scene.11『備忘録』『夕景』『金糸雀』
夏の日の生ぬるくも心地よい夕暮れの風が頬を撫でる。視界の端で自分の黒い髪が揺れる。
中学校、部活終わりの帰り道。
俺は自転車を押しながら、その隣に制服姿のきみはいた。
「ノウトくん」
ときみが名前を呼んだ。俺は黙って、きみの方を見た。
「この世界にはさ。どうしようもなく理不尽なことが塗れてて、その理不尽と向き合いながらも、わたしたちは生きていかなきゃいけないんだよ」
「どうしたんだよ、突然」
「突然、ではないでしょ」
「いや、突然だろ。『突然』って辞書で引いてみるか?」
「突然じゃないもん」
きみは少し頬を膨らませた。
「ごめん、少しいじわるだった。でも、さっきまで映画の話してたのに、いきなり脈絡なさすぎるだろ」
「脈絡なくなくないよ。だって、わたしたちは地球上の日本という国で、今ここに生きてるんだから」
「それは、まぁ確かにそうだけど」
「生きるってなんだろうね」
「生きる……か」
俺は突拍子もないその問いにはヤボを入れず、自転車を押しながらも推考した。
「呼吸をしてれば生きてるのかな。心臓が動いていれば生きてるのかな。それとも脳が機能していれば生きてるのかな」
「どうだろう。でも、死んだような目、とかさ。死んだように突っ立っている、みたいな言葉があるように、心臓が動いていても、呼吸をしていても死んでしまうようなことはあると思うな」
「そうそれ」
きみは俺の方を見て少し笑った。
「死ぬ、っていうのがたくさん意味があるのと同じで生きるっていうのにもはたくさんの意味があると思うんだ。つまり、わたしたちの生死には物理的なものと精神的なものがあるってわけ」
「『生きる』と『死ぬ』は、体と、それから心の問題も包含してるってことか」
「そういうこと」きみは俺の方を見て指を立ててみせた。「さすがノウトくん」
「……まぁ、うん、言いたいことは分かったけどさ。これ、なんの話?」
「え? だから、映画の話でしょ?」
「はぁ?」
「だから、『死ぬ直前になんて言うのがかっこいいか』って話してたじゃん」
「途中で飛躍しすぎじゃね……?」
「ふふふ。それでわたしは決めたよ」
「え、何が?」
「わたしが死ぬ前になんて言うか、だよ」
「そんな縁起でもないことを言うなって」
「いいじゃん。決めるくらいならさ」
俺は細いため息をついて、それからきみの顔を横目で見た。「……で、最期の言葉。何にしたんだ?」
「教えない」
「はぁ〜?」
「だってそれじゃ意味ないじゃん」
「意味ないって、………」
「願い事、人に聞かれたら叶わなくなるのと同じ原理だよ」
「……どんな理屈よ」
俺は呆れた顔できみを見た。
「相変わらずだな、有栖は」
「ふっふっふ。もっと褒めてくれてもいいんだよ〜」
「いや褒めてないし」
有栖のいたずら好きは今も昔と変わらない。途中でたくさんの紆余曲折があったけれど、そこだけは変わらない。そういうところが俺は、……なんて、思ったりもする。
「ねえ」
有栖は俺の顔を覗き込んできた。
「ん?」
「名前で呼んでよ」
「有栖?」
「違うって。下の名前」
「やだよ」
「なんで?」
「意味は、特に」
「特にないならいいじゃん」
「特にないなら呼ばなくてもいいだろ?」
「え〜、いいじゃん一生のお願い。ね? 下の名前で呼んで?」
「一生のお願いここで使っていいのかよ」
「それくらい重大ってこと」
「なんか、名前を呼ばれたい深い理由はあるんだろうな?」
「あるある」
「なに?」
「呼ばれないと死んじゃう」
「意味わからん」
「あー、ちょっと!」
俺は有栖を置いて先を歩き出した。有栖が少し後ろについてくる。
いつも通ってる橋の上あたりで俺は不意に足を止めた。目を薄めて、遠くの方を見る。
ちょうど夕日が沈もうとしている。
川面は揺れる水面に乗じてオレンジ色に光っていた。
俺に追いついた有栖が隣に立って、欄干に左手を乗せる。
「リアルだなぁ……」
と有栖が小さく呟いた。
まるで、俺たちが幻想の中にいるんじゃないか、と錯覚を起こすくらい綺麗な夕焼けだった。いや、これリアルだからな、とは瞬時には反応が出来ずに、
「……リアルだな」
と思わず呼応して呟いた。
「なんだか、あの時を思い出すね」
「……どのとき?」
「神社で待ち合わせしてたとき」
「懐かしいな」
「……あの日からずいぶん経ったけど、ノウトくんが変わってなくて安心した」
「俺は、変わったよ」俺は有栖の方を見ずに言った。「あの時みたいな誠実さも純粋さも、今はない」
「そんなことはないよ」
有栖は即答した。
「いつだってノウトくんは誰かの為を思ってるって、わたしは知ってるから」
俺は、思わず目頭が熱くなるのを隠すように下を一瞬向いて、それから前を向き直した。
「糸雀も変わってなくて、安心した」
「まぁね」
有栖は───有栖糸雀はそう言ってから、驚くようにノウトの方を見た。
「──あれ、……今、名前……」
「俺──」
そこまで言って、かぶりを振った。そして、きみの方を見る。
「俺も、変わろうと思ってさ」
「……そっか」
糸雀はいつかのように笑ってみせた。
夕暮れに輝いたその笑顔を俺はいつまでも眺めていたかった。




