孤独な明滅
梅雨の合間。夏至のちょっと前の、日が長くて、涼しくて、気持ちの良い風の吹く夕方。
俺は仕事を定時に切り上げ、一人飲み屋で軽く引っかけた後、バスに乗って岡崎までやってきた。
東に少し歩いて、哲学の道に入る。
今晩は、蛍を見にきたのだ。
疎水沿いの哲学の道は、蛍の名所。それは京都人にとって常識だ。
季節の風物詩をあと何回見られるか、というところまで歳を重ねた俺は、ふと思い立って、ここに来た。
職場の後輩を誘って見たが、仕事が片付かないと言って断られた。
まー、仕方ないな。
岡崎方面から、哲学の道を北上する。
うーん。
いないぞ。
一匹もいない。
疎水は暗く、水面に光が反射するばかりで、蛍が舞う気配はない。
以前、見に来た時には、もう少し舞っていたのにな。
以前?
以前って、何時だっけ。
あれはそう、四半世紀ほど前、あの女と仕事帰りに見に来たんだった。
「もっと、ばぁーって、いっぱい舞ってるんだと思った」
「そうだねー。少ないねー」
「少ないなー」
「私の田舎なら、もっといたなー」
「お前の田舎と、京都比較すんな」
「む。変なところで都人」
「わはは」
などと、意味のない会話をしながら、俺と彼女は哲学の道を銀閣寺方面からぶらぶらと南下した。
「ここ、多くない?」
「そうだな」
「綺麗だね」
「まあな」
「ここに座って飲まない?」
「そうするか」
俺と彼女は、タイミングよく空いていた石のベンチに腰を下ろして、コンビニで買っておいた缶ビールを開けた。
「ちょっとぬるくなってるな」
「だねー」
そして俺と彼女は、蛍をそっちのけで、仕事の話や、テレビドラマの話をして、ビールを飲んだ。
他愛もない話が、俺の疲れを癒していた。
彼女は、俺の職場の同僚で、同期で、飲み友達で、……愛人だった。
俺は、ぶっちゃけ蛍見物よりも、他のことに思いを馳せていた。
このビールを飲み終わったら、岡崎まで歩いて、それから彼女をラブホに誘い、彼女と思いっきり背徳的なセックスをして、快楽にのめり込む、早くそうしたいなー、としか、考えていなかった。
事実、その後そうした。
俺は、いつものように強引にあいつを誘い、ラブホに入るやいなや、いつもの様にあいつを蹂躙し、ぐちゃぐちゃに濡れさせ、しゃぶらせ、乱暴に突いて、声が枯れるくらい鳴かせて、何度も射精した。
そして、ひとしきりして気がすむと、送るわ、と言ってタクシーに乗せ、肩に小さな頭を乗せて甘えるあいつを送って、また明日な、と言って、妻の眠る家へとタクシーを走らせた。
そんなことがあったなー。
俺は、ちょっと疲れて、ベンチに腰を下ろした。
そのベンチがその時のベンチかどうかなんて、覚えていない。
それにしても、蛍はいなかった。
俺はスマホを開いてググってみた。
どうも、少し時期が遅かったみたいだ。
どうりで、閑散としているわけだ。
……そういえば、あいつは、蛍の舞う時期を、よく知ってたんだな。
あのスマホのなかった時代に。
どこで、調べたんだ?
ネットで調べたんだろうか。
それにしても、今より便利だったわけではないだろう。
あいつは、あの夜のために、俺と蛍を見るために、色々と下調べをしてくれていたのだろうか。
俺は、あいつのそういう頑張りを当然のように受け止めて、蛍をちゃんと見ないで、性欲を満足させることしか考えていなかった。
あいつの想いをしっかり受け止めることなく、甘えてばかりいたのだろう。
ひょっとしたら、後で抱かれるかもしれないことも考えて、銀閣寺の方が回ったのかもしれない。
それだけ、あいつは俺のことを考えていてくれたのだろう。
そういえば、蛍の日は絶対空けといてよ?と、何度も念押しされたかもしれない。
いや、それは違うイベントだったかもしれない。
もう、分からない。
確かめようもない。
あいつは、もう死んでしまったから。
寂しがりやのあいつは、酒に溺れて、仕事を休みがちになり、そして辞めた。
俺は、気まぐれにあいつの酒に付き合い、あいつを振り回しただけだった。
そのうちあいつは、寂しさに紛れてやりだしたネットゲームのオフ会で、気の合う男を見つけて、結婚した。
あいつが結婚してくれて心底安心した。
でも、あいつの寂しさは、あいつの心に張り付いて離れなかった。
あいつは結局、酒のせいで肝硬変になり、こじらせて肝がんで死んだ。
俺のせいだったんだろうか。
いや、そうじゃないはずだ。
そうだと思いたくない。
俺は、立ち上がった。
少し足元がふらふらする。
最近、めまいがして、少し足がおぼつかない。
あいつと飲んでいた時のように、酒の量が呑めなくなった。
何時も体がだるい。
記憶も頼りない。歳だと思う。
俺はトボトボと歩きだした。
「蛍、いないねー」
「カエルに食べられたんだよ」
というアベックの声が聞こえた。
蛍がいない。
残りの人生考えたら、もう、何度見られるか分からないのに、蛍を見る時期を逸してしまった。
俺は、この歳まで生きて、なんの意味があったんだろう。
あいつは、どんな想いで、俺と付き合っていたんだろう。
泣くこともできないくらい、虚しく感じた。
ふと見ると、砂利道に光る点があった。
蛍だ。
一匹の蛍が弱々しく、砂利道で明滅していた。
如何にも弱っていた。
俺は、その蛍から目が離せなくなった。
なぜ、水辺でなく、こんな砂利道で、孤独に光ってるんだ。
お前一人が。
ただ一人で、あるべきところでなく、過酷なところで寂しさを感じながら、弱っていかなければならないんだ。
誰のせいで……。
答えのない問いを胸に抱えて、俺は蛍を見ていた。
やがて、その光は絶えた。
「ごめん、な」
その言葉を聞いてくれる人はいない。
聞かせられる人はいない。
俺は、死んだ蛍を摘んで、疎水の中に放り込んだ。
でも、この思いはきっと捨てられない。
消えたりしない。
時間に喰われたりもしない。
俺の残り少ない人生の中で、何度も弱々しく明滅しては、俺の心をほんのりと温め、寂しく後悔させるのだろう。
(終)