話題のダイヤモンドプリンセス号の防疫失敗についてふりがなさんが感じた事を書いてみる
私は、その情報を巡って、あんぐりと口を開けたまま唖然とした。
岩田健太郎氏の告発が始まってから、クルーズ船ダイヤモンドプリンセス号の隔離は、続発する下船者からのコロナウイルスの検出と、検疫に関わった厚労省関係者への感染という報道によって、失敗と結論付けられようとしている。
その隔離方法が、あまりにも杜撰だったためである。
不完全な隔離によって、クルーズ船内では感染が拡大、結果として、検査も上手く機能しなかった。
指揮権を握った素人が、専門家を現場から追い出し続けたからだ。
字面からすると酷い物だが、岩田健太郎氏の告発の内容は、要約すれば、それだ。
私は余計な論点をそぎ落とす。
要約してしまえば、その方がより明確に考え易いからだ。
岩田氏の告発を聞き、私には直ぐ思い浮かぶ事があった。
大田伊久雄氏の総説「過去からの警告―1947年GHQフォレスターによる国有林野の未来予想―」である。
私がこの総論を知った経緯は忘れたが、ネット上にあるので、興味のある人は読んで欲しい。
技官官僚と財務官僚を対立軸とした問題の古典だ。
元となった1947年の論文の内容は、省庁の人事において、トップになれるのは、その分野に関わらず財務官僚であって、専門家たる技官ではないというものだ。
財務官僚には専門的な知識はなく、考える事は出世のみで、それ故、財務官僚のみが出世出来る戦前日本のシステムは、アカデミックを利用した民主的な物にはなり得ないのだと言う、GHQによる日本の戦後改革の元となった話である。
改革後、林野庁は、慣例的に財務官僚と技官が交互に次官になるように変わった。
今回のダイヤモンドプリンセス号の話題、何も知らない素人が指揮権を持って、専門家を現場から追い出すという構造から、この話を思い浮かべた人は多いのではないだろうか?
※技官の話は2006辺りだったかにそこそこ盛り上がった
厚生省で医療に携わる技官は、医系技官と言われる。
実はこの官僚の技官問題、政治分野では盛り上がったまま、改革として、2017年には、技官系に次官級の席「医務技官」が新設されている。
※この技官問題の議論自体は、進展するつれ、技官官僚側にも相当に問題があり、技官をトップに据えたからと言って、民主的な発展は見られないのではないかという論点を生んでいる、検索するとより面白いだろう
つまり、素人が指揮権を握り、専門家を現場から追い出さないよう、日本の改革は進んでいたと言うのだ。
では、何故ダイヤモンドプリンセス号の隔離は、上手く行かなかったのだろうか?
某副大臣が、簡単な功績だと喜び勇んで飛びついたクルーズ船の隔離は、どうあっても結果として失敗した。
感染対策専門家のお墨付きという、箔をつけるために呼び出した岩田健太郎氏の告発がなくてもだ。※現時点で下船者二人がオーストラリアの検疫で引っかかっている
外部からの圧力も相応にあったとは思われるが、結局、この手の政治主導 、よく解っていない功績の欲しい上司(しかもそれは政治家)が、現場に行った事によって、クルーズ船の隔離計画は瓦解したのだろう。
そして、担当した官僚のトップ、技官だったのだが、今回は悪かった。
感染対策には、次長相当の医系技官が当たることが出来たが、彼女は感染対策の「専門家」ではなかったのだ。
状況が危機的であればあるほど、政治主導には、致命的なリスクが生じるという教訓かもしれない。
インバウンドと共に増えるであろう感染症は、社会に及ぼす影響の大きさからいって、対策側が常に危機的な状況に晒されていると言える。
そして大抵の政治家の場合、まず専門家の種類が解らない。
これは、かつての財務官僚と技官の問題をそのままに、より拡大した構造となっている。
アナロジー的観点からすれば、前に通った道の繰り返しという事だ。
政治主導にも節度をという結論になるだろうが、かつての技官官僚と財務官僚という垣根よりも、より専門性の深い、独立した部署の新設が望まれるのだろう。
まぁ、件の岩田氏のやりとりを見て、CDCだろう? 知っているよという人も多いだろうが。
しかして、専門性の高い部署が仮に今回あったとしても、コロナウイルスのような感染力の高く重篤な感染病には、高度な政治的決断は必要不可欠だったと言える。
日本の政治は、一役所に高度な政治的権限を、持たせる事が出来るのだろうか?
恐らくは、一先ずとして、政治的決断は、政治家が受け持つ形になるだろう。
必然的に、今回の失敗は、ハード面に確たる問題はなく、ソフトにあたる政治力、専門性の両面が不足した事で起きた物だと言うことになる。
感染病に対するその手の政治家の能力は、育てる事が出来るものなのだろうか?
私はこれを出来ないと見る。
中国のコロナウイルス対策では周近平が「決断」したが、政治生命をもかけるこの手の「決断」は、民主主義と致命的に相性が悪い。
ある種の命をかける決意など、教育で持たせる事は出来はしないからだ。
結果として、日本の感染病対策は、多少ハードが転換したとしても、危機に対してソフト面が脆弱なままの可能性が高いと予測する。
まさに今、我々日本人がコロナウイルスで直面している問題が、政治面のソフトによるものであろうとも、それを認識し、肯定するに難しいという現実があるからだ。
アメリカがそれを出来たのは、学界の価値が、日本のそれより遙かに強力であるからと思われる。
その根拠は、各大学の収益体質の構造が違いにあるからかもしれない。
収益体質からすると、日本の学界は、近年むしろ政治的価値において弱体化しているとも言えるのだ。
学界の政治的価値の向上、政治権限の委任、部署の新設等のハードルを越え、感染病対策でドラスティックな転換が出来ないのであるならば、次の危機で、政治家による政治的決断は実行される事は無いだろう。
それ以前の問題となるであろうからだ。
実際、私は、今回のコロナウイルス対策で政治的決断の有無、そのものを危惧している。
新たに生まれた国際社会のリスクに順応しないのならば、我々に出来る事は、国際社会から引き籠もるか、次の感染病が出ないようにと、ただ祈り続ける事のみなのだ。
そのような信仰の強要は御免被りたいと思うのである。
さて、後書きで色々書かせていただこうかと思います。
新型コロナウイルスの記事は一度断念していまして、内容はインフルエンザの流行と近似するであろう、今年はコロナウイルスの影響か、手洗いうがいでインフルエンザが少なくなっているらしい、故に局地的な流行で終息するであろう、その実数は? といった物でした。
わたくしことふりがなは、定評のある危険厨でして、福島原発爆発時に、即水の確保と出入口の目張りですね、これをやってます。
あの情報下でこれを出来た人、多いでしょうか?
その基本危険厨がお送りする安全宣言というお題目でしたが、書いている最中にクルーズ船の感染率がおかしな事になりまして、かつ、一部の研究所の予測する感染力がインフルエンザを斜め上を飛び越えました。
これは出せないぞと、コロナウイルスとは相性が悪いなとお蔵入りしたのですが、結論としてコロナウイルスの終息に対して、個人的な予測では悲観的です。
※オブラートに包んでみた、因みにコロナウイルスと相性がよくても困る
その内容だと何も書けないので、今回のコロナウイルスの結末としての作品と相成りました。
クルーズ船の総論にしかなりませんけれどね。
まぁ、ダメになるであろう所は書きませんが、仮にコロナウイルスが流行しても、物流は大丈夫だろうとの事なので、日本も大まかには大丈夫でしょう、非常におおらかな定義での大丈夫という意味でですが。
誰も何も言えない時に、ぶっちゃける事が正常性バイアスの解き方でもありまして。
※パニックはどうなのかな、あれは何バイアスなんでしょうか?
自分で情報から遠ざかり過ぎる人ほど、落差が激しいと個人的には思うんですよね。
ですので、サプリとしてこんな作品はいかがでしょうか?