が営業2課に立ち寄った。忍は咲子ではなく、章のところに向かった。

「よかったら、晩飯でも一緒にどうだ?咲子も誘って。」

 すると章は、力なく首を振った。

「いや、悪いが遠慮しておくよ。」

「松谷、お前、全然食べてないだろ。スーツ浮いてきてるぜ。」

「・・・食べられないんだ。」

「全然?」

「ああ。口に何か入れる気にならない。だけどそれを知った俺の父や美珂の両親が泣くんだよ。無理矢理病院に連れて行かれて、点滴打った。今も毎日会社帰りに病院に寄って点滴打ってもらうことになっている。」

「・・・そんな・・・。」

「多分、身体が生きることを拒否しているんだろうな。でも、自殺する勇気はない。」

「当たり前だろ!?自殺なんかしたら、一番悲しむのは美珂さんだ。」

「そうなんだよな。・・・わかってるから、どうにもできない。」

 それを聞いた咲子は、忍の後ろから章に話しかけた。

「一人でいると、よくないのではありませんか?私たちのマンションに、暫らくの間いらっしゃいませんか?」

「そうだな。松谷、そうしろよ。」

 章は、やつれた頬で微笑んだ。

「ありがとう、二人とも。すごく嬉しい。でも、一人で大丈夫だ。」

「そうは思えないが?」

「一人でいることに慣れて、実感しないと・・・美珂が死んだことを身体が納得しないんだよ。」

「松谷・・・。」

「頭で理解しても、心が、まだ受け付けないんだよ。頭も、口も、耳も、心も、手も足も、全部がばらばらな気がする。俺のものであって、俺の意思とは離れたところにある気がする。でも、それを乗り越えないと・・・いけないだろう?」

 力なく微笑む章の笑顔が切なくて、忍も咲子も言葉を失った。

 その日、忍と咲子は一緒に岐路についた。

 普段は仕事の終わる時間もバラバラだし、何より会社という公の場に夫婦というプライベートを持ち込みたくなくて、二人が会社で一緒にいることは殆どなかった。出勤も退勤も各自の都合のままに任せていた。しかし、今日は特別だ。

 地下鉄に揺られながら、忍は窓ガラスに映った咲子に向かってつぶやいた。

「咲子は、美珂さんが亡くなってから・・・泣いたか?」

 咲子は俯いたまま、首を振った。

「泣いてないわ。」

「・・・よく、耐えられるな。」

「耐えるわよ。だって、松谷係長が泣いてないんだもの。」

「松谷が?」

「そうよ。あなただって、見てないでしょう?泣いているところ。」

「そう言われれば・・・そうだな。」

「私、お葬式でも火葬場でも涙を見せなかった松谷さんを見て思ったのよ。一番辛い松谷さんが耐えているものを、他人の私が耐えなくてどうする?って。」

 忍は、その言葉に隣にいる咲子の横顔を初めて見た。

「咲子・・。」

 咲子はその視線を感じながらも、忍を見ることができなかった。

 何となく、言うべきでなかったことを言ってしまった感じがしたからだ。

 忍もそれ以上、何も言わなかった。

 苦しい気持ちを吐き出しても、何もならない。

 一番苦しいのが誰かわかっているから、苦しみきれないのかもしれない。

 その半端な立場が、逆に自分の首を絞めていく。

 辛いとき、やるせない気持ちのとき、いつも咲子は忍にすがっていた。だが、今回はそれを欲しない。忍に抱かれても、何の慰めも見出せないとわかっているからだろうか。もう二度と美珂を抱けない章を思うと、自分一人男の胸で安らぎを得ることなど許されないと思うからだろうか。咲子自身、理由などわからないが、不思議なほど心も身体も忍を欲していない。

 忍も、同じなのかもしれない。

 互いの会話も殆ど無くなった。

 だって、楽しい話などできない。

 仕事の愚痴なんて、美珂の死に比べれば取るに足らないことだ。

 今日あった出来事など、話すほどのこともない。

 二人の将来など、考えることさえ罪深い。


 咲子が風呂に入っている間、忍は間接照明一つ点けただけの薄暗いリビングで一人、ブランデーを飲んでいた。

 透明なグラスの中の琥珀色の液体を揺らしながら、忍はただ一つのことを考えていた。

 美珂の上司であり、章の親友である忍は、美珂が入院する直前に一通の手紙を受け取っていた。

ーーー 私が死んで、松谷がどうしようもないほど苦しんでいたら、渡していただけないでしょうか ーーー

(・・苦しんでいるさ。そんなこと、当たり前じゃないか。)

ーーー こんな重い役目をお任せするのは、大変申し訳ないことです。でも、祐善課長代理にしか、お願いできないんです。咲子では、駄目なんです。章がどんな風になるか、私にはわかりません。章の心を理解して、冷静に判断できるのは、課長代理だけなんです ーーー

(松谷には、必要かもしれない。所詮他人である俺達には、できることなど何もないんだ。美珂さんの残したこの手紙しか・・・松谷を救うことができないに決まっている。)

 忍はグラスの残りを一息に飲み干しすと、大きな音を立ててテーブルにグラスを置いた。ソファの上に仰向けに身体を投げ出し、目を閉じる。

(目を開けたら・・・すべてが嘘になっていないだろうか。そんな馬鹿げたことが、現実になってくれないだろうか。)

ーーー 私が死んでも、章には幸せになってもらわなければ ーーー

(それは、俺だって同じ気持ちだ。だけど・・・。)


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