洋館の犬 プロローグ
本作品は、プロローグ版です。
そのため完結しておりません。(本編は改めて書きます)
彼は、霞む目で見なれた洋館の窓を見た。もう誰もいないはずのその部屋の窓が彼には開いたように見えた。
レベッカが、金髪の巻き毛を揺らしながら手を振っていた。懐かしい、久しぶりにあの笑顔を目にして彼は満足だった。自分がねむるのはもうすぐだと、そう感じた。
煉瓦造りの大きな洋館が街外れに建っていた。
大きいには大きいのだが、壁の煉瓦が所々割れており近づくと古さを隠し切れない。
確かに豪邸ではあったが、秀逸という程ではなく飾り気のないどこかのっそりとした風貌の邸宅であった。
ずいぶん前に外れた妻飾りが、朽ちかけた物置小屋の柱からはみ出した釘の先に無造作に掛けられている。
洋館の前を通る街道にはほとんど人も馬車も通らず、周りには目立つ建物もない。
この辺りは背後の山から吹き降ろす乾いた風が数キロ離れたアール川へ抜けて休むこと無く吹き続けている。
その風は朝も夜も片時も休まないのだ。だから辺りには誰も住んでおらず、この洋館が有る事がむしろ奇妙ですらあった。吹きさらしの牧場の霞んだ緑が風にざわざわと流れ、ところどころペンキの禿げた牛止めの柵が奥の牛舎の後ろから牧場をぐるりと取り囲んでいた。といっても、牛舎の中にもはや一頭の牛も繋がれていない。吹き込んだ風によって積まれていた藁が弾けた水泡のように散らばっていた。
この家の主はテオドール・ハイマンという市議会の代議士だった。またハイマンは資産家であった。資産家の多くが自宅に客を招いて贅沢な食事や楽士達の奏でる音楽に興じたのに比べ、ハイマンは休日には妻が庭に残したバラ園の世話をする他に特別な趣味はなかった。
庭は彼が一人で手入れをするには広すぎたが、休日には雑草を抜いたり水加減を変えたりと丁寧に面倒をみた。
彼の妻は病気で既に他界しており三人の兄妹が残されていた。
ハイマンと三人の兄妹、その他には家事をする住み込みの家政婦と馬車の面倒を見る使用人がいるだけだった。
ある日、洋館に犬が一匹もらわれてきた。右の耳の淵に斑がある以外は何の特徴もない犬だった。ハイマンは犬を飼う事に興味があったわけではなかったが5才になる末娘レベッカの遊び相手にと考えたのだ。レベッカには、ゲオルグという兄とイゾルデという姉がいるのだが、ゲオルグは先月から街の全寮制の大学に入学して家を出ているし、姉のイゾルデは母親に似て病気がちで一年の半分は伏せっている。そんな案配であったから、ハイマンは末娘が退屈するに違いないと思っていた。
好奇心旺盛なレベッカは、子犬がハイマン家にやってきたことを大変喜んだ。子犬を連れてきたのは、ハイマンの旧知の新聞記者であるベッカード氏である。その初め、子犬は見知らぬ場所に連れてこられたせいか情けないほどに大人しく尻尾を垂れ下げていた。元気よく吠えるどころか、物置の陰に隠れて出てこようとしない程である。
『これはなんとも、頼りない犬だなぁ』ハイマンはベッカード氏に言った。
『これで、本当にレベッカの遊び相手が務まるのかね』
『なぁに、大丈夫さ。この子の親犬は頭が良い事で評判だった。ハイマン家に貰われてくるのに相応しい血統の犬だぞ』口元のひげを指でなでるのがベッカード氏の癖だった。レベッカは目を見開いて子犬を眺めていた。手を出すでもなく、話しかけるでもない。ただ見つめるのだ。子犬はうつむいて目を伏せたままだった。
レベッカに懐いてくれないと子犬を飼う理由が無くなってしまう。しかしハイマンの心配をよそにレベッカと子犬の距離はその目線のいく方向と同じだけ近づきつつあった。
『ほら見てお父様、だんだんこっちを見てる』子犬は明らかにレベッカを意識していた。しゃがんで見つめるレベッカの表情は柔らかくハイマンには天使のように見える。レベッカの顔が天使のように見えるのは子犬の方も同じだったのだろう。子犬はゆっくりと一歩ずつレベッカに近づき、そしてレベッカの足元にすり寄った。レベッカは優しく優しくその頭を撫でた。子犬がレベッカのものになった瞬間であった。
「子犬ちゃん。私はまだちいさい子供だから、大きくなるまで私の事を守ってね」
レベッカはそう言った。そして子犬はその時の言葉を最後まで忠実に守ったのである。