飛べない翼
暗闇の中。
カリカリと何かが固い物を齧る音が続く。やがて、小さな獣が床を走る音が響き、チチッと微かな鳴き声が続く。
と、音もなく何かが動く気配。
次の瞬間、甲高い断末魔の叫びを残し、小さな獣は消失した。
一夜明けて。
「あーあ、やられたか」
壁に開いた穴を見つけて母親が嘆く。
「でも、被害は壁だけですよ。ちびちゃんのおかげですね」
室内を点検していた父親がとりなす。
「そこんとこはありがたいけど……建物の壁に沿って結界の網を細かくしないとダメか」
以前は敷地全体に張っていた障害物忌避結界を、捕食生物の食事のために縮小したのだが、どうも微調整がうまくいっていない。
が、何より。
「それよりも、外で狩りしてきてくれるようになるとありがたいんだけどねぇ。自力で飛翔して」
母親がそう苦情を言うと、
「だってあたしからはなれないんだもん」
と件の『ちびちゃん』を背負った娘が答えた。ちびちゃんは娘が起きている間中、基本的にずっと張り付いているし、寝ている時も敷地外には出て行かない。
「……森の連中はおおむね夜行性だからね。昼間はともかく、夜のお散歩は許可できないし」
昼間ならば何かあっても人がいる。だが、日が暮れてしまうと、家の周囲には家族だけになってしまう。
「問題点はそこではないでしょう?」
娘がはぐらかそうとした問題点を父親が冷静に指摘する。
「……そうだね。ちびちゃんが自力で飛べないのが問題なんだった」
ちびちゃんはリンドブルムだ。
翼龍は大空を翔る龍の眷属だ。
だが、ちびちゃんは瀕死の重傷を負って拾われて以来、飛ばない。飛ばないのか、飛べないのかは定かでないが。
「体の傷はきれいに治ってる。翼も含めて。『存在』としても欠けたところは見当たらない。魔力も十分に足りてるように見える。……トラウマってやつかねぇ?」
「とらうま、って何?」
娘がその言葉を口にした母親の方ではなくて、父親の方を向いて訊ねる。難しい言葉は父親に聞くに限る、と思っているのだ。
「んー……死にそうな目に遭ったことを、心がいつまでも忘れないこと、かな?」
娘に解りやすい言葉を選んでそう説明する。
「そっか。……おそらをとんでてこわいめにあったから、もうとびたくない、っておもってる、ってこと?」
「ちょっと違う。『飛びたくないと思ってる』んじゃなくて『飛びたくても飛べない』んだよ」
言いながら、まだ納得していなさそうな娘の頭を撫でる。背中のリンドブルムが威嚇してくるのは何とかならないものだろうか、と思いながら。
「まあ、ちびちゃんのことは、しばらく様子を見ましょ。成長したら飛べるようになるかもしれないし」
でも、その見込みは薄いだろうな、と両親はともに考えていた。なにしろちびちゃんは食事の時以外常に娘に張り付いているのだ。娘に、重くないのか、と訊いてみても、重くない、と返ってくる始末だ。抱えてみればそれなりの重さがあるのだから、ちびちゃん自身が娘の負担にならないよう、自分の重さをどうにかしているのだろう。おそらくは、魔法で。
幻獣の使う魔法についてはよくわからないところが多い。幻獣が魔法を使うのは本能のようなもので、おそらく幻獣自身もその原理や限界などはよくわからないのだろう。
「そうですね。それより、壁の穴を塞がないと」
どうやら娘を伴侶だか主だかと思い定めているらしいリンドブルムの変化を促すには、娘の成長を待つしかないのだろう、と両親はともに嘆息した。