決心
「ちびちゃん、おいでー」
少女の、高く、澄んだ声が響く。
屋根の上にうずくまっていたリンドブルムが翼を広げて宙に飛び出す。
リンドブルムは長い翼を広げて滑空し、少女の腕の中に飛び込む。
「上手上手ー」
甘えるリンドブルムを『よくできました』とばかりに少女が撫でまわす。
「上手上手、じゃないでしょ。まっすぐ飛んでったらだめでしょうが。もう少し滞空時間を伸ばさないと」
リンドブルムを甘やかす娘を屋根の上で籠を抱えた母親がたしなめる。
リンドブルムの飛行訓練中なのだ。
娘が拾ってからおよそ十年。リンドブルムの大きさはその間さほど変わっていない。
だが、その姿は大きく変わった。
ほっそりとしなやかな体に頑丈な四肢。細長く大きな翼。
何よりも変わったのはその体の色だ。灰色がかった茶色だった体は今、真珠光沢のある純白に変わっている。
全体的に優美な姿だが、龍族としての力強さには欠ける。
体型や体色の変化に気付いた少女は、それが『ちびちゃん』の衰弱の兆しではないかとうろたえた。だが、そのことを訴えた母親が、困惑の表情を浮かべたものの衰弱はしていない、と請け合ったのでそのままにしていたら、現在のような姿になっている。
「だって……」
「だって、じゃないでしょ。ちびちゃんが近づいてきたら、後ろへ下がるなり横に避けるなりして飛ぶ距離を稼ぐようにしないと」
いつも言ってるでしょ、と母親が愚痴る。
「私が手伝えるのは一日一回っていうのも覚えてるわよね? 明日はもう少し距離を稼ぐようにしてね」
呆れたかのようにそう言うと、母親は籠を背負って屋根を下り始める。母親だって暇なわけではないのだ。
残りの時間は自主訓練だ。……ちびちゃんの食事も兼ねて。
白い生き物が草原を疾駆する。獲物が地面に開いた穴に潜り込もうとする刹那、捕食者が地を蹴って跳躍し、獲物を仕留める。
捕食者の牙が獲物の首筋に突き立った瞬間、獲物の体は跡形もなく消え失せる。
龍の眷属、中でも下位の者の多くは獲物の追いつめられる恐怖や断末魔の苦鳴も力として摂取する。だが、渠は一瞬で獲物を吸収することにしている。渠の主が獲物の苦鳴を耳にすることを厭うからだ。
そのために渠は俊敏に動く体を手に入れた。一撃で獲物を仕留める技術も。
獲物から得られる力は、渠自身を満たし、渠の体の隅々にまで満ち亘る。不可欠、とは言えないものの、渠に必要なものだ。
だが。
主が齎す優しく温かい感情は甘美で、ほんのわずかでも渠を満たすのだ。
だから、それを余すところなく享受したくてに、渠は主の許を離れられないのだ。……主が厭う食事のときを除いて。
食事を終えて主の許へ駆け戻る。
少女が両親と暮らす森はとても広い。不自然なほどに、広い。
あまりに広すぎて全体が把握できない。
なので森の奥まで足を踏み入れるものはあまりいない。少女の家も森をほんの少し入っただけのところにある。
「もう食事はおしまい?」
駆け寄ってくるリンドブルムを抱きとめて少女が言う。リンドブルムは少女の体をよじ登り、定位置に陣取る。
「今日はどこで訓練しようか? ……めぼしい樹は大体制覇しちゃったし、……ちょっと足を延ばしてみようか、新しい手頃な樹が見つかるかもしれないし」
本当は、少女にもわかっているのだ。どれほど高いところから飛び下りることができるようになっても、『飛翔』することには結びつかないのだ、と。
この十年、何か参考になるかも、と思って毎年のように鳥の巣立ちを観察した。
鳥の雛は小さくて、あまり参考にはならない、と思った。森の外、村と低地とを隔てる山の上の方には、大型の猛禽類がいて、春先から初夏にかけて営巣している、というのを最近聞き知った。……ちょっと出かけて行って観察しよう、というには遠すぎるが。
だが、大型猛禽類の飛行だって龍の飛翔とは本質的には異なるものなのだ。
龍族に限らず、空を飛ぶ幻獣たちは、自らの魔力で自分の体重を支えて空を翔る。翼のある種であってもそれは同じだ。翼は方向転換や制動の補助にしかならない。
『ちびちゃん』に体重を制御する魔力がないわけではないのは判っている。抱きかかえる時にふっと重さが軽くなる瞬間があるのだ。明らかに、少女の負担にならないよう、ちびちゃんが体重をコントロールしているのだ。
「……あたしのせい、なのかなあ……?」
ちびちゃんを甘やかしている、という自覚はある。移動している時もこうやって背負っていることも含めて。
だから、ちびちゃんが『親離れ』できなくて、結果、『巣立ち』ができないのだとしたら……?
「……ああでも、こんな風に甘えてくる子を突き放すなんてできないよ」
ちびちゃんが『甘えている』のではなく、『恍惚としている』あるいは『酔っている』のだと気付くには、少女はあまりに経験が少なすぎた。
「……やっぱり、あたしが自分で訓練するのは無理、なのかなあ……?」
でも、誰を頼ればいいのか。
母親には頼れない。ちびちゃんの面倒は自分で見る、と約束している。
父親の方はちびちゃんに警戒されまくりで、触れることすらできないでいるのでお話にならない。
両親のどちらも、……困ったときには相談に乗る、と言ってくれているが……
「……うん、相談してみよう。……もしかしたら、ちびちゃんをビシバシ鍛えてくれる知り合いがいるかもしれないし」
少女のつぶやきに『ちびちゃん』が内心悲鳴を上げたが、鋭い『耳』を持つ少女は聞かなかったことにした。