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scene.02『氷解』『蝉時雨』『陽炎』



 その日は暑く、照りつけるような夏の日だった。アスファルトが溶けるような暑さ。暑い、というよりももはや熱い。

 肩にかかった水筒を手に取り、ごくりとお茶を飲む。あちぃ。

 背中のランドセルもほっぽって、今すぐ家に駆け出したい。

 でも、当然そんなことは出来ないし、ランドセルは重いし、なんで重いかっていうと今日が終業式で明日から夏休みな訳で、僕は色々と持ち帰らなければいけなかったからで、つまり自業自得ということで。


「ぁっつぃ……」


 思わず口から零れる、陽炎(かげろう)のような消え入る声。ここが地獄なのだろうか。きっとそうだ。そうに違いない。僕は、それに値する罪を犯してしまった。当然なのかもしれない。……なんて思ってる場合じゃない。倒れるな、これ。やばいわ、これは。うん。僕でも分かる。

 日陰で涼もう。

 頭の中で咄嗟に考えついた最高の案。

 水分補給だけじゃこの暑さには耐えきれない。僕は帰り道の途中にある、小さな神社に立ち寄った。道の横にあるのに、森の中にあるから凄い分かりづらいけど、僕はその場所を知っていた。帰るのが嫌な時、いつもここで時間を潰していたのだ。

 僕は申し訳程度の小さな鳥居をくぐって社に向かって歩く。


「あれ……?」


 誰かが、いる。誰かが。日差しが強くて、よく見えないけれど誰かがいるというのは分かった。人影、みたいな? というか、このど田舎のドマイナー神社に自分以外の人間が……?

 僕は息を殺して、慎重に、そろりそろりと歩み寄った。近付くと、社の縁側に何があって、どんな人がいるのか分かった。 

 まずあったのは赤いランドセルだ。そしてその隣に座っていた。座っているのは当然、人だ。人、というか女の子だった。肩まで伸びた髪が木漏れ日に照らされている。俯いていて、逆光になっているのと影で隠れているのもあって顔はよく見えなかった。


「……だれ?」


 女の子は声を発した。澄んだガラスのような声だった。たぶん、というか絶対、僕の方を見て言っているのだろう。

 知らない人に話しかけてはいけない、というどこかで聞いた教訓が頭をよぎった僕は二、三秒そこに固まって押し黙ってしまった。

 その瞬間、女の子がどこか不安そうな顔をした。眉をひそめているというか、こちらを訝しんでいる感じだ。


「え、えっと!」


 僕は咄嗟に声を出した。なんて言えばいいのかは分からなかったから、思ったことをすぐに言葉にした。


「ごめん、ここに誰かいると思わなかったんだ」


「そ、……そう……」


 おとなしい子だな、と僕は思った。口下手ながら、どこか僕の中で話をリードしなくては、という使命感が芽生え始めた。


「ねぇ、ここで何してるの?」


「……わたしは、……───」


 女の子は言葉を詰まらせた。言いにくいことがあるのだろうか。僕は、善人であれと常日頃から自分に言い聞かせいるので、こんなときにどう言えばいいかはなんとなく分かった。


「あ、えっと……別に、言いたくないなら言わなくても大丈夫」


 そう言って笑った。女の子は顔を上げてこちらを見た。鼻がすっと通っていて、目が大きい。子どもながらに、かわいい、と思ってしまった。そして、その顔に既視感はないものの、妙な感覚を覚えたのを覚えている。


「僕は少し休みにきただけだから」言って、ランドセルを肩からおろした。「隣、大丈夫?」


 女の子は少し戸惑ったものの、最終的には

うなずいてくれた。それから僕は宣言通りその隣に座った。

 木陰にあった縁側はひんやりとしていた。

 僕は水筒を手に取って、口につけた。中に入った氷はすべて溶けてしまっていたけれど、麦茶は冷やされたままだ。

 喉を通る麦茶の心地良さに浸りながらも顔を横に向けると女の子と目が合った。僕は熱されたフライパンに誤って手を触れてしまったときと同じように反射的に目を逸らして、顔を逸らした。

 三秒後あたりに自らの行いを後悔した。

 知らない女の子と境内に二人きり。

 なんてことをしてしまっているんだ、僕。

 僕はそれなりに人見知りもするし、口数も別段多くないけれど、今まで十一年間の人生、難なく過ごして来れたとは思う。

 でも、今は違う。今までにないパターンだ。どうすればいいのか、分からない。隣にいる子も口数が多くないのか、ずっと黙りこくっている。

 ああ、どうしよう。これ。なんか言った方がいいよね。そうだ。何か、言おう。何か言った方がいい。なんとなくだけど、その方がいい気がする。


「あ〜……」


 ……あ?

 あ〜ってなに。

 なんなんだよ。何を言おうとしてるんだ、僕は。

 感嘆詞じゃなくて何かちゃんと言葉になることを言えよ、僕。……そうだ。ひらめいた。こう言えばいいのか。


「……飲む?」


 僕は水筒を持ちあげながら言った。


「さっき見てたから。のど、乾いてるのかなって」


 言って、失敗したかも、と思った。あまり人と同じ水筒なんてあまり使いたくないよな、と思ったからだ。

 でも、そんな僕の思惑とは裏腹に女の子はこくこくと大きくうなずいた。

 僕はなんだか圧倒されて、水筒を手渡した。女の子がおそるおそる、みたいな感じで僕の水筒を両手で受け取った。それから水筒のふたを、きゅぽん、と開けて飲み口に唇をつけてから、両手でそれを掲げるように(あお)った。

 よっぽど喉が乾いていたのだろう。女の子は飲み干さんといわんばかりにごくごくと音を立てて僕の水筒の僕の麦茶を僕の隣で飲んでいた。その頬に汗が伝った。

 充分なほどに飲んだあと、女の子が水筒から唇を離して、ふたを閉じた。


「ありがとう」女の子はそっと微笑んで水筒を僕の手中に戻した。


「そんなにのど乾いてたの?」


 好奇心に負けた僕が思わず聞くと、女の子は真っ白な頬を少しだけ朱に染めて「うん」とうなずいた。


「そこの公園に水道あるのに」


「そう、なんだ」


 女の子は少し驚いたように目を丸くした。


「知らなかった」


「知らなかったって……。もしかして、地元の子じゃない?」


「うん。ちょっと歩いたところなんだ」


「そっか」


 僕は深くは詮索しなかった。

 この子が何か理由があってここに来ているのは確実で、その点からも、口数が多くないのもそれが原因だと分かったからだ。


「でも、その、本当にありがとう」女の子が僕の方を見て言った。最初の印象よりはいくらか生気があるように感じられた。


「大丈夫。それよりも気をつけた方がいいよ。脱水すると熱中症で死んじゃうこともあるんだから」


「じゃあ」女の子は、にっ、と笑った。「きみは命の恩人だね」


 その近距離の笑顔に不覚にも心臓が跳ねた。僕はその動揺が表に溢れてしまわないように平然を装いながら、


「そうだね」


 と言ってみせた。すると、女の子は嬉しくなったのか顔色を明るくした。


「ねぇ、何年生?」


「僕?」


「そう」


「五年、だけど」


「ほんと?」


「うん、別に嘘つく必要ないし」


「嬉しい」


「え、なんで?」


「わたしも五年だから」


「あっ、そうなんだ」


 当然、偶然なのだろう。まぁ見た目からして同年代かそれくらいだとは思ったけれど、まぁときたまに同じ年齢なときくらいあるよね、みたいな感じだ。

 というか、なんで嬉しいかには答えないのか、さっきの。一般的に同じ学年だと嬉しいものなのか? そのあたりは、結局よく分からなかった。


「名前、なんていうの?」


 女の子が乗り出してきて、僕の顔を覗き込むように言った。


「のう、と」いきなりの問いかけに少し、いやかなり動揺して噛んでしまった。


「ノート?」


「いやごめん。ちがう。濃野(のうの)濃野(のうの)綾都(あやと)


「……なるほど」


 女の子は小さな声で呟いて、何かを思いついたように僕の顔を見て口を開いた。


「じゃあ、ノウトくんだね」


「へ?」


「『のう』のあや『と』だから、ノウト」


 女の子は少しだけキメ顔で言った。

 その呼び方の理屈はかなりよく分からなかったけれど、僕はその呼び方がなんだか気に入ってしまって、小さく頷いた。


「きみの方は、なんて名前なの?」


「わたしは糸雀(りあ)有栖(ありす)糸雀(りあ)だよ」


「アリス、リア……」


 僕は反復して言った。


「えっと……、どっちが名前?」


 すると、リア(仮)が吹き出すように笑った。


「どっちも名前だよ」


 言われて、僕は恥ずかしくなった。意図と意味が分かったのだ。


「有栖が苗字で、糸雀が名前」


「あー……」僕はようやく理解できた。「そういうことね」


「そういうこと」


「じゃあ、略してアリア?」


「無理やりだね」


「お返し、みたいな」


「あ、ごめんね」有栖糸雀は少しだけ眉根を下げた。「ノウトくんって嫌だった?」


「いや別に」僕はすぐに首を振った。「なんか、新鮮なんだ。あんまりあだ名とかで今まで呼ばれたことがなかったから」


「そっか」


 有栖糸雀は嬉しそうに微笑んだ。感情の起伏が激しくて、見てて楽しい子だな、なんて僕は思ってしまった。そんな僕の様子を見た有栖(ありす)糸雀(りあ)はいたずらっぽい顔をして手の上に顎を置いて言った。


「じゃあいっぱい呼んじゃお」


「まぁ、ほどほどにね……」



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