013 『なりかけ』
「……え? 嘘ですよね? マジで? 本気で言ってます?」
「俺が嘘を言うと思うか?」
「はい」
ノンが俺の目を見ながら、すっぱりとそう答えた。
どうやら信用されていないらしい。
まあそれはこの際どうでもいいことだ。
「――ここで能力を使ってもらう」
俺とノンがいるのはさきほどユリウスが熊を捕まえた先だ。
ウィルの情報通り、そこには熊がいた痕跡があった。
「火を焚くから、やっといてくれ」
木々に燃え移らないよう、開けた場所に乾燥した枝を積み上げる。
ノンはそんな俺に涙目になりながらすがりついた。
「本当に使うんですか!? これ――うんこじゃないですか!!」
ノンが指さした方にあるのは、こんもりと盛られた熊の糞だった。
ちなみにウィルは別働隊として、残りの罠にかかった小動物がいないかを確認してもらっている。
「――お前の能力。『異臭』だったか。……たしか以前牛乳を腐らせたんだったな」
「え? あ、はい」
彼女は俺の言葉に頷く。
それは以前彼女から聞いた話だ。
俺は話を続けた。
「スキル判定の魔術は天から言葉が降ってくるような啓示を受ける魔術じゃない。もっと漠然とした雰囲気――形や色に似た感覚でわかるらしい。つまり、お前の能力は似たような雰囲気なだけの別の能力ということもありえるわけだ」
それは魔術教師であるエイリオに聞いた話だ。
追加課題の相談と称して、いろいろな情報を聞いておいた。……それ以上に嫌味も言われたのだが。
「そこでお前の能力は『異臭』というよりも『腐敗』に近いものなんじゃないかと思ってな。……魔力の扱い方は本人の認識によっても改善する。『腐敗』させようと思いながら能力を使ってみてくれ」
「『腐敗』……」
どっちにしろ女子には相応しくない能力な気はするが、使えるものは使ってやる。
彼女は迷うような様子を見せつつ、上目遣いでこちらを見た。
「でもうんこなんか腐らせるなんて……。こんなことしてたらわたし、お嫁のもらい手がいなくなっちゃいますよ……」
「……大丈夫だ、安心しろ」
俺は彼女に向き直り、真っ直ぐとその瞳を見つめた。
彼女が二度瞬きをし、「えっ、あの」と声を漏らす。
俺はしっかり彼女と目を合わせつつ、口を開く。
「もう遅い。ゲロ吐いたりやかましかったりといろいろ手遅れだ。気にするな」
「……うぉおー! 異臭パンチッ!」
「やめろ! しゃれにならん!」
俺はノンの拳をかわしつつ、学校の備品庫から借りて来た魔力のこもった火打ち石を取り出した。
それは火付け石と呼ばれる簡易魔道具の一種で、何度か使える着火器具だ。
「ほらさっさとやってくれ。時間がないぞ」
「……ちくしょー! やってやらー!」
ノンは地面にこんもりと重なる茶色の物体に向けて、両手をかざす。
「……もう臭い!」
「がんばれ。負けるな」
「ううー……! ええっと……お腐れろー!」
ノンの声と共にその手の平から魔力の光がじんわりと放出された。
もわもわっと魔力が漂い――そして変化が訪れる。
「――臭い! すっごい臭い! 鼻が! 鼻が爆発しそう!」
「よくやった、ノン。こっちまで臭ってくるぞ」
俺は自分の鼻を摘まみながら、木の棒を使って熊の糞をたき火に投げ込む。
ノンの力によって臭いが増幅されたそれは、火に投げ込まれることで更なる悪臭を放った。
「……うぉえっ! あーっ! 鼻が! 胸元からこみ上げてくる吐き気が! わたし今女の子がしちゃいけない顔してる!」
「大丈夫だ、普段と大差ない」
「ロイくんあとで絶対泣かすから!」
騒ぎ立てるノンをよそに、俺は風上に移動して辺りを伺う。
布きれを口元に巻き、臭い対策をして獲物を待った。
狙うのは――もちろん、熊だ。
ユリウスが見つけた熊の近くに糞があると見当をつけて探し、それにノンの能力を使う。
雌の熊だったらそれに誘われて雄の熊が、雄の熊でも縄張り争いの為に誘い出されるかもしれない。
強力な悪臭でダメなら、それを『反転』させて良い匂いにして試してみるのもいいか――と考えていたが、その機会は訪れなかった。
――そこにターゲットがやってきてくれたからだ。
「こいつは――思ったより大物がかかったな」
森の奥から現れたのは、身の丈大人三人分はあろうかという巨大な熊だった。
熊にしては異常な大きさ。
その熊は二本の足で立ち上がると、威嚇するように吠える。
辺りへと獣の咆哮が響き、それに気圧されたのかノンが尻餅をついた。
「……ノン、相手を刺激するなよ。こいつは――」
それが纏った雰囲気には見覚えがあった。
肌が粟立つような感触。
鈍い銀色に毛並みに、毛の一本一本が硬質化している。
その瞳は血走っており、狂気の一端がうかがえた。
「――魔獣の『なりかけ』だ」
俺は大熊から視線を外さないまま、そう呟く。
――魔獣。異世界からやってくる、人類に敵対する狂気の獣たち。
奴らの屍肉を喰らえば、人は狂気に陥り魔獣と化す。
……そしてそれは、普通の獣でも同様だ。
動物が死した魔獣の腐肉を喰らうことで、このように魔獣化してしまうことがある。
人だろうが同族だろうがなんでも襲いかかり、その肉を喰らう化物。
もし人里に降りるようなことがあれば――惨劇が起こる。
「ノン……聞いているか、ノン」
俺は座り込む彼女に声をかける。
「俺の後ろに来い。……ゆっくりだ」
彼女は頷くと、震えながらも立ち上がってこちらへと歩みを進めた。
一歩、一歩。
しかしそれを見て熊は唸り――そして地面に手を着いた。
――来る!
咆哮と共に駆ける熊の動きに合わせ、俺はノンを抱えて横に跳ぶ。
同時に――能力を使う!
「――『反転』!」
熊の前足の運動を反転させる。
力の方向が捻れ、バランスが崩れる――しかし。
その爪がすれ違い様に俺の足を抉っていく。
「ぐっ……!」
ノンと共に着地した俺の足から血が吹き出る。
かすっただけなのに、深々と肉が抉りとられていた。
熊はゆっくりと起き上がり、こちらに視線を向ける。
――参ったな。
一周目、俺の体が魔獣だったときの身体能力が無い以上、無理ができない。
さらに言うと、この状況もマズかった。
俺の後ろには震えるノンの姿。
魔界で戦っていたとき、俺は常に一人だった。
死にそうになれば身を隠し一端体勢を立て直すだけで良かった。
だが今は、守るべき仲間がいる。
彼女を見捨てることはできないし、俺が注意を引かなければ熊は一番にか弱い彼女を狙うことだろう。
熊は警戒しつつもこちらへと近寄ってくる。
俺は腰からバスタードソードを抜いて、熊に向かって構えた。
しっくりと馴染む剣の感触。
他の新入生と同じく、俺はただ「カッコイイから」とその剣を己の武器として選んだ。
――それから百年。
手に馴染んでしまったその武器を、俺は真っ直ぐに熊に向ける。
傷により左足が思うように動かないが、一度ぐらいは持たせられるだろう。
「ノン! 逃げろ! 俺一人ならなんとかなる!」
叫ぶ。
それと同時に熊がこちらへと跳ねた。
両腕を上げ、爪が振り下ろされる。
――大丈夫、見える。
俺は落ち着いて体を反らし、その腕を避ける。
遅い。
だが肉体が追いついていなくても、魂が戦いを覚えている。
少しなら熊を受け持てるはずだ。
ノンがその間に逃げてくれれば――。
そう思って覚悟を決めたそのとき。
――声が響いた。
「――オォォォラァァァアー!!! こっちだぁーーー!」
はるか遠く、数百メートル離れた場所からの雄叫び。
ウィルの『拡声』。
熊は一瞬、そちらに視線を向ける。
――今だ!
俺は一歩踏み込み、剣を振るう。
その頭を貫くべく、油断している熊の眉間に剣を突き立てた。
――しかし。
「くっ……! 硬い……!」
今の俺の体では筋力が足りない。
『なりかけ』の眉間の薄い皮膚すらも貫けない。
熊はこちらに向き直りその体を前に倒す。攻撃の構え。
――クソ!
「――『反転』!」
叫ぶと同時に、熊の体が迫ってきた。
純粋な力を浴びせるタックル。
その牙が俺の腹部を裂き、体は血を吹き出しながら後ろにあった木の幹に叩き付けられる。
骨が折れた感触があった。
……くそ、ここまでか。
熊は追撃しようとしたのか、こちらを向いて立ち上がる。
死の感触が背中を駆け抜けた。
――しかし熊は、バランスを崩してその場に倒れた。
熊が地面に仰向けに倒れて、呻きながら左右に転がり出す。
その様子を見て、ノンが声をあげた。
「こ、これは……?」
「……奴は今、目が正常に見えていない」
声を絞り出して答える。
今の熊の視界は、上下左右逆転して見えているはずだ。
眉間に剣先を突き刺したときに、視神経を『反転』させた。
「一時的なもんだ。だから、今のうちに逃げろ……!」
ノンに叫ぶ。
熊はそのうち視界に慣れておそらく死にかけの俺に向かってくるはずだ。
俺の死体を食ってるうちに、ノンは逃げられる――。
――だというのに。
「――この……!」
ノンは足下の泥を手元の布に詰め込み、そしてまるで殴打袋のように遠心力を使って殴りかかった。
……バカ、そんなもんで『なりかけ』は――!
ノンがそれを振り下ろすと共に、中身が熊の顔にぶちまけられる。
そんな威力では『なりかけ』の熊にダメージを与えられないだろう。
――しかし。
「ブォォオオ!」
熊はその場で顔を押さえて悲鳴をあげる。
……見れば、その顔には熊の糞がべったりと付着していた。
「腐れ、腐れ……! ――腐り落ちてっ!」
ノンの瞳に魔力の光が宿り、そして涙が零れる。
それに呼応するようにして、まるで強酸をかけられたかのように熊の顔がドロドロと溶けていった。
『腐敗』の力。
――能力が、進化している……!
「うぉぉぉおおお! どけぇぇーー!!」
ノンの後ろから声が響く。
ノンがその声に熊から離れると、そこには槍を持ちながら駆けよるウィルの姿があった。
――逃げろって言ってるのに、こいつら……!
「おおおおおお……ああっ!?」
熊の方へ向かって走るウィルが、足をもつれさせる。
バランスを崩して転びそうになり、彼は槍を杖代わりに地面を突いた。
「うおおおおぉ!?」
ぐんにゃりと槍がしなって、その反動で彼の体が宙を舞う。
――あのバカ……!
「うあああああ――!」
空中に放り出されたウィルが、その槍を構え直して一直線に熊に向かって落ちていく。
槍の矛先が、ノンの能力が溶かした熊の顔面へと向かった。
「あぁぁぁぁぁあ!!!」
重力の乗った槍の切っ先が、熊の顔面に突き刺さる。
それはグズグズになった熊の皮膚を貫き、上顎を貫き、そして脳幹を突き破る。
地面まで槍が貫通したところで、その動きは止まった。
「……あ、あ、あ」
ウィルが槍を握る手を震わせながら、声をあげる。
「あ、あわわわわ……!」
恐怖から腰が抜けたのか、ウィルは地面に尻を突きながら慌てて後ずさった。
熊の動きが止まり、絶命したその死体を俺とノンとウィルの三人が見つめていた。
「……この、バカ、たち、が……」
俺は息を吐く度に腹部に激痛を感じながらも、一言そう言わずにはいられない。
――本当に、良いパーティメンバーを持ってしまったようだ。




