若葉
殿下視点です。
学院と王都は、ほんの少ししか離れていないのに、かなり気候が違う。暑さ寒さが穏やかなのだ。学院全体に掛かっている魔法の影響だといわれている。真夏や真冬になると、殊にそれを実感する。
そういえば、嵐や落雷の類もあまりない。……学生が引き起こすものを除けば。
学院内では、あらゆる意味で学生が守られている。妨げられないものがあるとすれば、人間関係の軋轢から生ずる悪意、くらいだろう。それだって、学院の外で渦巻いているそれに比べれば、かわいいものだ。
しばらく学院を離れてみると、強くそれを感じる。
学生としては不出来な部類に入る自分でも、学生全体に掛かっている魔法の恩恵に与れるのだ。この魔法を構築した誰かは、よほど学生の安全に心を砕いたのだろう。いや、学生に限らず、この中にいる人間すべての安全に、かもしれないが。
鍛練場から寮へ向かう道すがら、ぼんやりとそんな考え事をしていると、前方の生垣ががさがさと動くのが見えた。
この森に小動物が棲んでいる、という話は聞いたことがある。それを捕食する小型の猛禽類がいるかもしれない、という噂も。
だが、前方から漂ってくる気配は、もっと大きなもの。熊や鹿ほどは大きくないが、兎よりは大きなもの。
何だろう、と考えていると、生垣の間からそれが飛び出てきた。見覚えのある白い四つ足の獣、いや、幻獣。
ということは。
やや間を置いて、さっきよりも大きく生垣が揺らぐ。何やらぶつぶつと不満を零しながら、白い小さな手が生垣の間から現れた。
「もう、ちびちゃんてば、なんでこっちは広げてくれないのよぅ」
無意識に掴んでいた長剣の柄から手を離す。
何度も枝を掴み損ねてジタバタしている手の許へ歩み寄る。細い手首を掴んで、ぐいっと引っ張り上げると、「ひゃあ」という間抜けな悲鳴とともに少女が姿を現す。いつもは固く編まれている髪が下ろされていて、少し大人びて……いや、妖精じみて見える。
「あ、ありがとうございま……す!?」
戸惑ったような謝礼の声が、ぎくりと固まる。
「軽いな。病み上がりだからか?」
彼女が、何やら性質の悪い風邪で施療院に収容されている、という話は聞いていた。他人にうつる恐れがあるので見舞いが制限されているとも。どうやら、無事に出てこられたらしい。
「病み上がりだからというか……口の中が痛くてあまり食べられなかったので。いろいろ工夫はしてくれたみたいですけど。……それより、下ろしていただけますか?」
「病み上がりで、こんなところを抜けてきた正当な理由を聞かせてくれるなら」
えー、と不満そうな声が上がる。抱え上げられているのが不満なのか、抱え方が不満なのか。どのみち、寮の入り口はすぐそこなのだ。一言で説明を終えない限り、寮にたどり着いてしまうだろう。
「一言でいえば、迷ったから、です」
「……学院内で?」
学生が学院内で迷うことは珍しい。目的もなく散策していて、現在位置が判らなくなる、などということはあるらしいが。
「学院内で、です。二回曲がれば寮に着くよ、って教えられたのに。歩いても歩いても建物の影も形も見えなくて」
「それで自棄になって近道を?」
危険な行為だと思う。森の『中』は職員の手が入っていないのだ。未確認の野生動物がいないとも限らないし、……少なくとも兎は確認されているのだ。うっかり兎穴を踏み抜いてしまったら怪我でもしかねない。
……まあ、辺境育ちの彼女の場合、そういう危険性は熟知しているだろうが。たぶん。
「自棄にはなりましたけども……自分から飛び込んでった訳ではありません」
「は?」
「ちびちゃんに道案内を頼んだら、生け垣の向こうに飛び込んでしまって。仕方なく後をついてきたら……こう、です」
ああ、そういえば白いリンドブルムが先導していたな。……で、ヤツはどこへ行った? いつもなら抱え上げたところでがぶりと来そうなものだが。
「君よりも君のリンドブルムの方が、学院内には詳しい、ってこと?」
常に一緒にいるような気がするが。あるいはこの子、方向音痴なのか?
「そういう訳ではありませんが……ちびちゃんなら惑わされずに辿り着くかな、って」
「……惑わされ……?」
誰に?
「この、道が、魔法で繋げられているのはご存知ですよね?」
そう言って背後に続く径を指さす。当たり前のように言うが、まったくそんなことは知らない。……学院内の案内図というものが存在しないし、人によって施設間の体感距離が違うので、あるいは、と疑ったことはあるが。
「…………ああ」
知らなかったことを認め難いので、返事がややぶっきらぼうになる。認めたくはないが、見栄を張ったのだ。
「なので、ある程度の魔力があれば、道に干渉できるわけですよ」
だが、その見栄に気付いた様子もなく、淡々と説明を続ける。その淡白さが心地よいような腹立たしいような。
「ここにはそういったモノが他所よりも多いらしくって。ちびちゃんはあれでもリンドブルムだから、そういうイタズラをするモノたちにニラミが利かせられるんです」
「……もの? 人ではなくて?」
「人かもしれませんが、その場合どうしても痕跡が……って、説明したんだから下ろしてくださいよっ!」
急にじたばたと暴れ始める。角を曲がったところで急に建物が目に入ったからだろう。
「ははっ。もうすぐ入口に着くな。ついでだから部屋まで送ってやろうか? 病み上がりだし、妙なとこを通ってきたから、ケガとかしてないか?」
「遠慮しますっ! ケガもしてませんっ! だから、下ろしてくださいぃっ!」
「暴れるな、騒ぐな、注目を浴びるぞ」
王都ほどではないとはいえ、日中はかなり暑い。なので窓もドアも開けっ放しだ。外で甲高い声がしたら注目間違いなしだ。それを指摘すると、不満げな顔だがおとなしくなる。
入口の階段を上ったところで下してやると、「……ありがとうございました」と、不満がこもった表情で謝礼が返ってきた。
立ち去ろうとする後頭部に手を伸ばすと、「ふぎゃっ」とまた間抜けな声を出す。
「変わった髪飾りをつけてるな」
緩やかにうねるプラチナブロンドに、枯れ枝が絡みついている。それも、見える範囲で四つも。取って見せてやると、「だから生垣はぁー」と溜め息を吐く。そこは顔を赤らめるところじゃないのか。……いや、ここで頬を染められてもどうしたらいいか戸惑ってしまうのだが。
「……ああ、そうだ。土産の菓子があるんだが、食べられそうなら届けるぞ」
何かのついでのように言うと、弾かれたようにこちらを振り仰ぐ。
「大丈夫! 食べられる! ありがとう! ……ございますっ!」
若葉の色の目が、嬉しそうにキラキラと輝く。
「取ってつけたように敬語にしなくても」
「だってだって! 建国祭、見そびれてしまったんだもん。……みんながお見舞いって言ってお土産を持ってきてくれたんだけど。……あ、そうだ。えーと、殿下は、『殿下』だから、中心で建国祭を見てるんですよね?」
何だその『殿下は殿下だから』っていうのは。言いたいことの意味はなんとなく解るが。
「まあ……そういう事になるかな」
「建国祭って何するのか、みんな『行けばわかる』って言って教えてくれなかったんです。で、結局行けなかったから、いまだにどんなお祭りかわからなくて。できれば話も聞きたいなー、なんて……だめですか?」
「あー……だめってことはないが……期待したような面白い話になるって保証はないぞ?」
彼女が何を求めているかはわからないが、聞きたい、というなら話してもいいだろう。……機密に関わるようなことでなければ。
「殿下は毎回参加してるから飽き飽きしてるんでしょうけど、王宮の行事を! 当事者の口から! 聞ける機会なんて、そうあるものじゃないでしょう?」
胸の前で握り拳を作って力説する。
そう言われればそうかもしれない。今までこんなあからさまに聞きたがられたことはなかったけれど。
「そうかもな。じゃあ、談話室で待っててくれないか? 部屋に戻って取ってくるから」
「はい!」
わあ、楽しみ、という表情で思い切りうなずかれた。
そういえば、建国祭の間は、話をしたがる人は多かったが、話を聞きたがられたことはなかったかもしれないな。社交辞令以上には。
殿下の抱え方はあこがれの『お姫様抱っこ』ではなくて、幼児がされる縦抱っこでした。
どっちにしろ人に見られたら恥ずかしいに違いない。




