邂逅・2
「今の時間は空き時間でしたかしら、殿下?」
確かに、今は空き時間ではない。だが。
「……別にサボっていたわけでは……」
【基礎実習Ⅰ】は今期で三回目の受講だし、今日は座学の試験だった。答案用紙は提出して出てきているのだから、咎められる筋合いはない。
「ところで、その、『殿下』ってわざとらしく連呼するのはやめてくれませんかね。その子……学生さんがびっくりしている」
学院生はたとえ年齢が一桁のコドモであっても『学生』と呼ぶのが習わしだ。……さすがに一桁の年齢で入学した例はないが。
「あのぉ……『殿下』というと……王族の方? ……でしょうか?」
リンドブルムを抱えた少女、ソフィアが、恐る恐る口を挟んでくる。
「……いったいどちらの大公家の公子であらせられるんでしょうか?」
……驚いた。新学期が始まってひと月過ぎたのに、今在学している王族を把握していない学生がいるとは。
「ソフィア。この方の名は、アドルフ・ゲオルギウス・ゲオルギア。王太子殿下であらせられるのよ。ついでに言えば、今現在ここに在学中の『殿下』はこの方一人。公子殿下も、公女殿下も、今はおられません。……解った?」
少女……ソフィアが機械的にうなずく。その様子を見た女性……確かフェイという新人教師――去年までは研究生として在学していたはずだ――が、苦笑をこらえられない様子でこちらを向く。
「どうやら、ゲオルギア家の家系図は、国内に遍く知れ渡っているわけではないようですわね」
それくらいのことは理解していたつもりだった。が、まさか『王立』を冠する学院で、王族の構成を把握していない学生がいるとは思ってもみなかった。
いや、顔がわからないのは、まあ、仕方がない。
だが、今の反応を見ると……名前も知らなかったようだぞ?
『王太子』という単語が出るまで、表情が変わらなかったし……
……まさか、王家の家名を知らない、などということは……
「あのぅ…………もしかしたら、お気を悪くされましたでしょうか」
再びソフィアが恐る恐る、といった様子でこちらに訊ねるのを、フェイ教師が遮る。
「ソフィアが気にすることではないのよ。自分たちのことを知らしめるのは、王族にとっては義務なんですから。知らない国民がいる、というのは、ご自分の努力不足を突きつけられるようなものです。だから、ショックを受けてらっしゃるんですわ」
「ああ……それでしたら、お気になさることはありません。うちの方はとびきり辺境なので、中央の情報が全くと言っていいほど入ってこないんです」
……それは、フォローのつもりなのだろうか。
そうなのだろう、たぶん。
あの、邪気のない微笑みを見れば、悪気がないのは、判る。
何やら含むところでいっぱいの、彼女の専任教師の言葉に比べれば。
それより、さっきから気になることが。
「ところでフェイ先生。どうしてその子を隠そうとしているんです?」
ソフィアが横から顔を出すたびに半歩ずつ体をずらしている。わざとらしい。
「大した理由ではありませんわ。教授会からの非公式なお達しで、ゲオルギアの名を持つ男子学生をこの子に近づけないように、といわれておりますの」
……ついさっき、男女を問わず、『ゲオルギアの名を持つ学生』は現在一人しか在学していない、と、ソフィアに説明していなかったか?
しかも、非公式のお達し? 教授会からの?
「…………理由を伺ってもよろしいか?」
「理由まではお答えいたしかねますわ。身に覚えはございませんこと?」
「あるわけはないだろう。互いに一面識もないのだぞ?」
「それは良うございました。でしたら、この子のことは、可及的速やかにお忘れいただけると、私も助かるのですが」
「あの……私も理由をお伺いしたいのですが」
背中越しに聞こえる声に、フェイが振り返る。
「……そうね。ソフィアには理由は教えておいた方がいいわね。……でも、それはあとで」
「大体、それならどうして、さっきこちらに呼びかけたりした?」
あそこで呼び掛けられなかったら、こんな風に言葉を交わす(会話が途中でフェイにぶった切られているが)ことにはならなかったはずだ。
その上名前まで紹介したし。
「授業を盗み見されるのも困りますの。この子に関しては」
盗み見だなんて、人聞きの悪い。後からやってきたのはそちらのほうなのに。そう言おうとしたときにはフェイ講師は完全にソフィアの方に向き直っていて、この場からの撤収にかかっていた。
「非公式のお達しなので、誰かに理由をお聞きになったとしても、答えは返ってこないと思いますわ。知りたければ、ご自分の普段の振る舞いを振り返ってみればよろしいのではないでしょうか?」
女性講師はそう言い残して、リンドブルムを抱えたままの少女を促して足早にその場を立ち去って行った。……授業時間はまだ残っているのに。
それにしても、普段の振る舞い、とはいったい何を指すのだろう?
男女を問わず、年少者には親切に振る舞うよう心がけているのに。
そうでなくても『学院』の学生は将来の側近候補だと聞かされているから、余計な反感は持たれないよう心掛けているし。だから一人でいる時は放っておいてもらいたかったんだが。
…………そういえば、さっきリュックを拾い上げるとき、『年頃の若い娘』と言ったような気がするが……
……年頃、だって?
十歳を超えたか超えないか、くらいに見えたが。あの少女、いったい何歳だ?
彼女が新入生だ、というのは、判っている。いろいろと噂は入ってきているから。だとすると、十五・六?
いや、学院は年齢制限を設けてないから、もっと下ってことも……
でも、あのしゃべり方はコドモのものではないし……
そういえば、幻獣と契約した者は、肉体的に歳を取らない、って習ったような気が。
……まさか、倍まではいってない、よな?
あれで年上とかって……考えたくない。




