怪盗ウェグワートとその相識のアルテミシア
死にたがりヒーローとその銀の弾丸(http://ncode.syosetu.com/n3464cb/ )続編。よろしければそちらから。
雑然と並ぶ金の像。大きな油絵。彫刻、壷、陶器。
芽依子は自分の置かれている状況がわからず、きょとんと目を瞬かせた。高級そうな美術品の中、深緑のジャージが浮いている。
手持ちぶさたにバレーボールをひとつ抱えたまま、立ち尽くす。
「び、美術、準備室……?」
さっきまで、たしかに体育倉庫に居たのだけれど。
*
体育館で行われたバレーの授業は、つつがなく終了した。そしてボールの片づけを承って倉庫に運び、カゴから落ちてしまったひとつを追いかけ拾ったら、がとりと床がひっくり返った。
そのまま穴に落ちると、そのまま滑り台になっており、暗闇が芽依子の恐怖心を煽る。よもやこの先には煮えたぎるマグマが、いやそんなわけはない、ごみを粉砕する大きな焼却炉や粉砕機ならありえるだろうか。想像にすぎないというのに、すっかり泣きそうになってしまう。
一分か五分か三十分か、驚きが恐怖にすっかり変わるくらいの時間が過ぎて、突如滑走は終了した。
到着と同時に接した壁がくるんと回り、抗う術なく暗闇から放り出される。
ここで冒頭に戻る。
煌々と照る蛍光灯が、白い壁に眩しい。
雑多に置かれた美術品はなんとなく一体感を持ち、芽依子には近寄りづらい。何も置かれていない壁に寄りかかると、それらは真正面に並んだ。
部屋には窓も扉もなかった。出てきたところを触ってみても、さっきの忍者扉は煙より鮮やかに消え失せていた。
閉じこめられている。
気付いて芽依子は愕然とした。体育は、本日最後の授業。また、終礼は担任の都合でナシになっており、着替え終わった人間から自由に帰れる。
図書館に寄りたかったから、仲のいい子には先に帰るよう伝えた。
体育では、さすがに携帯もGPS発信機も持ち歩けない。このまま閉じこめられて、何日も経って、そして餓死する想像がすぐに浮かんだ。
災害に遭遇するのは慣れたことといえ、悪い想像はいつだって止まない。もう一度涙が浮かび上がって、今度は溢れて止まらない。嗚咽が漏れ出る。
周りに人がいないから、涙を堪える理由が足りない。
涙ながらに他の出入り口を探り、壁を叩く。いつもは下手に動かない方が安全なのでそうしているが、今回は警察が見つけてくれると思えない。被害が芽依子だけで、命の危機も近くないから、救助はしばらく先のような気がした。
ひととおり、届く範囲の露出した床や壁を叩き終えるも、出口らしきものは見あたらない。
涙が止まらない。芽依子は壁際に寄って膝を抱えた。どこかに閉じこめられた経験は、きっと人より多い。体育倉庫、トイレ、車の中、地下通路や電車。崩れかけのビルだってあった。しかしこんな特殊な部屋に居て、だれか気付いてくれるのだろうか。
美術準備室なんて言ったけれど、そんな場所と体育倉庫が床下の滑り台で繋がるわけがないとわかっていた。ここは隠し部屋だ、つまりなかなか見つけてもらえない。
どれだけの距離を移動したのか、暗闇の中ではわからなかった。まだ、ここは、学校の敷地内なんだろうか。
もう少し落ち込んだら、ひとりで動ける。
膝を抱える腕を強く握る。ひとりだから、怖いものは居ないから、立ち上がるのに怯える理由はない。
無理矢理に深呼吸を繰り返せば、嗚咽は落ち着いて呼吸が安定してくる。涙は止まらないけれど、視界にそれほど影響はない。
だいじょうぶ、死なない。だいじょうぶ。
言い聞かせて上を向いた。息をたくさん吸い込んだ。
「だ、だれか! 居ませんかあ!」
芽依子は臆病で悲観的で、死にそうな目にはいくら遭っても慣れないけれど、自分にできることは知っている。
頭が良くなくて、運動神経も抜群じゃない。自力でどうにもできない芽依子には、待っているだけじゃあ助けは来ないから、呼ばなくてはいけない。求めなくてはいけない。
待っていればいつか助けてくれる、そんな”必ず来てくれる誰か”を、芽依子はうまく想像できない。生まれてからのほとんど全部、そんな都合の良い誰かは現れてくれなかった。
最近は脳裏に赤色が過ぎりもするけれど────やっぱり、助けてくれるなんて期待はしなかった。この関係は不安定だから、二人が乗るには脆すぎた。
だから、芽依子が呼ぶのは知らないだれか。姿の想像はしない。万が一にも届いたらなんて考えながら、掴む先を考えないで手を伸ばすだけ。
幸いなことに芽依子の声は通る質で、何度か知らない誰かに届いた。有効な方法のひとつだってちゃんと知っている。
それからもう一度、大きく声をあげた。
「だれかあ! 聞こえませんかあ!」
「き、くち……さん……!?」
***
「やあ、よく来たね、お嬢さん。私は怪盗ウェグワート、ご存じかな?」
視線より高い位置にぽっかり穴を空けて現れた男は、重力を感じさせない軽やかさで同じ床に降り立った。彼が出てすぐに穴はふさがってしまう。
芽依子は驚きの表情で彼を見つめる。
紺青の艶やかな髪、顔の半分を隠す黒い仮面。見える口元はゆるやかな弧を描いていて、そこだけでも端正な顔立ちが思われた。
仮面は優雅な男の雰囲気によく似合っていた。
異質なのは、その格好。
怪盗ウェグワートと名乗ったその男は、芽依子と同じデザインのジャージを着ていたのだった。
芽依子の学校のジャージは、深緑に学年ごと違う色の線が入る。二年は鳶色で、クリスマスカラーには重苦しい、納得のいかない色合いだ。
そして彼のジャージの線も鳶色。つまり同じ学校の、同級生ということになる。
見えるのは髪と口元くらいだが、残念なことに、芽依子は同級の誰なのか察しがついてしまっていた。きっと同学年ならみんなわかる、だって彼は人気者なのだ。
わかるけれど、今は顔を隠しているし、別の名前を名乗っている。
本人が自分を怪盗ウェグワートだと言うなら、そう扱うべきなのだろうか。ツッコミ待ちと思うには、二人の関係はただのクラスメイトで親しくもない上に、どちらもそういう冗談が得意じゃないはずだった。困った頭で考えて、気付かないふりを通すことにした。冗談ならつまらないし、もしも本当にウェグワートならばこんな発覚はまぬけすぎる。
一方ウェグワートも、表面は落ち着き払った涼しい顔で、内心 頭を抱えていた。華麗なる怪盗として、人前に出るには姿を整えなくてはいけない。事実ほんもので、芽依子の想像通りの人物なのだが、顔見知りに気付かれたい状態でないのは確かだった。
隠し部屋のひとつに侵入者ありと気付いて、着替えの途中でやってきたものだから、声をかける前に”怪盗ウェグワート”らしい服装に変えようと思っていた。それが失敗したのは、侵入っていたのが芽依子だったから。教室で話しかけられない気になる女の子に、つい動揺してしまった。修行不足である。
怪盗ウェグワートについては一応知っていたので、ご存じかな、という問いに曖昧に肯定して、芽依子は首を傾げた。涙はすっかり止まっていた。
彼は三年ほど前からたびたび話題になっていて、怪盗の様式美なのか、毎回律儀に予告状を出して宝飾品を派手に奪う。
ということは、ここはその奪った宝飾品の置き場なんだろうか。残念なことに芽依子の知識はこれだけで、いままでどんなものを盗んできたか、さっぱり知り得ない。関わりがなさそうだったので興味もなく、カピバラのゆず湯と同じほどに聞き流していた。一日の話題になるだけ、ウェグワートの方が少し上だろうか。
「それで菊池さ、ごほん、お嬢さんはどうしてここに?」
警察やマスコミの前でやったら大騒ぎになるほど失態を犯しているが、芽依子は自分に関係がないところで宝飾品が盗まれても、ウェグワートの正体が大スクープとして大金になっても、あまり興味がない。自分の周りのことだけで手一杯だ。
だから、なんで知っているのかなんて追求する気もなくて、「ご存じのようなので菊池でいいですよ」と先に伝えた。
「そ、そうかい?」
「はい。それで、ええとですね、ここに来てしまった理由はよくわからないんです、体育倉庫から、気付いたらここに」
「気付いたら」
「ボールの後かたづけをしていたんですけど」
持っていたバレーボールを掲げ見せると、ウェグワートは額を押さえた。彼はクラスメイトなので、芽依子の評判も知っている。
以前に麻薬取引現場に居合わせてしまったときは、「偶然」を信じてもらうのに時間が必要だったが、今回は言を尽くさずとも理解してもらえるだろう。芽依子が見つめていると、ウェグワートは気を取り直してにっこり笑った。
「こんな場所では、お嬢さんをもてなすことすらままなりませんね。是非わが邸にお招きしたいところですが……」
「学校に戻りたいです。」
「ええ。なので、できるだけ学校に近い出口までお連れしましょう。」
校内から来たのに。芽依子がきょとんとしたのに気付いたのか、「出入り口がそれぞれ別れているんです」と微笑んだ。
もしも、仮面をつけないままにこの物腰で接されたら、好きになってしまうかもしれない。芽依子は思った。人気なのがよくわかる、芽依子の好みではないけれど。
教室でのウェグワート……成宮司は、とても目立つ生徒だった。話したことはおそらくない。整った顔立ちのおかげで、女子の間の恋愛話では何度も名前を聞いた。彼女本人は恋愛よりも命の危機回避に心血を注ぎたかったから、いつも記憶は遠目に写る。
落ち着いていて、優しいけれど女子生徒とは距離を置くお兄さん、みたいな評判だったように思うが、今のウェグワートはやたら親しげで、紳士だが軟派にも見える。気取った話し方と同様、キャラ設定なのかもしれない。菊池で良いと言った呼び名が「お嬢さん」に固定されたのもそうだろう。
成宮に対してもウェグワートに対しても、今以上に親密になるとは思わなかったので、芽依子はそこで思考を打ち切った。
ウェグワートは壁にかかった絵の一枚を横に倒し、現れた凹みの上でなにやら操作を始めた。出口に案内するといったのだから、この部屋の出口を作る操作なのだろう。
部屋を出るにも手間がかかるこの隠し部屋、芽依子は預かり知らぬところだが、入るのにも決まった手順がある。
体育倉庫から入るには、本来ダイヤルを回したり寄せ木のからくりを動かしたり、相当な手間が必要なのだ。ウェグワートもその入り口を全く使っていないし、偶然に開くようなものでもないために放置していたが、使っていない入り口はきちんと封鎖すべきだろうか、などと考えながらウェグワートは開いた扉の先に芽依子を連れ出した。
「さ、お嬢さん。少々暗いのでお気をつけて。私に掴まってくださってもかまいませんよ。」
差し出された手は断って、壁に触れながら歩く。危険がないのならそちらの方が落ち着いた。やや肩を落としたウェグワートには気付かなかった。
通路は暗く、肌寒い。非常灯のように一定の感覚を空け、ぽつぽつとオレンジの光が点っている。幅は両手を広げられない程度だが、境界のない暗闇では圧迫感も消えていた。
部屋から出てすぐに、ウェグワートは壁の中からカンテラ型の懐中伝統を取り出した。本来この男は細部にまでこだわるタイプなのだ。道が暗いのもすべては雰囲気作りのためだった。
ちいさな石のかけらを蹴り飛ばすと、ぶつかった音がやたらと遠く響く。こんなのはまるでお化け屋敷の演出だ、芽依子は思ったが、黙っておいた。
*
しばらく歩いて到着した扉の向こうがやけに騒がしいと思ったとき、芽依子になんの予感もなかったかといえば嘘になる。こういったことは、一日何度と決まった分配でやってきてはくれない。
災難は、忘れてなくてもやってくる。
ウェグワートが違和を感じつつ開けた扉の先は、ただの倉庫に繋がっている──本来ならば。
静かに開いた扉の先。
そこは、乱闘会場になっていた。
信じがたい光景に芽依子は絶句し、ウェグワートもこめかみを押さえる。ばきっ、骨同士がぶつかる音がそこかしこに聞こえ、丸い目がどんどん潤んでゆく。
隠し通路の出口があるのだから、普段ここに人けはない。そのくせ鬱屈ともしていなくて明るく、不良が好んで使う雰囲気もなかった。芽依子は怯えきって壁に背を寄せている。
一番スマートな方法はやっぱり、別の出入り口に案内することだろうか。とりあえず、こんな荒っぽい場所には置いておけない。ウェグワートは思って、芽依子に振り返った。
しかし、ウェグワートは油断していた。倉庫の中でも死角になりやすいと言ったって、どこからも見えないわけではない。まして二人はジャージを着た男女で、男は仮面を付けている。
悪目立ちするのも至極当然。見咎めた不良が、金属バットを片手ににやりと笑う。
「オイオイ、こんなところでデートかよ? 運が悪かったな、お二人さん!」
ためらいもなく振りかぶられたバット。ウェグワートはすぐさま芽依子を懐に庇い、受け止めるために右手を掲げた。
しかし、いつまでたっても衝撃はなく、代わりに低い呻き声が耳に入る。震える手が胸元を掴んでいる。泣いているのは察せられたから、視線を向けずに軽く抱き寄せ、不良の様子を伺った。金属バットががらんと地面に転がった。
周囲はこの一角に気付かないまま、乱闘を続けている。
襲いかかってきたそれは、今は宙に浮いていた。その顔があったはずの、自分より幾ばくか視線を下げた場所には、趣味の悪いティーシャツがある。不良の腹、胸、肩。顔は苦悶に歪んで、大きな手が鷲掴みしている。芽依子も、滲む視界を下からゆっくり押し上げた。
ぼやけた赤が見えたとき、無意識に彼女の肩の力が抜けたのを、ウェグワートは敏感に察知した。赤は持ち上げていたものを地面に放り、鋭く芽依子を睨みつける。抜けた力が再度込められるけれど、怯えの質は変わっていた。赤髪の男は、強い怒気を滲ませている。
「また、性懲りもなく……」
地を這う声。この男にどう出るべきかわからず、それでもウェグワートは半歩前に出た。いやに遅く見える大きな一歩が近づく。
男の目に、ウェグワートは映っていなかった。まっすぐに射抜かれて、芽依子は否応なく男に集中させられる。一旦留められた呼気の行方に気付いて唾を飲んだ。
「────俺を殺す前に、何べんピンチになったら気が済むんだテメェ!!」
*
男の声は倉庫中に響いた。
一瞬にして衆目を集めた彼らは、排除すべき異物として襲いかかられる。ウェグワートも同年代の中では突出した身体能力を持つが、芽依子を庇った状態、武器と数の差を考えれば戦いは避けたかった。
なにより、彼が一人と戦っている間に、赤髪は五人を投げ飛ばす。
そうなれば、すべきは当然逃げること。芽依子を軽々横抱きにし、ひらりとこの場を後にしようとした。
「っぐ!?」
「おい、勝手に連れ出そうとすんな。ソレ寄越せ。」
「……女性をそのように云う人間に、渡すわけにはいきませんね。」
「あぁ?」
ウェグワートの襟首を掴んで、片手だけになっても男は一方的だった。
この男が来ると、他の恐怖なんてすべてとるに足らないもののように思えて、芽依子にも心の余裕ができる。ほとんど話したことのない仮面ジャージのクラスメイトと、一年ほど頻繁に助けてもらっている悪鬼めいた不死身男のどちらに助けてもらいたいだろう、なんてことだって考えられるようになる。蹴り飛ばされる不良の声なんかは恐ろしいけれど。
何も見ないように、視線を中空漂わせる。
「あのわたし一人で帰り」
「それはダメ」
「死にたいなら先に俺を殺せよ」
全否定。
確かにこの集団の中を一人抜けるのは恐ろしいが、出口は見えているのだから、外に出られさえすればなんとかなるだろう。
だが、許しが出ないなら仕方ない。三人の中で一番弱くて立場が低いのは芽依子なのだから。
ならば頼りやすい方は、というと、不死身男だった。名前も知らないけれど、今まで何度も助けてもらっているし、強いことも知っている。とりあえず下ろしてもらおうと顔を上げると、ウェグワートの顔が思いがけなく近かった。
人に抱え上げられる、といったら、不死身男の肩に、というのがすっかり馴染んでいたので、今更こんな抱き方に気付いて居心地が悪くなった。よく考えなくても、クラスメイトに自分の重さを知られるのも恥ずかしい。口を開こうとしたそのとき、喧噪の向こうにサイレンを聞いた。パトカーだ。
不良たちがざわめき、徐々に近づくその音に一人二人と焦って逃げ出してゆく。芽依子は自分を抱える男を見た。
怪盗ウェグワート。
格好付けた言い方だけれど、簡単に言ってしまえば泥棒。警察が見逃してくれる存在ではない。物憂げに息をついて、ウェグワートは芽依子の足を地面に付けた。
「申し訳ありません、残念ながら時間切れのようです。最後までエスコートできない非礼をお許し下さい。」
優雅な一礼。
気取った態度に最後まで慣れないなと思いつつ、芽依子もぺこりと頭を下げた。
「いえ、あの、ありがとうございました。」
「これからも、何かあれば貴女の涙を拭いに参りましょう。それではまた、次の逢瀬をお待ちしております。」
ちゅ。
流れていない涙をふき取るように頬を撫でられたかと思ったら、逆側にやわらかい感触。なにごとか、理解する前に怪盗はふっと姿を消した。何が触れたのか、察せないわけではない。
ただ少し理解に手間取っている間に、腹部に慣れた圧迫感。いつものように、男に担ぎ上げられたのだ。そのまま、倒れて取り残された不良となぎ倒された倉庫の荷物の間を、男は堂々と歩む。
しばらく大人しく担がれていたのだが、男は倉庫を出てしばらくすると不愉快そうに声をかけてきた。
「……おい」
「ひっ、は、はい!」
一度会話をしてから少しずつ慣れてきたといえ、やはりこわいものはこわい。声を聞くだけで泣けそうな気がする。
実際に半泣きにはなっていた。男からそれは見えないし、たとえ声が潤んでいても、慣れから放っておいてくれる。歩みは一定で、パトカーは通り過ぎただけのようだった。
「携帯」
「へ?」
「持ってるだろ、携帯くらい」
はあまあ女子高生ですし。
こんな声音で聞かれる内容としては予想外で、流れがつかめずに曖昧な返答を返せば、肩の上で跳ねさせられた。
「ももも持ってます持ってます」
「出せ」
「今は学校に」
そういえばここはどこなのだろう。きょろきょろ辺りを見回しても、記憶と合致するところはない。ウェグワートは学校の近くだと言ったので、あまり行かない南側の地区だろうか。
今はいったいどこに居るのか。そして、どこに向かって……
「あっ! あの、学校に向かってほしいんですけど」
「ああ?」
「荷物ぜんぶ学校で、鍵とか、携帯も」
「わかってるよ」
「高校は一葉っていう」
「知ってる」
「えっ」
知ってるってなんで?
怪訝な顔をしたのが伝わったのか、「制服見りゃわかる」と付け足されたが、芽依子は制服から他の高校の名前を導き出せない。疑問は深まったが、続けて尋ねる勇気はなく、そうですかとだけ答えた。男は方向を変えなかったから、はじめから学校に向かっていてくれたのかもしれない。
せめて邪魔にならないようにしよう、そう思って力を抜こうとしたが、まだ会話の途中だったことに気付いた。
「携帯がなんなんですか?」
壊されるんだろうか。八つ当たり?
それか、GPSの代わりとして、追跡アプリでも入れられるんだろうか。そんなことになるなら受信機を渡す。
まさか芽依子の懸念に気付いてはいないだろうが、男は面倒そうに舌を打った。
「携帯が必要なことったら決まってんだろうが、連絡先交換すんだよ。出かける予定はメールしろ。居場所の検討がつきやすくなる。今日みたいなのはさすがにどうにもなんねーが」
「えっ、いや、そんな」
「探す方が手間なんだよどあほ」
「そんな」の続きは手間を遠慮する言葉ではなかったのだが、芽依子が彼に逆らえるわけがない。
学校に到着して、身支度まで終えると、帰路につく前にアドレス帳の登録が一件増やされた。そういえばバレーボールをどこかに落としてきてしまったが、探しにはいけないのであきらめることにした。
家に帰ってからアドレスを確認すると、なんと男の名前もきちんと入っていて、驚いて三度見してしまった。
ほんとうの名前なんだろうか。口に乗せると、誰も帰っていないひとりの家に細い声が響いた。
「本条、……」
フルネームだったけれど下の名前が読めずに、インターネットで検索した。なんとなく恥ずかしい。男は、安曇、と書いてあづみと読むらしい。
そちらは声に出さないで、携帯を閉じた。なんだか、突然”呼んでも良い相手”になったような気がして落ち着かないけれど、そんなことはないのだと自分に言い聞かす。助けてもらえるだなんて、そんな期待をすべきじゃない。
だって芽依子は、やっぱりどうしたって、彼の望むものを用意できないのだから。




