序幕 All I Need Is
草いきれの匂い。雲ひとつない蒼空。微かに聞こえる川のせせらぎ。
七の月もまだ半ばの夏空は呆れるほどに青く、木漏れ日の隙間から見える太陽は見てくれと言わんばかりに光り輝いている。
川辺の草が風に靡かれて彼の頬やふくらはぎを撫でる。心地良い風が肌を優しく翳める。絶好の昼寝日和だ。
「ふわぁ〜〜……」
「相変わらず気持ちよさそうに昼寝してるね〜」
彼の顔に影が差した。覗き込むように幼馴染みがこちらを見ている。
「まぁな〜」
「隣、いい?」
「だめって言ったら?」
「その時は〜〜」
彼女はじろりと彼の顔を見ると、飛びつくように彼の脚を自らの脚で抑えた。
「こうっ」
脇腹に手を伸ばした。
「うひゃっ」
「こしょこしょこしょ〜〜」
そして、彼の身体を弄ぶがごとく脇腹をくすぐった。それはもうくすぐりまくった。
「やめっ、ロメリーっ、おまえっ! 俺の弱点知っててやってんなっ!」
彼は笑い混じりに叫んだ。
「もっちろん」
ロメリーは手を引っ込めて楽しそうに笑った。
「はぁ、はぁ……」
軽く呼吸困難になりかけている彼をにやにやと見つめるロメリー。彼は呼吸を整えると口元に手をやって、ロメリーを見つめ返した。
「おまえこそ、ほんと楽しそうだな」
「まぁね〜」
ロメリーは彼の真似をするように言った。そして、彼の隣に腰を下ろした。
「で、なんの用?」
「なんの用とは、不躾すぎるんじゃない?」
ロメリーは一瞬だけ不服そうにそっぽを向いた。だが、すぐに彼の方に向き直ってさっきからちらちらと見えていた籐かごを彼の前に出してみせた。
「ほら、お弁当。また忘れたでしょ」
「あ〜〜。悪いな。うっかりうっかり」
そう言って彼はその籐かごを受け取ろうと手を伸ばした。だが、彼の指先がかごに触れようとした瞬間に、ロメリーが腕を引っ込めて、お預けするように籐かごを胸の前に収めた。
「とか言って、いっつもわざと忘れてるでしょ」
図星だった。彼はロメリーにお弁当を手渡しして欲しいがためにいつも教会に弁当を忘れたままにする。何か言わなければ、と思って次に言うべき言葉をその瞬間考え、口に出そうとしたが、それをロメリーが遮った。
「ま、別にいいけどね。こうしてわたしから渡せるわけだし」
ロメリーはいたずらっぽく笑って彼に籐かごを渡した。
「風、気持ちいいね」
「一緒に昼寝するか?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ロメリーは目を瞑って背に少しだけ横になったが、すぐに身体を起こした。
「って冗談」
「こんな天気いいのに。もったいないな」
「きみと昼寝したいのもやまやまだけどね」
ロメリーはちょっとだけ眉の端を下げてから苦笑いした。
「えっと、それじゃ、わたし戻らなきゃだから」
「おう。弁当、ありがとな」
「うん。じゃあ、お仕事がんばってね」
ロメリーは手を振って、着慣らした巫女の装束を揺らしながら去っていった。
はぁ〜あ。お仕事、か。もうすぐあいつも戻ってくるんじゃないかな、と頭の中でぼやいていると、そんな予感はすぐに的中した。
「交代だよ」
少し離れた岩の上からひょいと身体を乗り出して、そいつが姿をみせた。
「問題は?」
「特になし。至って平常。いや〜、平和だね〜」
その少年はのんきな、間延びするような声でそう言った。
「あれ、お昼まだだった?」
「ああ、悪い。今から食うからさ」
「もう少し見張り頼むわ、って言うんだろ?」
「おお、よく分かったな」
「伊達にお前と一緒に何年も門番やってないよ」
少年は肩をすくめてみせた。そして、よっと岩から下りて彼の近くに寄った。
「見張りならさ。別に大丈夫だけど」
「いやぁ、助かる」
そいつは目を細めて、彼の持つ小さな宝箱に目をやった。
「それ、またロメリーが届けてくれたの?」
「ああ〜〜……。ま、そんなとこ」
「ふ〜ん」
少年は彼から少し離れた土手の上に腰掛けた。
「お前、ロメリーのこと好きなの?」
「はぁ?」
彼は存外落ち着いた様子で声をあげた。
「あれ? 違う?」
「好きに決まってんだろ」
「ぶふっ!!」
彼がはっきりときっぱりとそう言い切ったので少年は吹き出してしまった。
「もちろん、ロー。お前のことも好きだぜ」
「ああ、なるほどね……。そういう好きね〜……」
ローが呆れたように息を吐いて、腰を上げた。
「じゃ、持ち場に戻りますよ、俺は」
「おう。あと10分くらいでそっち戻るわ」
「了解。あとで蜂蜜酒おごりね」
「お前好きな、それ」
彼のつぶやきに手を振って返して、ローは仕事場へと戻って行った。
「そう言えば……」
あいつと昼飯って食ったことないよなぁ。夕飯はしょっちゅう付き合ってやってるけど、見張りが交代制だから昼飯を一緒に食うとか物理的に、というか規則的に不可能だよな。
「あいつと昼飯が食える日が、いつかくるのかな」
彼は特に考えなしにそんなことを呟いた。
それから、ロメリーから貰った籐かごに目を下ろした。包みを解かなくても、その中から芳醇で香ばしい香りが漂って、それが鼻を掠めていく。
嗅いでいるだけで腹がいっぱいになりそうな、そんな感覚にも陥る。
「ま、食わないと腹は脹れないよな」
彼は籐かごの蓋を開けた。中にはチーズと塩漬け肉を挟んだ薄切りのヤチ麦のパン、干した果実、それに朝絞ったであろうミルクが入っていた。
目の前のご馳走を前に、ゆっくりと食べるなんて上品な真似はしない。彼はその細い身体のどこに入るのかというほどの健啖ぶりを発揮した。
「よし」
少しだけ汗に濡れた前髪を掻き上げると、両足を真上へと伸ばし、えいやっと勢いをつけて起き上がった。
「じゃ、仕事に戻るかな」
彼は満たした腹をさすりながら、ローのいる場所へと向かった。




