ミルクのヒーロー
乳野ミルクの自宅には「ロッカー」が設えてある。
家と思って入ってみると、もう玄関先からズラリとロッカーが並んでいる。有体に言うとロッカールームのような空間であって、それはもう住居としてあるべき体裁をとっていない。
しかも本来の機能として使われているロッカーは一つもない。開ければそこは、研究所へ続く隠し通路であったり、開ければそこは、下水道へと続いている隠し通路であったり、開ければそこは、とあるフィットネスクラブに忍びこめる隠し通路であったり――、つまり全て「通路」の入り口なのである。
鋼板で組み上げられた全ロッカーの面には、真赤なフォントでナンバーが記されている。一番右側にある「1」番から左へズラーッと92個のロッカーが並び、そのうち「21」番と書かれたロッカーを開け、少し狭いけれど入り、そのまま頑張ってゆけば今度こそ「住居」として機能する「寝室」へ辿りつくことができる。通路の途中聞こえてくる雑音は周辺地域の施設(学校やオフィス、普通の民家など)から漏れてくるもので、やろうと思えば盗聴も可能だ。が、これが殊のほか罪悪感を伴うもので、乳野ミルクは滅多にしない。
ザ・簡素シンプル四角四面の寝室には、住居者である乳野ミルクが凝って集めた「白い物」がいっぱい置いてある。部屋の壁にカーペット、ソファ、かばん、ケータイ、ジャケット、テレビも、冷蔵庫と、それに自分の髪と犬の毛色まで全てが白い。「ホワイト」「純白」「牛乳」などと聞けばそれだけで気もそぞろ、背中がゾクッとするほど大好きなのだ。
乳野ミルクの朝はいつも予定調和で進む。無事に闇が去り、光のタームが始まることを喜びながら純白のカーテンを解き、途端にこぼれ出す朝日のまばゆさ、鳥のさえずりに心地よさをタップリと感じれば、次は歯を真っ白にすべくブラッシング作業に入る。ここで使う歯磨き粉がまた凝ったもので、チューブ単価6万円する高級なやつだ。嗅いだら最後、終日鼻がスース―しっぱなしで止まないトンデモナイ成分を含んでおり、常人には決して薦められない。
そのほか洗顔や髭剃り、ヘアーワックスでそれなりに身なりを決めこむなどしてライフサイクルをし終えれば、ふぅとソファで息をつく。世情の観察がためテレビをつける。
――調べによりますと犯人は、二十代男性で身長180センチ前後、筋肉質で黒い目出し帽に全身を黒ずくめにしているとのことです。地元の警察は事件の詳しい経緯など、周辺住民に情報提供を呼びかけています。
「へえー、世のなか変なヤツがいるもんだ」
「それ、乳野くんが言えるセリフじゃないでしょう」
背後の女性がたらした金髪が視界をふさいでしまってテレビが見えず、首を逸らそうとすると抱きつかれる。むぎゅう、と後頭部を押しつけるたわわな感触は、彼女の胸だ。なかなか魅力的な状態でホールドされてるなーと思っていると、リモコンを奪われて消される。
「そうやって事件フラグの立ちそうな事ばっかしてるから、いつも巻き込まれちゃうんだよ。何があったって今日ばかりはダメなんだよ。約束したんだもの。私につくして」
白い細腕に少しばかし力を込めてくると、お願い、と念を押してくる。
「わかってるよ大丈夫。今日は君のために1日を費やす、クリスマスだ。……それにね、誤解しているようだけど、いつも巻き込んでくるのは博士であってボクのせいじゃない」
普段の学生生活であれば乳野ミルクは朝を一人で迎えるが、今日は特別な休みの日「クリスマス・イブ」ということもあって彼女――モモコも朝っぱらからしっかりと居座っている。昨夜を共にしたというわけではない。明け方に「監視」を目的としてやって来たのだ。
理由は、乳野ミルクが常日頃から約束をすっぽかさなければならないというような状態に追い込まれるほど忙しい人間だからだ。各方面、「困っているヒト」に引っぱりだこで、もっとも愛されるべきはずの彼女が、なんだか最近もっとも蔑ろにされているという状態を受けて、ついにプチッと怒った。それが1か月前、ちょうど彼女の誕生した日付のことで、言い分はこうだ。
【――もういい! どうっでもいい! どうせいつもの「断れない用事」のほうが大切なんでしょう!? 私のことなんか二の次三の次で、付き合ってるなんて形式だけだもんね!? 好きでもなんでもないなら、はっきり言ってくれればいいじゃない! いつもごめんごめんって、聞き飽きたよそんなの、もう知らないよ!】
ぐっしゃり泣きじゃくって、うえんうえん! 言うもんだから終始何がなんだかわからなかったけれど、多感な年ごろの女の子が色々と辛い目にあって、心の支えと思っていた「彼」にすら誕生日を完全に忘れ去られたとあっては、一壊れ、二壊れしてもおかしくはなかったかもしれない。
そこで乳野ミルクは、モモコに対してちゃんとわけを話した。内容はこうだ。
【キミの誕生日を忘れていたワケじゃないんだ。たとえば、赤ん坊が悪党にさらわれて、その行方を突き止めて戦わなければならなくなったとき、当然の成り行きとしてだけれど、そのシチュからヒーローが退くことなんかできないだろう? 同じようにボクもあの日、ちょうどキミへのプレゼントを買った帰りだったと思うけれど、退くことのできない問題に直面してしまったのだよ、ほんと】
【うそ言うなら、もっとまともなこと言ってよ】
【うそじゃない。ボクは牛乳を飲むと強くなる、ミルクのヒーローなんだ】
完全にあきれ返った彼女が一笑いもせずにその場から立ち去ろうとしたとき、乳野ミルクはため息混じりに博士の造った特製冷や冷や水筒をポケットから取り出して、その中身をごっくりごっくりと飲み始めた。そして変身したわけだ、禁忌とされてきた一般人の前で。
そんなワケで、クリスマスだけは必ず一緒にいるよ、と約束した二人の朝なのである。