第五話 継がれる思い
■
それからの数日間、ヴァネッサは巫女としての「お仕事」で忙殺された。
クーヴァーに半年前に現れた神官は、王都カレーにも立ち寄っていたので浄化すべき呪いは少ない。
巫女の「お仕事」は呪いの浄化ではなく、王様との晩餐会や貴族との旅の壮行会といったものが大半。
どの国でもアガルタの存在に怯えている。
ヴァネッサは、ていのいい「宣伝塔」にされた形である。
俺も【具現化】して、狼の姿でヴァネッサと一緒に大通りを歩いたり、散々な日々だった。
今日もへとへとになって北海亭に戻る。
「なんか、見世物になった気分ですぅ……」
ヴァネッサが借り物の白いドレスを着たまま、部屋のテーブルにうつ伏せにへたり込む。
この短期間でオーダーメイドは無理なので、ありもののドレスを仕立て直したものだが、ヴァネッサの青みがかった銀髪と良く合い、「銀狼を従えし氷の聖女」とか言われていた。
俺も一緒にパレードに出たが、人の視線を大量に受けると、それだけで気力がかなり消耗する。
俳優だのアイドルだのはよく平気だな と改めて思った。
「それが、巫女ってもんだ。ワシも神官の時は貴族に連れ回されて大変だった。
さて、船の手配が出来たぞ。急だが、明日出発だ。
王様には既に伝えてあるし、見送りは不要としてきた」
俺たちが「お仕事」している間に、クラリネ爺さんがこれからの旅の手配を済ませておいてくれた。
「確か、ヴェニスに行くんだよね?」
テーブルの上に、この地方の地図を広げながらクレアが言う。
「あぁ。水のマテリアを取りに行く。
川を超えたり、海路を行くこともあるからな。持っていて損は無いぞ」
「じゃ、うちは朝市で旅行用品の買い出しにでも行ってくるか。
ヴァネッサは……、ゆっくり休んでおくといいさね」
テーブルに突っ伏したまま、ヴァネッサは既に寝息を立てていた。
■
「朝ご飯は控えめにしておいた方が良いよ~」
クレアがにやにやしながらヴァネッサにアドバイスする。
昨夜は夕食抜きで寝こけてしまったヴァネッサは、朝起きた途端、食堂に繰り出して朝食を3人前くらい頼もうとしていたのだ。
「何でですか?」
「今日から船旅だろ?個人差もあるけど、乗ればわかる としか言えないかね。
聞くだけ聞くけど、タクヤ、あんたは?」
「俺はまるでダメだ。でも、霊体だから大丈夫だろ。クレアは?」
「うちは、少しくらいならなんとか。
だけど、今日は揺れるで有名な、波の高い海峡だからねぇ」
俺は結構、船酔いする体質だ。旅行の時には酔い止めが欠かせない。
しかし、今の体である「霊体」は常時浮いているので、船に乗ろうが、陸地を行こうが関係ない。
それに、そもそも霊体に船酔いは関係ない と信じている。
ヴァネッサは、しぶしぶ朝食を1人前で我慢し、その代わりにお弁当を多めに作ってもらっていた。
「わたし、船も海も、はじめてなんですよね。海で食べるお弁当って楽しそう」
うれしそうにくるくる踊るヴァネッサを見ながら、俺とクレアのにやにや笑いは最高潮に達していた。
王都だけあって、港には大小さまざまな船が並んでいた。
大概の船は一本マストの単純な構造の船であるが、俺たちが乗る予定の船は、キャラックというタイプの30mほどの船。
大航海時代の輸送帆船で、積載に優れた作りをしている。
親父は、船酔い体質のくせに帆船大好きで、よく模型を作っていたので覚えていた。
「あの船の持ち主とは知り合いでな。便乗させてもらうことにした。
途中、ここと海峡向かいの島国、グラン王国で荷物の積み降ろしのため停泊するが、
ヴァネッサ、巫女ということは内緒にしておけよ。できれば船から降りるな」
「へ?なんでですか?」
「あの国は、神官や巫女を拘束しちまうので有名なんだよ」
ヴァネッサの問いに、横からクレアが答える。
「うむ。最初は出来ごころだったのだろうな。ある王が、訪れた神官を拘束した。
だが、その噂が広まると、神官や巫女は行こうとしなくなる。
そうなると浄化されない呪いが溜り、時折訪れる神官や巫女を手放せなくなる。
それがまた噂を呼び という繰り返しだ」
「向うの国の人は、ずーっと呪いが浄化されていないままなのですか?」
「あぁ。確か、15年前に向かった神官が最後のはずだ」
「15年間も……」
手を握りしめて、ヴァネッサが何かを祈るようなしぐさをする。
「ヴァネッサ、やっちゃダメだからね、ダメだからね?」
何かを感じたクレアが釘を指す。
この流れ、どう見ても「フラグ」だよなぁと思いつつ、俺たちは乗船した。
真っ黒に日に焼けた水夫たちが、俺たちを歓迎してくれる。
副船長が気を利かせて、自分の部屋を「女性部屋」として提供してくれた。
「べっぴんさんたちは大歓迎さ。ちっと汚いが好きに使ってくれよ」
■
順風をうけながら、順調に航海が始まる。
港を出たのは、日の位置から見てだいたい10時頃。
外海にでると、だんだん波が荒くなってきて、大き目の船ではあるが結構揺れる。
前世の俺なら、青い顔をして呻いていたことだろう。
だが、予想通り、霊体の俺には船酔いなど恐れるに足らない。
「い~い風ですねぇ」
ヴァネッサは、海風に銀髪ポニテをなびかせながら、持ってきたパンや塩漬け肉を使ってサンドイッチを作り、もごもごと頬張っていた。
サンドイッチは船員さんたちにも大好評。
小腹の空いた船員たちがヴァネッサの周りに集まり、サンドイッチを受け取っては、各々仕事に戻る。
クラリネ爺さんもサンドイッチを頬張りながら、船長と話をしている。
その頃、クレアは青い顔をして船室に横たわっていた。
「パルックから、酔い止めの薬を買っておくんだった……」
彼女は、出港後はあれやこれやとヴァネッサにレクチャーしていたが、30分ほどで顔色が青くなりはじめ、1時間ほど耐えたものの轟沈。
海峡を渡るだけなので、この日の航海は、時間にしておよそ4時間程度だ。
朝の10時に出港し、日が中天からずれ始めたころに海峡の向かいの町、ドバルに到着した。
ドバルにつくと、カレーと比べて、空気が重い。
うっすらと呪いの瘴気が混ざっているような悪寒を感じる。
町を歩く人々の雰囲気も、海峡向うのカレーと比べると暗く見える。
「お嬢ちゃんのおかげで、昼飯が腹に入らんな。先に一仕事しちまうか~」
船員たちは、一休みすると荷物の積み下ろしを始めた。
船長の話だと、予定より荷物の集荷が遅れており、ここで数日間停泊し、荷物待ちをすることになった。
町を歩くと、しばらく行ったところに宿屋を見つけた。
船員たちは船番も兼ねて、宿泊と船泊を交代で行うらしいが、我々は宿に泊まる。
「ごめん、先に横になってる……」
クレアは、まだ青い顔のまま、よろよろと部屋に閉じこもってしまった。
「クレアがあれだし、今日はこのままのんびりするか」
「そうですね。夕食までには治ってくれるといいのですけど」
モノが船酔いだけに、俺たちは同情はするが心配はしていない。
どうせ、陸地でゆっくり休んで明日になったらすっきり治る。
その日は、さっさと夕食を採ると、早いうちから床につき、寝てしまった。
■
「アガルタだ~っ!アガルタが来たぞ、逃げろ~」
深夜、激しく打ち鳴らされる鐘の音で俺は目が覚めた。
隣で寝ていたはずの爺さんは既に起きだし、簡単に身支度をしている。
ドアが激しくたたかれ、ヴァネッサとクレアが駆け込んでくる。
ゆっくり休んだせいか、クレアの顔色はいつもと同じ色に戻っている。
彼女たちも、既に身支度を済ませていた。
「揃ったな。ワシは民間人が逃げる時間稼ぎをしに行く。
クレア、ヴァネッサを守りながら、船に退避してくれ」
「嫌です。わたしも行きます」
「ヴァネッサ……」
クレアに腕を引っ張られながらも、ヴァネッサは拒否する。
「わたしは、巫女です。
呪いがあるとわかっているのに、行かないわけには行きません」
「この国では、巫女とわかると捕まるかもしれないぞ?」
「それでも、わたしは、巫女ですから。ね、タクヤさん」
ヴァネッサが俺に向かってウィンクする。
こうなるのはわかってたんだよなぁ。
宿屋の外からは、悲鳴や怒号が各所から聞こえてくる。
「解った。ワシがいい というまで【具現化】はするな。わかったな!」
「はい!」
「はぁ、爺さんまでそういうのなら、うちは反対しないよ。呪いは、こっちだ」
眼帯を外したクレアが先頭を切って走り出した。
魔物は夜目が効く。
そのため、暗い中で戦うと人間側が不利となる。
各所に明々と松明が翳され、アガルタから落ちた呪いを照らし出している。
幸い、呪いが落ちたのは民間人の居住区画ではなく、行政区画だった。
憲兵詰所にも近かったため、迅速に兵が展開され、魔物の第一波の撃退に成功した。
だが、アガルタはまだ頭上にあり、呪いの表面は激しく泡立っている。
「もっと松明を持って来い!魔物の第二波が来る!」
「非番の兵も呼べ。総力戦になるぞ」
怒号があたりに響き、続々と兵士たちが集まってくる。
その時、呪いの泡が大きく盛り上がって実体化し、蒼く、巨大な人間の腕に変わった。
二の腕だけでも、大人の身長より大きい。
「巨人だ!」「嘘だろ……」
腕から先も急速に実体化していき、呪いの泡は巨人の上半身へと変わった。
「バリケードを築け!民間人の避難を最優先とする」
「おい、もう一体出てくるぞ!」
俺たちが呪いのところへ辿り着いた時、2体目の巨人が実体化しようとしているところだった。
1体目の巨人が、足元の犬頭を弾き飛ばして呪いから這い出て、立ちあがる。
足音の地響きが、ドラの音のように街中に響く。
「クラリネさんっ!」
「やれ、ヴァネッサ」
爺さんが苦い顔をしながら、具現化の許可を出す。
「【具現化】!」
俺の肉体が、瞬時に狼へと変わる。その感覚にも慣れてきた。
勢いをつけてバリケードを跳躍し、呪いに踏み込む。
泡立っていたアガルタの呪いは消え去った。
まだ、完全に実体化していなかった2体目の巨人は上半身だけが残ったが、すぐに溶けて消えてしまった。
残った巨人に向き直る。
クーヴァーで対峙した経験のある、身長4mを超える蒼黒い巨人。
だが、今回は武器を持っておらず、腰布(?)だけの丸腰である。
巨人は乱杭歯をむき出しながら唸り声を上げて威嚇してくるが、所詮は一度倒したことのある相手。
人間の姿であれば、苦笑していたところだ。
俺は軽く跳躍し、巨人の右側に回り込む。
思惑通り、巨人は俺の動きに反応して2,3歩後ずさる。
兵士たちがこもるバリケードから引き離すことができた。
これで、万が一巨人がぶっ倒れても、兵士たちに被害は及ばない。
「【氷柱】」
巨人の下半身が氷柱に封じ込められ、動きが止まった。
俺は動けなくなった巨人の喉笛を噛み裂き、ヤツを消した。
残った犬頭や人食い鬼は、爺さんとクレア、士気を盛り返した兵士たちが、包囲して殲滅する。
巨体の俺がヘタに手を出して、やつらに逃げ散られても困るので、俺はヴァネッサと包囲網の外で待機。
ふと空を見上げると、アガルタが去った後の空には、銀色の綺麗な月が光輝いていた。
いくつもの幸運が重なり、呪いによる被害は兵士数名の軽傷で終わった。
俺たちは兵士たちに歓迎され、夜遅くまで宴会に付き合わされてしまった。
翌日、宿屋で遅めの朝食を頼む。
「う~昨日は飲みすぎた」
クレアがぼさぼさ頭で、紅茶だけ飲んでいる。
「自己管理がなっとらんな」
あれだけ大量に呑んでいた爺さんは平然としている。
ヴァネッサは食べるのに夢中。
「さて、これで巫女の事がばれた。これからどうするか、考えないとのう」
爺さんが口火をきったとき、ガラガラという数台の馬車の音が宿屋の外から聞こえてきた。
その馬車は宿屋の前で停車する。何人もの靴音が、昼に近い町に響き渡る。
「ここに、巫女はいるかっ!」
荒々しく宿屋の扉を開いたのは、剣を腰につるし、マントを羽織った男、
彼の後ろから、てかてかした趣味の悪い服を着た、厚化粧の男が現れる。
化粧男は、宿屋の中を一回り見回すと、ヴァネッサを見つけてこっちにやってきた。
「ワタシは、ティンケル侯爵。その銀髪、巫女よね?」
彼は甲高い声で、話しかけてくる。
「何用ですかな?」
クラリネ爺さんが立ち上がり、ヴァネッサをかばうように二人の間に割り込む。
「下賤のものは黙っておれ!」
マントの男が爺さんを突き飛ばそうとしたが、逆に爺さんに腕を掴まれ、捻りあげられる。
「この国ではね、神官や巫女は王様のところに挨拶に行かないといけないのよ。
王様に眼通りができるのは、巫女だけよ。さぁ、いらっしゃい」
化粧男は、この国の国王の紋章付の書類を広げる。
それは、招待状であり、しっかりと国王の署名が入っていた。
俺たちは、やむをえず、馬車に分乗して王都へと向かう
ヴァネッサだけ、ティンケル侯爵と同じ馬車。
霊体である俺も、一応同乗している。
他の2人は、おつきの馬車にまとめて放り込まれたようだ。
王都へ向かう馬車の中で、勧められた飲み物を口にした途端、ヴァネッサは崩れ落ちるように眠りに落ちてしまった。
気が付くと、おつきの馬車は視界から消えていた。
■
剣山のように岩山が立ち並んでいる。
中心部に一際切り立った岩山があり、そこの中が空洞にくりぬかれて牢獄として使用されている。
牢獄へは、近くの岩山から跳ね橋を降ろさないと行き来できないような造りになっており、目隠しをされ、さるぐつわをかまされたヴァネッサは、牢獄の中へ監禁された。
昼になると馬車でどこかへ連れ出されて呪いを浄化し、夜になると牢獄へ戻される生活。
俺が【具現化】している間は、いつもヴァネッサの首筋に剣が当てられ、俺が妙な動きをしないよう、逐一監視されていた。
とはいえ、巫女と守護霊を物理的に引き離すことは出来ない。
話し相手が居るというのは、ある程度は精神を安定させることができる。
この牢獄の中で、俺はヴァネッサが起きているうちは話し相手になり、彼女が寝た後は逃げ道を探して、周囲の探索を行っていた。
霊体は壁をすり抜けることができるし、寝なくても平気だからだ。
ここ数日間、毎晩探索をしてきたが、空でも飛ばない限り、脱出は不可能との結論に達した。
温度差の関係なのか、この岩山では山間に激しい風が吹き渡る。
霊体の俺に風の影響はないが、巡回する兵士たちの服が激しくはためいているところから見て、ちょっとした台風並みの、風速2-30mはあるように思える。
岩山をロッククライミングで降りようにも、ヴァネッサの体重だと、風で吹っ飛ばされる危険性があった。
だが、監禁生活が1週間を超えると、さすがのヴァネッサにも心身の疲労がたまっていくのが見て取れる。
今日も、呪いの浄化をしてから牢獄に戻る。いつもより早めに終わった。
「はぁ、疲れちゃいました。
このまま、1年間、ずっとここで暮らすのかな……」
ヴァネッサは、疲れ果てたように粗末なベッドに倒れこみ、目をつぶる。
「やっぱり、あたし、間違っていたのでしょうか?」
牢獄に一つだけ作られた窓から夕日が差し込み、牢獄の岩を削った床を照らす。
俺は窓のところまで飛んで行って、鉄格子ごしに沈む夕陽を眺める。
異世界でも夕日のオレンジ色は同じだな と思いつつ牢獄を振り返ると、岩を削って作られた床の凹凸が、夕日にあたって複雑な影を作っていた。
ベッドの方から、ヴァネッサの寝息が聞こえてくる。
『君は間違っていない』
頭の中で、そんな声が聞こえた。
ヴァネッサから視線を離し、牢獄の床を見つめる。
床に掘られた凹凸に夕陽があたり、影を作っている。
浮遊している守護霊の目線で見ると、影は文字となり、一連の文章を作り上げていた。
小声で、書かれた文字を読み上げていく。
『君は、間違っていない。
此処に捕まった神官と巫女のためにこの言葉を残す。
君の浄化でこの国の人々は救われた。それは誇ってよい真実だ。
だが、呪いに苦しむ人は世界にたくさんいる。
ここは、風のマテリアに溢れている。願いがあれば、守護霊は飛べる。
君が決断せよ、此処にいるか、世界へと旅立つかを。
ヴァン=ヘイスカリ』
最後に記された日付は、今から15年前。
ヴァン=ヘイスカリ。彼が、ヴァネッサの前にここに来て捕まった神官なのだろうな。
「タクヤさんっ!」
ヴァネッサがベッドから跳ね起き、いつになく真剣な顔で詰め寄ってくる。
「いま、なんていいました!?」
「あぁ。ここの床に、影で文字が書いてあるんだよ」
「何処に?」
「もう少し、高い位置からでないとわからないかな」
「もう一度読んでください、いや【具現化】!」
狭い牢獄内でいきなり巨大化させられた。
なんとか身をすくめると、ヴァネッサが俺の体の上によじ登り、例の文章を眺める。
そして、その言葉を反芻するように、何度も何度も読み上げる。
そうしているうちに夕日は落ち、あたりが暗くなって文章は消えた。
ヴァネッサは床に降り立ち、文章の上に座り込む。
「お父さんが、ここに来てたんだ……」
名前の部分を何度も撫でさすりながら、ヴァネッサが話す。
確か、彼女の父親は、ヴァネッサがまだ幼いころ、神官として旅立ったと聞いた。
「お父さんのこと、覚えているのか?」
「うん。抱っこしてもらった記憶が少しだけ」
ヴァネッサは床の凹凸の上に横になった。
「今夜、此処を出ましょう。
でも、もう少しだけ、ここに居させて……」
「あぁ、わかった」
俺はベッドから毛布を引っ張り、ヴァネッサの上にかけてやった。
「ありがとう、タクヤさん」
■
2,3時間ほど横になってから、ヴァネッサが立ち上がった。
頬に涙の跡があるが、もう泣いてはいない。
とっくに陽は落ち、明りは差し入れられたカンテラの乏しい光と明るい満月の光だけ。
「行きましょう、タクヤさん」
「良いのか?」
「良いんです。お父さんの言葉は、わたしの中にあります」
そう言って、彼女は胸の辺りを撫でる。
「【具現化】」
いつもながらの、銀狼の姿に変わる。
ここ数日と違い、ヴァネッサから流れてくるものが、以前よりも力を増しているように感じる。
「扉を破るぞ」
氷の魔法で扉をぶち破ると、その先は切り立った岩山だった。
10mほど向こう側に、跳ね橋のある大き目の岩山があり、そこが兵士の警備所と出入口を兼ねている。
今は跳ね橋が降りていないので、こちら側の扉の外には1mほどの跳ね橋の受け台しか無い。
受け台の下は数十mの切り立った崖だ。
「願い、イメージ、風……」
ヴァネッサが目をつぶり、新しい俺の姿を創造しようとする。
風をより強く感じるためか、受け台に歩み出る。
「おい、気をつけろよ?」
俺の言葉に、ヴァネッサは笑いながら、振り向く。
「大丈夫。わたしたちには、翼があるのだから」
そして、虚空へと一歩を進めた。
「【具現化】!」
呪文を唱える声を残して、ヴァネッサが崖から落ちていく。
彼女の後を追って、奈落に飛び込こもうとしたとき、俺の肉体は銀色の体毛と大きな翼を持った鷲の姿に変わっていった。
新しい身体の動かし方と風の魔法が、頭の中に入ってくる。
風にあおられ、服をはためかせるヴァネッサに向かって、俺は力強く翼を空気に打ち付ける、
「【空の支配者】!」
新しく得た風のマテリアの力。それは、空気や重力を操る能力。
魔法で空気のベクトルを操作し、前方を限りなく真空へと近い状態へ変える。
すると、後方からの強烈な下降気流が発生し、俺の身体を急激に加速させる。
音が消えた空間の中を、俺はヴァネッサをめがけて落ちていく。
「ヴァネッサ!」
彼女を傷つけないように細心の注意を払って、鉤爪で捕まえる。
空中でのアクロバット。この体は得意中の得意。
そのまま、風を操って急上昇し、俺たちは大空に飛び立った。
銀色の満月が空に出ている。
月夜を背景に、俺たちは順調に飛行を続けていく。
「タクヤさん」「ヴァネッサ」
二人同時に何か言いかける。
巫女と守護霊の間にはテレパシーのようなものがあって、飛行中の強風下でも意思疎通ができる。
「先に良いよ」
「えっと、捕まって餌として巣に運ばれてるような感じなんですが……」
脱出した時のまま飛行し続けているので、ヴァネッサは捕まったネズミのように、かぎ爪の中で身動きもできずにぶらぶら揺れている。
誰かに目撃されたら、「魔物にさらわれた」判定が下るだろう。
「一度、降ろしてもらえませんかね?そろそろ具現化できるタイムリミットですし……」
俺は、その問いに答えず、自分の疑問をヴァネッサにぶつける。
「ヴァネッサ、なんでワシにしたんだ?」
「昔、お父さんに肩車してもらって、鷲を見たことがあったんです。
とっても気持ちよさそうに飛んでいたんですよ、それを思い出しちゃって」
てへへ とヴァネッサが可愛らしく笑った気配がした。
「そういう事じゃなくてさ。今、夜だろ?」
「ええ。満月がきれいですよね」
「じつは、鳥目全開でさぁ、なんも見えないんだが」
「は?」
「今だけ、フクロウとかミミズクに変えられない?」
「むりですよぅ、お~ろ~し~て~」
うら若き女性の悲鳴と共に、月夜を迷走する銀色の鷲。
その後、風の魔法【飛行】や【浮遊】を駆使して、俺たちは軟着陸に成功した。
奇跡的にかすり傷だけで済んだヴァネッサが、髪の毛に木の枝や葉っぱをくっつけながら立ち上がる。
「格好良さだけで、選んじゃ駄目ですね……」
■港町 ドバル
良く晴れた朝。
太陽が東から昇り、人々が活動を始める。
だが、その日のドバルの街は、少しだけいつもと違った。
「あれは何だ?」「アガルタ!?」「いや、違うな。もっと小さいぞ」
遠くから飛んでくる影を誰かが見つけた。
影は街の上空を通過し、一気に港へと向かう。
港では、毎日の日課である、クラリネ爺さんと憲兵隊長との問答が行われていた。
「ヴァネッサはどうなってるんだ?」
「すまんが、俺には中央の考えることはわからんのだ。
それより、さっさと港から出航しろとのお達しが出ている。
出港許可証を行政府から預かってきた」
「ヴァネッサが居ないのなら、出航できん」
苦い顔の憲兵隊長が差し出した書類をクラリネ爺さんは払いのける。
「こんな事を続けても、自分たちの首を絞めるだけだぞ」
「あぁ、解っている。だが、直接魔物を視る事の無い中央には、俺の具申なんぞ届かん……」
沈黙した二人の元に、街の騒ぎが風に乗って届いてくる。
「今日は、やけに街が騒がしい様だな」
クラリネ爺さんの言葉に反応して、憲兵隊長は上空を確認するが、雲の無い晴天が広がる。
「アガルタというわけでも無さそうだが、ん?」
内陸側から、飛行する影が急速に近づいてくる。
「魔物 か?」
「いや、待ち人来るってとこだろうな。どうする?」
クラリネ爺さんがにやりと笑って、憲兵隊長の方を振り向く。
飛行してきた銀色の鷲は、上空をひとまわりした後、船の甲板に着地した。
「俺は、出航許可証を渡しに来ただけだぜ」
憲兵隊長が差し出した書類を、クラリネ爺さんが受け取り、中を確認する。
「さぁて、俺の仕事は終わりだ。ゆっくり飯でも食ってから行政府に戻るとするか」
憲兵隊長は後ろを向くと、のんびりとした足取りで港を後にする。
「ありがとよ。全員、出航準備。10分で支度しろ!」
船では、船員たちが大慌てで出航準備をはじめていた。