衣更え 3
談話室のドアがそうっと開いて、一人、また一人と、中から人が出てくる。なんだか気まずそうな表情で。
その様子を見て、固まっていた人々が肩を竦めて中止していた動作を再開する。……大方は、食堂の方へ移動し始める。
……いったい何だろう?
ソフィアは首を傾げる。
さっきの音と悲鳴、それに、避難してきたらしい人たちの表情。明らかに何かあったようだが、深刻な事態ではなさそうだ。
ソフィアと同様に怪訝そうな顔をしているのは、おそらくこの春入った新入生。何があったのか、と訊ねる声も聞こえるが、それに対する返答は
「気にするな」
「よくあることだ。慣れろ」
だった。
答えになっていない。
だが、答えが得られない、ということは、首を突っ込まない方がいい、という事なのだろう。
……でも。
…………気になる。
………………ちょっと覗いてみたい。
ソフィアは談話室の入り口にそっと近寄り、ゆっくりとドアを開け、ようとした。
が、ノブを掴んだところでドアが引かれてソフィアはよろけた。
「……おっと」
転びそうになるところを、中から出てこようとした人物に支えられる。
そのまま談話室の外に押し出されてしまった。
「あの、」
「談話室に急用? 忘れ物か何かだったら、後にした方がいい」
抗議しようとすると、遮る声が頭上から降ってきた。……まあ別に用があるわけではないのだが。
「すみません。ところでいったい中で……」
何が起こっているのか、と訊ねようとして顔を上げ、よく見えなかったので少し体を離してそれが誰だか気付いた。
「……殿下」
接触禁止人物だ。だが、この場合は不可抗力というものだろう。
ソフィアは慌てて飛び離れ、はずみで抱えていたものを落としてしまった。
「おっと」
「……あ」
床に落ちるすんでのところで、掬い上げられる。王太子殿下の長い脚で。
掬い上げられた夏服一式(プラス洗い替えのブラウス)は、一度広げられた後、軽く畳み直されてソフィアの腕に戻された。するといきなりリンドブルムがソフィアの肩口に現れた。
「ちびちゃん、ハウス」
ソフィアの前に立つ青年に向かって威嚇するリンドブルムを窘めるように戻す。
落し物がすべて戻されたところで、軽く頭を下げ、礼の言葉を口にする。
「……ありがとう、ございます?」
床に落ちなかったのはありがたいが、蹴り上げられるような形になったのは、いささか微妙だ。これが食べ物だったら、謝礼の言葉など出てこなかっただろう。
「なぜ疑問形」
頭上から苦笑が落ちてきて、ソフィアが慌てる。
「いっ、いえ。……重ね重ねお手数をおかけして、どうもすみません」
頭を下げて踵を返そうとし、ふと思いとどまる。
ものはついでだ。覗き見できないのなら、訊いてしまおう。
ソフィアは後ろに向きかけた体を戻し、談話室のドアの方を指さして訊ねる。
「ところで、さっきのあの音、何だったんですか?」
「あれか? ……女子の副寮長がテーブルを投げたんだ」
少し迷ったように間を置いた答えを聞いたソフィアが首を傾げる。
音の正体は判ったが、謎が増えた。なんでテーブルなんか投げたんだ?
少し考えて、ありえないとは思うが、一応思いついた答えを口に出してみる。
「……ヘビとかネズミとかでも出たんですか?」
それに、副寮長は二人いるが、どっちだろう?
「いや、出てないし、そういうものに驚いて物を投げつけるようなタイプではないだろう?」
タイプって。驚いて投げるにしては、テーブルは大きすぎるだろう。
それとも王宮周辺には、そういうご令嬢がいるのだろうか。
ソフィアはドレスを着た令嬢がテーブルを放り投げる様を想像して、笑みを浮かべた。
「そうですね。ではなぜそのような状況に?」
「聞かない方がいい。馬鹿らしいから」
「ば、馬鹿らしい?」
……というと、あれか。犬も喰わない、とかいう。
だとしたら、相手が誰だか気になるが。
「ところで、それ夏服だろう? ブラウスが長袖みたいだけど、暑くないの?」
「ええ、まあ……多少は暑いかもしれませんが、ひっかき傷を作るよりはましかと」
「ひっかき傷?」
「ちびちゃんの飛行訓練で……受け止める時に爪や翼の先端で、たまに」
ああ、なるほど、とうなずきかけた王太子殿下があれ? と首を傾げる。
「飛行訓練? 『ちびちゃん』って、リンドブルムだろう?」
「そうですが……飛翔が、できないんです。小さい頃に瀕死のけがを負って」
「それで、飛行訓練?」
「はい」
「ふぅん……前に見た時は飛べてたように思うんだけど?」
「ええと……滑空することはできるんです。高いとこから飛び下りて、うまく風に乗ることができれば、かなり長く」
「へぇ。……それであの羽」
飛ぶことが理に適う、大きな翼。もともとあの形ではなかっただろうが。
「飛べないんじゃなくて、飛ばない、んじゃないかな」
ぼそりとつぶやいた言葉は、ソフィアの耳に入らなかったようだ。件のリンドブルムがまたソフィアの背中に現れたので。
「もう、ちびちゃんてば。これクローゼットにしまうまでおとなしくしてて、って言ったのに」
帰還命令を口にする前に、ソフィアの肩からリンドブルムがいなくなった。目の前に立つ青年がひょいと掴み上げたのだ。
手早く口と四肢を封じ、矯めつ眇めつしてじっくりとリンドブルムを観察する。
「……あの?」
「見た目よりも軽いけど、鳥ほどではないな。翼を動かす筋肉は……」
「あの、ちびちゃんをどうするおつもりで?」
「ん? ああ。別に危害を加えるつもりはないよ。興味深いけどね。……という訳で、飛行訓練、もう一度見せてもらえないかな、近くで」
「……え?」
リンドブルムを抱え……掴んだまま、王太子殿下が寮の入り口に向かう。
「あ、あのっ……今から、ですか?」
「うん。何しろ接触禁止指定されてるそうだから?」
だからお目付け役に見つからないうちに、と、ソフィアの耳元に顔を近づけた殿下が囁く。
殿下名前が設定されているのに呼ばれません。不憫。




